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80日間世界一周


..第一章:フィリアス・フォッグとパスパルトゥーが主従契約を結ぶこと
 時は千八百七十二年、フィリアス・フォッグという人がバーリントン・ガーデンズ・サヴィル街七番地に住んでいた。彼自身はいつも人目を避けるようにしていたのだろうが、彼はリフォーム・クラブのメンバーの中で注目に値する人物であった。フィリアス・フォッグは、上品なふるまいをする紳士であるという以外にはほとんど分からないことだらけという、なぞめいた人物であった。人々は「彼は詩人バイロンにそっくりだ。少なくとも、彼の頭はまるでバイロンのようだ。」と噂していた。もっとも、彼はひげを生やしており、穏和で、千年生きていても年をとらなかったバイロンのようであった。


 まちがいなく彼は英国人であった。しかしロンドン生まれであるかどうかは疑問が残る。取引所でも銀行でも、シティーのいかなる商店でも、その姿を見ることはなかった。ロンドンのドックに彼が船主である船が来たこともなかったし、いかなる役職にも就いていなかった。彼は弁護士学校に通ったことはなく、二つのテンプル、リンカーンズ・イン、グレース・インのいずれの会員にもなっていなかった。彼は大法官府でも財務府でも王座裁判所でも宗教裁判所でも、弁論を繰りひろげたことがなかった。彼はもちろん職人ではなかったし、商人でも農場経営者でもなかった。彼の名前は科学者の間でも他の意味での学者の間でも知られておらず、王立研究所でもロンドン協会でも熟練工の組合でも芸術や科学の協会でも(議論の中でさえも)知られていなかった。事実彼は、英国の中心地にうじゃうじゃ発生した、多くの集団のどれにも属していなかった。
 フィリアス・フォッグはリフォーム・クラブのメンバーであり、そしてそれが彼の肩書きのすべてであった。リフォーム・クラブという高級なクラブに、フィリアス・フォッグが入会を許された理由はごく単純であった。ベアリング商会によってクラブに推薦されたのだ。フィリアス・フォッグは、確実な信用をそこに積み重ねていた。彼の小切手は常に彼名義の当座預金から正確に決済されていたのである。
 彼は金持ちだったのか? もちろんそうである。しかし、彼をもっともよく知る人でも、どうやってその財産を得たのかは想像できなかった。その情報を得るのに彼ほど不適当な人物はいなかった。彼には浪費癖はなく、さりとて欲深ではなかった。何か高尚なことや有益なことや慈善目的のためにお金が必要なことが生じたときには、無言で、時には名前を明かさずに寄付をしていたのである。彼は要するに口数の少ない男であった。本当に少ししか話さず、その寡黙な態度によってよりミステリアスに見えた。彼の習慣は観察しやすい。というのは、いつも自分が以前にしたことを正確になぞっていたからだ。ものずきな人々は、このことに大いに当惑していた。
 彼は旅をしたことがあるのだろうか? たぶん、その答えはYesであろう。というのは、彼ほど世界をよく知っている人は他にいなかったからだ。どんなに浮世離れした土地であっても、彼はそこに関する独自の知識を披露した。行方不明の旅行者に関してクラブの会員たちが議論しているときに、彼はしばしばわずか数語でもって議論を修正し、別の方向からまるで真実を見通しているかのような予言を表明してきた。すると事態は彼の予言どおりに進んだのである。きっとあらゆる場所を旅行してきたに違いない。少なくとも想像はしてきただろう。
 ここ数年、フィリアス・フォッグがロンドンを離れなかったことは間違いない。彼のことをよく知る人たちは、いつもいる場所以外の所にフィリアス・フォッグが姿を見せたと宣言できる人はいないだろうと言っていた。彼の趣味といえるものは、新聞を読むこととホイストで遊ぶことであった。彼はこのゲームでよく勝ったが、その時もいつもの習慣に従ってもの静かであった。ただ、その勝ち分が彼の財布の中にはいることはなく、チャリティーのための資金として取り置かれていた。フォッグ氏は、勝つためではなく遊ぶために遊んでいた。ホイストは彼にとっては競技であり、困難を伴う闘いであるにもかかわらず、体を動かすことがなく、疲れない闘いであることから、彼の趣味にあっていた。
 フィリアス・フォッグに妻子がいるのかどうかは明らかでない(これは誠実な人によく起こりうることである)。そして親類はともかく友人さえもいない、これは確かに異常といえる。彼はサヴィル街にひとりで住んでいた。誰も訪ねてはこなかった。彼は朝晩の食事をクラブで食べていた。その時間は毎日同じであり、食べる部屋やテーブルまで決まっていた。他のメンバーと食事をすることも、彼がお客を連れてくることもなかった。そしてきっかり夜中の十二時に、ただ寝るためだけにサヴィル街の屋敷に帰るのであった。
 フィリアス・フォッグは、クラブがメンバーのために用意した、いごこちの良い寝室を決して使わなかった。二十四時間のうち十時間は、寝たり身支度をしたりするために自宅で過ごしていた。ときどき散歩をすることもあったが、その時も規則正しい歩調で、モザイク模様にしてある表玄関か、丸い屋根がついている円形の回廊(十二本のイオニア様式の柱で支えられており、青く塗られた窓で明かりを取り込んでいる)を歩くのだった。彼が食事をするときには、クラブの持つすべての台所や貯蔵所や出入りの商人たちによって提供された、最もみずみずしい食べ物が、テーブルの上に所狭しと並べられるのだった。彼のために、燕尾服に身を包み、羽毛付きの白鳥皮で覆われたソールを持つ靴をはいたウエイターが給仕をした。給仕たちによって、素晴らしい陶器製の食器にのったごちそうが、リンネル製のテーブル掛けの上に運ばれてくるのである。クラブのデカンターには、彼がキープしているシェリー酒、ポートワイン、シナモンなどの香料入りのクラレットなどが保管されていた。飲み物は氷で常に冷やされていた。そのための氷が莫大なコストをかけてアメリカの湖水から運ばれていた。
 もしもこのスタイルで生活するのか偏屈というのならば、偏屈にも良いところがあることを認めなければなるまい。
 サヴィル街の屋敷は、豪邸とはいえないまでも、きわめて便利にできていた。フィリアス・フォッグは従者をひとりだけ雇っていた。従者に対してフォッグ氏は何も言わなかったけれども、ただ超人的な正確さと規則性だけを要求した。この十月二日に、フィリアス・フォッグは従者として雇ってきたジェームス・フォスターを解雇した。その理由は、この不幸な青年が、ひげそり用のお湯として華氏八十四度のお湯(本来は八十六度でなければならなかった)を持ってきたからだった。フィリアス・フォッグは後任の者を待っていた。その人は朝十一時から十一時三十分のあいだに家に来るはずであった。
 フィリアス・フォッグは肘掛け椅子に四角ばって座っていた。パレードの歩兵のように閉じていた足の、そのひざに手を置いていた。頭から腰までピンと立っていた。彼は絶え間なく、日付・時刻を正確に刻む時計を見ていた。フォッグ氏は十一時半きっかりに、それまでの習慣通りにサヴィル街からクラブへと出かけていくのである。
 その時、フィリアス・フォッグは小さなほうの客間にいた。部屋のドアをノックする音があって、ジェームス・フォスターが現れた。
 「新しい従者でございます。」とジェームス・フォスターが言った。その後ろから三十代と思われる青年が進み出て、一礼した。
 「たぶん君はフランス人だね。」フィリアス・フォッグは尋ねた。「名前はジョンだね?」
 「失礼ながら、ジャンでございます。」新しく来た男は答えた。「ジャン・パスパルトゥーと申します。このパスパルトゥーという姓は、私がどんな状況であっても仕事を進めることからついた、あだ名でございます。ムッシュー、私は自分があなたの信用に値するものと信じていますが、ずばずばものをいう気性からか、職業を転々としてきました。私は歌手として旅をしていたことがありますし、サーカスの軽業師となったこともあります。レオタールがやるようなこともいたしましたし、ブロンダンがやるような綱渡りをしたこともあります。それから、自分の才能を生かすべく、体操の教師をしていました。その後にはパリの消防士をしておりまして、多くの火災に出動いたしました。しかし、急に家庭的な雰囲気が味わいたくなりまして、五年前にフランスを後にして、ここイングランドで従者として勤めてまいりました。たまたま職を辞しておりましたときに、この連合王国ではフィリアス・フォッグ、つまりあなた様のことですが、もっとも几帳面なおかたであり、昔と変わらぬ生活を送る紳士であるとお聞きしまして、あなた様とともに静かな生活を送りたいと考えたのでございます。できますれば、『パスパルトゥー』という名前を捨て去りたいと願っております。」
 「パスパルトゥーとは気に入った。」フォッグ氏は答えた。「推薦状では君のことを大変よくほめてある。私の条件は知っているね?」
 「はい、ムッシュー。」
 「上出来だ! ところで今何時かね。」
 聞かれたパスパルトゥーは、ポケットから巨大な銀時計を取り出して、「十一時二十二分過ぎであります。」と答えた。
 「遅れてるぞ。」 とフォッグ氏は言った。
 「しかし、まさかそんな――。」
 「四分遅れている。大丈夫、遅れを確認しておけばいいんだ。今この瞬間、十月二日木曜日十一時二十九分になったら、君は私の従者だ。」
 フィリアス・フォッグは立ち上がり、左手をあげて、機械のような感じで帽子を取って頭にのせ、何もいわずに出ていった。
 パスパルトゥーは通りに面したドアが閉まる音を聞いた。それは、彼の新しい主人が外出した音だった。再びドアが閉められる音がした。それは彼の前任者、ジェームス・フォスターのものであった。彼は回れ右をして出ていったのだ。パスパルトゥーは、サヴィル街の屋敷にひとり取り残されたのである。

..第二章:パスパルトゥーがようやく理想の主人を見つけたと確信すること
 「間違いない。」パスパルトゥーは呆気にとられた。「前にマダム・タッソーの所で今度のご主人のような人を見たことがあったな。」
 マダム・タッソーの「人々」といわれるものは、ろう人形であり、ロンドンでは多くの人がマダム・タッソーろう人形館を訪問するのである。その様は、まるで話をするのではないかとまで思うほどだ。
 フォッグ氏と話していたわずかの間に、パスパルトゥーは慎重に彼を観察していた。そしてパスパルトゥーは、フォッグ氏に関して以下のような意見を持った。年の頃は四十くらいかな。顔は上品でハンサムといった感じだな。背は高い方だな。よく引き締まった体をしているな。髪もひげもブロンドだ。小さくてしわのない額だな。顔はかなり青白くて、歯も立派だな。人相学者たちがいうところの「動中の静」という感じがぴったりといった表情だなあ。静かで無表情で、すんだ目だな。連合王国でよく見受けられる典型的なイギリス人といえるな。アンジェリカ・カウフマンがとても巧みに描いた肖像画を思い出させる風貌だなあ。
 ところで、彼の日常生活においていろんな状況で見られるように、フィリアス・フォッグは完璧にバランスがとれた考えを持っていた。それはまるで、ルノウがつくりあげたクロノメーターで管理されているようであった。実際、フォッグ氏は「精密さ」の権化といった感じであったし、そのことは氏の手足にまであらわれていた。というのは、人にとっても、動物の四肢のように手足それ自身が内なる精神を表現しているからである。
 フォッグ氏は物事を非常に正確にこなすので、決して急ぐことはなかった。なにしろ常に準備万端整えていて、動き・ステップともに全く無駄がないのだった。彼は多くの段階を踏むことなく、いつも最短の道を通って目的を達成するのだった。彼は余分な動きは決しておこなわず、憤慨したり煽動されたりすることもなかった。彼は世界で最も慎重な人ではあったが、いつも正確な瞬間に目的地に着くのであった。
 フォッグ氏は孤独な人であり、(いずれ話すつもりだが)すべての社会的関係から外れていた。彼は、「この世界では社会的関係によって必ず摩擦が起こり、そのことによって物事は必ず遅れる」と悟っていたので、人とつきあおうとはしなかったのである。
 一方パスパルトゥーは生粋のパリジャンであった。彼自身の国からイングランドへ去って以来、従者の仕事に従事してきた。しかし、目的にかなう人を捜して失敗しつづけていた。パスパルトゥーは決して、モリエールによって描写されたような、生意気で馬鹿げた人ではなかったので、じろじろと人を凝視したり、鼻で笑ったりすることはなかった。彼は信頼できる人間だった。彼は唇が少し突き出たおもしろい表情をしていた。腰が低くて行儀が良く、何かと重宝な男であった。彼は丸い頭を持っていた。こんな頭が友達の肩の上にのっていたらいいなあと思える頭であった。その目は青く、顔色はバラ色であった。太ってはいたものの、若い頃の鍛錬によって、筋肉質でものすごい力を秘めている体を持っていた。彼は茶色の髪をいくぶん倒していた。古代の彫刻家は、ミネルヴァの長い髪を整える方法を十八も知っていたといわれているけれども、パスパルトゥーは、髪を整える方法をひとつしか知らなかった。大きな歯を持つ櫛で三回すけば、それで完成しているのだった。
 パスパルトゥーの活発な性向が、フォッグ氏のそれと調和するかどうかを考えるのはまだ早い。パスパルトゥーが、主人が要求するような絶対的秩序を作り出せるかどうかを予測することは不可能である。実際雇ってみないとそれは分からないだろう。パスパルトゥーは、若い頃には一種の放浪者であったので、現在は休息状態にあこがれていた。しかし、これまでイギリスで十軒もの家に勤めたのだが、それを見つけることができなかった。つまり、どこの家にも根を張ることができなかったのである。残念なことに、彼が今まで使えてきた主人は、ことごとく気まぐれであり、従って不規則な生活を強いられてしまったのだ。つまり、いつも国じゅうを動きまわっていたり、冒険を志したりする人に仕えてしまったのである。彼が最近仕えた主人、ロングスフェリー卿は、若い下院議員だった。卿はいつもヘイマーケットの居酒屋で夜を過ごしており、朝になって警官が卿を肩に担いで、家につれてくることがたびたびあった。パスパルトゥーは仕えた主人を尊敬したかったので、そのような行為を穏やかにいさめた。しかし、そのことを悪いように受け取られたので、パスパルトゥーは暇をとったのだった。
 そうした中で、フィリアス・フォッグが従者を求めていることを聞き、そして彼の生活が完全な規則性そのものであること、旅行をしたり家の外で一夜を過ごしたりしない人であることを知ったのだ。パスパルトゥーは、フォッグ氏こそ仕えるにふさわしい人と確信したのだ。そして自分自身をフォッグ氏に見せ、そして受け入れられた。以上の次第はすでに見てきたとおりである。
 十一時三十分を過ぎたとき、パスパルトゥーは自分がサヴィル街の屋敷にたったひとりでいることに気がついた。すぐに点検を始め、地下室から屋根裏部屋まで見てまわった。大変きれいで、整っていて、厳粛な邸宅であることを確認して、大満足だった。カタツムリの殻のように見える邸宅は、ガスで明かりと暖房を十分にまかなうことができるようになっていた。パスパルトゥーは三階に上がってすぐに彼のために用意された部屋を見つけた。彼はその部屋に満足した。電鈴と伝声管が部屋に取り付けられていて、それによって下の部屋と会話することができるようになっていた。マントルピースの上にフォッグ氏の寝室にあるものと同じ電気時計が置いてあって、二つの時計は秒に至るまで同じ時刻を刻んでいた。
 こりゃあいい所だ、とパスパルトゥーは考えた。
 ふと彼は、時計の上に掛けられたカードに気づいた。よく見ると、そこにはこの家における毎日の日記が書かれていた。カードには従者に要求されるすべてが書いてあった。フォッグ氏は八時に起床し、十一時半にリフォーム・クラブへ出かけていくのだが、その間にたとえば以下のことをしなければならない。

 八時二十三分 紅茶とトーストを持っていく。
 九時三十七分 ひげ剃り用のお湯を持っていく
 九時四十分 主人の髪の手入れ
 
 カードには朝十二時半から夜十二時(これはかの規則正しい紳士が帰宅する時間である)までに起こることもすべて管理され、書いてあった。
 フォッグ氏の衣装ダンスは完璧に整理され、素晴らしい趣味を見せていた。ズボン・コート・ベストの各ペアには番号がふってあり、彼が年ごと、季節ごとに着ようとする順番をその数で示していた。靴にも同じ方法が使われていた。
 要するに、このサヴィル街の屋敷は、かつて名士ジュリダンの元では無秩序と争乱の殿堂であったに違いないのであろうが、今は快適で、理想的な住まいであった。書斎や書物はなかった。というのは、フォッグ氏にはこういったものは必要なかったからだ。リフォーム・クラブには二つのライブラリーがあり、ひとつは一般的な文学を、もうひとつは法律と政治関連の本を集めていた。必要ならそれらを使えるのだった。手頃な大きさの金庫が寝室にあり、火と泥棒を寄せつけないようにしていた。見たところ、銃器のたぐいは見受けられなかった。家の中すべてが、その主人の冷静かつ平和的な気質を表していた。
 上から下まで屋敷を探索した後、パスパルトゥーは満足げにもみ手をして、満面の笑みを浮かべた。そしてこうつぶやいた。
 「これこそ俺が欲しかったものだ! きっとあの方と一緒にやっていけるだろう。それにしても、なんて家庭的で、規則的な紳士なんだろう! まさに機械だ。まあ、俺は機械に奉仕するくらい何でもないさ。」

..第三章:フィリアス・フォッグが高いコストを負担するであろう会話が始まること
 フィリアス・フォッグは十一時半に屋敷のドアを出た。左足の前に右足を五百七十五回踏みだし、右足の前に左足を五百七十六回踏みだしてリフォーム・クラブに到着した。クラブはペル・メル街に建っており、素晴らしい大建築物であった。その建築費は少なくみても三百万ポンドはかかっていた。
 フィリアス・フォッグはすぐに食堂へ行った。食堂には趣がある庭のほうを向いた九つの窓があり、そこからすでに秋色に染まった木々が見えるのだった。食堂にはすでにセッティングをすませたフォッグ氏専用のテーブルが置かれていた。
 フォッグ氏の食事メニューを紹介すると、オードブル、ボイルドフィッシュのリーディングソース風味、ローストビーフのスライス・マッシュルーム添え、大黄とグズベリのタルト、チェシャーチーズとなっている。フォッグ氏はそれらすべてを、クラブでも評判の紅茶でもって流し込むのだった。
 フィリアス・フォッグは十二時四十七分に立ち上がり、大ホールの方へ歩いていった。豪華なホールには、絵画が惜しげもなく飾られていた。さて、ボーイに新しいタイムズを手渡されると、フィリアス・フォッグは慣れた手つきで慎重に封を切り、三時四十五分までタイムズを読みつづけた。それから夕食の時間まではスタンダードを読むのが日課であった。朝食と同じメニューの夕食を食べた後、フォッグ氏は再び読書室に行き、五時四十分に座るのだった。
 三十分後、リフォーム・クラブのメンバーが読書室に入ってきて、石炭によって燃えつづけている暖炉の近くにやってきた。彼らはフォッグ氏がホイストをするときのいつもの仲間であった。名前はアンドリュー・スチュアート(エンジニア)、ジョン・サリヴァンとサミュエル・フラナガン(ともに銀行家)、トーマス・フラナガン(醸造業者)、ゴージャー・ラルフ(イングランド銀行の取締役)。いずれも財産家であり、英国の産業界・金融界の巨頭で構成されるクラブの中でも別格扱いの人たちであった。
 「よう、ラルフ。」トーマス・フラナガンが声をかけた。「泥棒はどうなったんだい。」
 「ああ、イングランド銀行はお金を失うに違いない。」とスチュアートが応じた。
 「それは違うな。」ラルフが割って入った。「私たちは泥棒が捕まるだろうと期待している。優秀な探偵がアメリカや大陸の方の主な港に出むいているんだ、もし捕まらなかったら奴はよっぽど頭がいいんだろうよ。」
 「しかし、泥棒について何か分かっているのかね。」フラナガンがスチュアートに尋ねた。
 「そもそも奴は泥棒じゃない。」ラルフがきっぱりと断言した。
 「なんだって! 五万五千ポンドを持ち去った奴が泥棒じゃないんだって?」
 「そうだ。」
 「なら、奴は工場主なんだろう。」
 「デイリー・テレグラフには、彼は紳士だと書いてあるよ。」
 最後の言葉は、新聞から頭を上げたフィリアス・フォッグが発したものだった。それが彼の批評だったのだ。友人におじぎをした後、彼は話を始めた。
 ここで交わされている話の元であり、街じゅうで噂になっている事件は、三日前にイングランド銀行で起こったものだった。五万五千ポンドが入った包みが銀行の窓口カウンターから持ち去られたのだ。それは会計係が三シリング六ペンスの預け入れを処理している間に起こった。しごく当然の事ながら、会計係はすべてに目を配っていることができなかったのである。ここでイングランド銀行が人々の正直さに対していかに信頼を置いているかを見てみることにしよう。そこにはお宝を守るための警備員も格子も存在しないのである。金・銀・札束は、初めてやってきた人の前にもありがたくさらされているのだ。なぜこんな無防備なのかと、英国の風習を熱心に観察してきた人に聞けば、ある日、銀行の一室で起こったことを話してくれるだろう。彼はその日、重量およそ七~八ポンドと思われる金塊を調べたいと思ったのだそうだ。彼はそれを取り上げ、詳細に調べ、隣の男へ渡した。するとその男は次の男へ、またさらに次へと、次々と金塊が手渡されていって、薄暗い入り口の端まで移動していったのである。そして三十分経って元の場所に戻ってきたのだが、その間会計係は一度も頭を上げなかったのだそうだ。
 しかし、現在の例ではそううまいこといかなかったのだ。一日の会計をまとめる事務所に備え付けの、重々しい雰囲気を持つ時計が五時の鐘を鳴らしたときには、例の札束は見つからず、イングランド銀行は五万五千ポンドを損益勘定にまわしたのである。
 札束の紛失が明らかになってすぐに、探偵が選抜され、リヴァプール、グラスコー、ルアーブル、スエズ、ブリンシジ、ニューヨークなどへと派遣された。そして、探偵たちに対して二千ポンドおよび損害復旧額の五%が報酬として提案された。そのうち何人かは、ロンドンを出入りする鉄道を徹底的に見張るよう命令され、すぐに配置についた。
 泥棒は組織的犯罪集団には入っていないであろう、とデイリー・テレグラフは記事に書いていた。それには立派な根拠があった。犯罪が起こった日に、立派な服を着て、上品かつ裕福といった空気を漂わせた紳士があちこちの支払い部屋―つまり犯罪がおこなわれた場所―で目撃されていたのだ。その紳士の人相書きは簡単に手にはいり、探偵たちに配られた。事態を楽観的に見る人々(ラルフもそのひとりである)は、泥棒は捕まることまちがいなしと信じていた。新聞紙上でも他の場所でも、ロンドン中至る所で事件のことに関心が集中し、だれもかれもが犯人が捕まるかどうかを論じていた。リフォーム・クラブのメンバーも熱心に論じていた。なにしろ、メンバーの中には銀行の役員もいるのだから、当然といえるだろう。
 ラルフは、探偵の仕事が無駄に終わるとは信じてなかった。なぜなら彼は、報酬が探偵たちの熱意と行動力を大いに刺激すると考えていたからである。しかし、スチュアートはそのことに関して疑問を持っていた。そして、メンバーたちがホイストをするテーブルに陣取った後も、そのことを議論していたのである。ゲームはスチュアートとフラナガンが組になり、フィリアス・フォッグはフォレンティンとパートナーになる、という組み合わせになった。ゲームの進行とともに会話は収束していった。しかし、ゲームが終了すると、メンバーは再び泥棒に関して話し出した。
 「ぼくは思うに。」とスチュアートが切り出した。「チャンスは賊にほほえむだろうよ。奴はまちがいなく利口なはずだからね。」
 「なるほど、しかしどこに逃げられるというんだ。」とラルフは応じた。
 「あいつに安全な国などないよ。」
 「フン!」
 「なら、どこに逃げ場所があるんだい。」
 「いやあ、ぼくには分からないがね、世界は広いからね。」
 「昔は広かった。」フィリアス・フォッグが低いトーンでいった。そして、「切りたまえ。」といってトーマス・フラナガンにカードを手渡した。
 勝負の間議論は中断したが、決着がついた後にスチュアートがフォッグの言葉を問いただした。「『昔は広かった』とはどういう意味だい? 世界は小さくなってしまったのか?」
 「もちろんだ。」これにはラルフが答えた。「ぼくはフォッグ君の言葉は正しいと思うよ。世界は小さくなった。人類は今では百年前より十倍も速いスピードで移動できるんだからね。そのおかげで、あいつを捜すのは簡単になるだろう。」
 「それは賊が簡単に逃げられるということなんだよ。」
 「ゲームに集中しよう、スチュアート君。」フィリアス・フォッグはいった。
 しかし、疑り深いスチュアートは信じなかった。彼は勝負が終わるとすぐに話し出した。
 「おかしなことを言うね、ラルフ。世界が小さくなったことを証明できるのかい。今では三か月で世界一周できるという―。」
 「八十日でいけるさ。」フィリアス・フォッグはスチュアートの発言をさえぎった。
 「確かにそうさ。」ジョン・サリヴァンがつけ加えた。「八十日もあればいけるさ。大インド半島鉄道において、ロタール~アラハバート間の路線が開通している今ならね。ここにデイリー・テレグラフ紙による計算がある。」
 ジョン・サリヴァンは読み上げた。
 
 ロンドンから、モン・スニ峠とブリンジシを経由してスエズまで 鉄道・汽船 七日
 スエズからボンペイまで 汽船 十三日
 ボンペイからカルカッタまで 鉄道 三日
 カルカッタからホンコンまで 汽船 十三日
 ホンコンからヨコハマ(ニッポン)まで 汽船 六日
 ヨコハマからサンフランシスコまで 汽船 二十二日
 サンフランシスコからニューヨークまで 鉄道 七日
 ニューヨークからロンドンまで 汽船・鉄道 九日
 合計:八十日
 
 「うん、確かに八十日だ。」スチュアートは強く抗議した。彼は興奮のあまり、間違って勝負をした。「だけど、その計算には悪天候や向かい風や、難破や鉄道事故なんかは入ってないだろう。」
 「すべて含むさ。」フィリアス・フォッグは答えた。彼は議論しながらホイストを続けるという離れ業をやっていた。
 「しかし、ヒンドゥー教徒やインディアンが鉄道を止めたらどうなんだい。」スチュアートが返した。「そいつらが電車を止めて、荷物を奪ったり、来客の頭を剥いだりしたらダメだろう。」
 「すべて含むさ。」フィリアス・フォッグは静かに言い返した。そして、「切り札二枚。」と言ってカードを捨てた。スチュアートはカードを集め、配れる状態にして、話しつづけた。
 「君は論理的には正しいのだろうよ、フォッグ君。しかし実際には―。」
 「実際にも可能だよ、スチュアート君。」
 「君が八十日で世界一周するのを見てみたいものだ。」
 「それは君しだいだ。一緒にいくかね?」
 「とんでもない! ぼくなら四千ポンドを、そんな条件での旅行が不可能だという方に賭けるね。」
 「全く可能だよ。君と違ってね。」フォッグ氏が返した。
 「それじゃあ、やってみてくれ。」
 「八十日間で世界を回ってくるんだね?」
 「そうだ。」
 「では、行ってくるよ。」
 「いつのことだ?」
 「すぐにだ。費用は君持ちでやるということにしたいが。」
 「そんな馬鹿な!」スチュアートは叫んだ。彼は友人の頑固さに少々困りだしていた。「ゲームを続けようじゃないか。」
 「それなら、もう一度配りなおしてくれ。」フィリアス・フォッグは言った。「間違って配っているよ。」
 スチュアートは、思いつめたようにカードを取り上げた。それから急に、カードを机に置いた。そしてこう宣言した。「よかろう。君の言うとおりにしよう。ぼくは四千ポンドを賭けるよ。」
 「落ち着くんだ、スチュアート君。」あわててフォレンティンが注意した。「単なる冗談だよ。」
 「ぼくが賭を口にするとき。」スチュアートは答えた。「それは本気なんだ。」
 「いいだろう。」フォッグ氏が返した。そして他の人たちに向けてこう話した。「ぼくは二万ポンドの預金をベアリング商会に持っている。喜んでそれを賭けよう。」
 「二万ポンド!」サリヴァンが叫んだ。
 「二万ポンド? たったひとつの事故で遅れたら、なくなってしまうんだよ。」
 「そんな事態はないよ。」フィリアス・フォッグは静かに続けた。
 「しかしねえ、フォッグ君。八十日というのは君が世界一周をするのに利用できる最小時間なんだよ。」
 「世界一周をするにはそれで十分だよ。」
 「しかし、それを超えないためには、君は船から汽船へ、再び船へと、それこそ正確に飛び移らなきゃならんのだよ。」
 「飛ぶよ、正確に。」
 「君は冗談を言ってるんだ。」
 「真の英国人は冗談を言わないものだよ、賭のように重大なことを話しているときにはね。」フィリアス・フォッグは、まじめな顔をして答えた。
 「ぼくは二万ポンド賭けるよ。君たちの予測に反して、八十日以下で世界一周をする方にね。つまり、千九百二十時間、十一万五千二百分で。君たち、受けるのかね?」
 「受けよう。」そこにいたみんなが答えた。つまり、スチュアート、フォレンティン、サリヴァン、フラナガンである。もちろん、お互いに話をした後のことだ。
 「よし。」フォッグ氏は言った。「電車は九時十五分前にドーバーに向けて発車する。ぼくはそれに乗るよ。」
 「今夜乗るのか?」スチュアートが尋ねた。
 「今夜乗るよ。」フィリアス・フォッグが答えた。そして、ポケット年鑑を取り上げて、ページを見ながらこうつけ加えた。
 「今日は十月二日、水曜日だ。十二月二十一日土曜日、午後八時四十五分に、ロンドンのリフォーム・クラブのこの部屋に帰ってくることにする。その時刻にぼくがここにいなかったら、ベアリング商会にぼくの名義で預けてある二万ポンドは君たちのものだ。実際的にも法律的にもだ。ここに総額を書いてある小切手がある。」
 賭の覚書が、さっそく六人の当事者によって作成された。署名する間もフィリアス・フォッグは冷静沈着な態度を崩さなかった。その態度から見て、明らかに勝つための賭けをしていなかった。ただ賭けをするために二万ポンドを賭けたのだ。なにしろ、二万ポンドというのは彼にとっては財産の半分に相当するのだ。しかも彼は、この「難しいけれども実行不可能とはいえない計画」を実行するためには、残り半分の財産を使わなければいけないだろうと考えていた。一方、賭の相手となった人々は非常にいらいらしているように見えた。彼らの賭けた額はそれほど多くなかったので、親友にとって不利になるような条件で賭をすることに良心の呵責を感じていたのだ。
 時計の針が七時を指した。誰かがゲームをここで終わりにしようと提案した。きっと、フォッグ氏が出発する準備をする必要があるだろうと考えたのだろう。
 「ぼくの準備はすでにできている。」その提案に対し、フィリアス・フォッグは静かにこう告げたのだ。
 「ダイヤが切り札だ。楽しく遊ぼうよ、君たち。」

..第四章:フィリアス・フォッグがパスパルトゥーを仰天させること
 フィリアス・フォッグは、ホイストで二十ギニー勝って、友人と別れた。クラブを後にしたのは七時二十五分であった。パスパルトゥー――彼は自分の職務予定を忠実に覚えようとしていた――は、主人が自ら行動予定をやぶって、普通でない時間に現れたことに非常に驚いた。なにしろ、渡された予定表では夜十二時ぴったりにならなければサヴィル街の屋敷に帰ってこないはずだったのだ。
 フォッグ氏は自分の寝室へ行き、従者を呼んだ。「パスパルトゥー。」
 パスパルトゥーは答えなかった。主人が自分を呼ぶなんてことは時間的にありえなかったからだ。
 「パスパルトゥー!」
 声を高めずに彼は繰りかえした。
 パスパルトゥーは主人の部屋に姿を見せた。
 「二度、呼んだよ。」主人は従者にいった。
 「しかし、真夜中ではありませんが。」従者は答え、主人に時計を見せた。
 「知ってる。君をとがめはしない。ぼくたちは十分後にドーバー、カレーに出発する。」
 パスパルトゥーの丸い顔に困惑の表情が広がった。主人の言葉の意味が理解できなかったのだ。
 「ご主人様、でかけられるのですか?」
 「そうだよ。」フィリアス・フォッグは答えた。「ぼくたちは世界一周旅行に出発する。」
 パスパルトゥーは目を見開いた。眉をつり上げ、腕を広げた。その表情には虚脱感がありありと見えた。驚きのあまり、彼は卒倒しそうになった。
 「世界一周!」彼は思わずひとりごちた。
 「八十日でやるんだ。」フォッグ氏はそう告げた。「だから一刻も無駄にできない。」
 「しかし、トランクは?」パスパルトゥーはあえぎながら言った。無意識に頭を左右に振っていた。
 「トランクは持たない。旅行鞄で十分だ。下着を二枚、靴下を三枚、それだけあれば十分だ。君も同じだけあればいい。途中で服を買う予定だからね。レインコートと旅行用の外套を下ろしてきてくれ。あと、頑丈な靴も頼む。ほとんど歩きはしないだろうが、一応はいていこう。急いで頼むよ。」
 パスパルトゥーは何か言おうとしたけれども、何も言えなかった。彼は外へ出て、自分の部屋にのぼり、椅子にたおれこんで、こうつぶやいた。「世界一周とは上出来だ。ただ、俺は静かに暮らしたかったんだ。」
 彼は機械的に出発の準備にとりかかった。八十日で世界一周! あの人は気が狂ったのか? それはない。なら、これは冗談なのか? 自分たちはドーバーに行く。それはいい! カレーに行く。それもいい。結局、パスパルトゥーは五年もフランスから離れていたから、再び自分の国に足を踏み入れるのは悪いことではなかった。たぶん、パリまでは行くだろうし、もう一度パリの景色を目にするのはいいことだ。しかし、まちがいなくあの出不精なご主人はそこにとどまるだろう。そうに違いない。しかし、あの、家に引きこもりがちなご主人が、旅行をしたくなったというのもまた真実なのだ。
 八時までに、パスパルトゥーは適当な鞄に主人と自分の持ち物を詰めこんだ。そして、まだ心にわだかまりを持ってはいたが、慎重に部屋のドアを閉め、フォッグ氏のところへ降りていった。
 フォッグ氏はすでに準備ができていた。彼は、ブラットショウが発行した、大陸での蒸気機関車やその他一般的交通機関のガイドの、赤い装丁をほどこした抄本を見ていた。そのガイドには、汽船と鉄道の到着時刻と発車時刻のタイムテーブルが書いてあるのだ。彼は旅行鞄を受け取り、それを開いて、中に相当な量の札束(もちろんイングランド銀行券である)をつめていった。旅の途中で必要になったら、いつでもそれを渡そうというのだ。
 「何も忘れなかったね?」フォッグ氏は従者に聞いた。
 「何もございません、ご主人様。」
 「ぼくのレインコートと外套は?」
 「ここにございます。」
 「よし! 鞄を持ってくれ。」フォッグ氏はパスパルトゥーに鞄を手渡した。
 「慎重に取り扱うんだよ。その中には二万ポンド入っているからね。」
 パスパルトゥーは危うく鞄を落としかけた。そのさまはまるで、二万ポンドが金塊で、彼を押しつぶそうとしていたかに見えた。
 主人と従者は下に降りてきて、ドアに二重に鍵をかけた。そしてサヴィル街の端で辻馬車を拾い、チャリングクロスまでのっていった。辻馬車は八時二十分過ぎに駅の前に止まった。パスパルトゥーは席から飛びおり、主人に手を貸した。フォッグ氏が御者に代金を払い、駅に行こうとしたそのとき、貧しい身なりをした女のこじきが、腕に子どもを抱えてフォッグ氏のもとへ近よってきた。女の足は泥まみれだった。裸足だったのだ。ぼろぼろのフードに頭を包み、これまたぼろぼろの衣装を身にまとい、肩にみすぼらしいショールを掛けていた。彼女は悲しげに施しを求めた。
 フォッグ氏は、先ほどホイストで勝ちとった二十ギニーを取り出し、手渡しながらこう言った。「ちょうどいい人にあった。あなたに会えてうれしく思いますよ。」
 そしてその場を後にした。パスパルトゥーは目に涙を浮かべていた。主人の行動が彼のナイーブな心に触れたのである。
 パリ行きのファーストクラス用切符を素早く購入し、フォッグ氏が列車の駅を歩いていると、リフォーム・クラブの五人の友人が駅にいるのが見えた。
 「やあ君たち。」フォッグ氏が声をかけた。「見てわかるように、ぼくは出発する。戻ってきたときにパスポートを調べてくれれば、ぼくが君たちに約束した旅行を成し遂げたかどうかを確認できるだろう。」
 「ああ、その必要はないよ、フォッグ君。」ラルフが丁重に応じた。「君の言葉を信じるよ。ぼくたちは名誉ある紳士だものね。」
 「ロンドンに帰ってくる予定を忘れてないだろうね。」スチュアートが尋ねた。
 「千八百七十二年十二月二十一日、午後八時四十五分だ。では諸君、ごきげんよう。」
 フィリアス・フォッグとその従者は、八時四十分にファーストクラスに落ち着いた。
 5分後、汽笛が鳴りひびき、列車がゆっくりと動きだした。
 空は暗かった。細かい雨が降りつづいていた。フィリアス・フォッグは座席に寄りかかり、口を開かなかった。パスパルトゥーはいまだ呆然としていた。ただ無意識に、莫大な金が入った旅行鞄を抱きしめていた。
 列車がシドナムを通過してカーブにさしかかったとき、パスパルトゥーが突然絶望的な叫び声をあげた。
 「どうした。」フォッグ氏が尋ねた。
 「ああ、大変急いでおりましたもので、私…、忘れてしまっていました…。」
 「何をだね。」
 「私の部屋のガスを止めることをです。」
 「よろしい。では―。」フォッグ氏は平然と従者に告げた。「そのガス代は君が払うんだ。」
 

..第五章:新しい有価証券がロンドン市場に現れること
 フォッグ氏は、自分のロンドン出発がウエストエンドに強烈なセンセーションを巻き起こすだろうと想像していた。彼は正しかった。この賭けに関する話は、まずリフォーム・クラブ内に広まっていき、メンバーに興味深い話題を提供していた。そして、クラブを情報源としてイングランドで発行されているあらゆる新聞で報じられた。この、だれにでも自慢できる「世界旅行」に関して、人々は非常な熱心さでもって話し、論じ、批評した。そのさまはまるで、アラバマ号問題がもう一度起こったかのようであった。
 フィリアス・フォッグの側に立つものももちろん存在した。しかし、非常に多くの人が頭を振った、つまりフォッグ氏に反対したのである。ばかばかしく、不可能だ、フォッグ氏に反対するものはこう宣言した。反対派によれば、八十日間で世界を回るなんて、理論上、あるいは紙の上でなら作れるけど、それはいまある手段で世界一周するために必要な最低水準なのである。タイムズ、スタンダード、モーニングポスト、デイリーニュースや、その他二十紙に及ぶ立派な新聞が、フォッグ氏の計画は狂気のさただと断じていた。デイリー・テレグラフ紙は、あいまいな態度ながら、彼を支持していた。一般の人たちは、フォッグ氏が狂人であると考えており、リフォーム・クラブに残った彼の友人たちを「精神異常をきたしたとしか思えない提案に対する賭けを受けいれた」という理由で非難した。
 数々の熱狂的・論理的な記事が新聞紙上に発表された。なにしろ、地理学は英国が得意とする分野なのだ。フィリアス・フォッグの冒険に関する記事を、立派な人も卑しい人も、皆がむさぼり読んだ。
 最初のうち、向こうみずな人たち(特に女性に多かった)の中にはフォッグ氏の主張を支持するものもいた。その人たちは、イラストレイテッド・ロンドンニュースが、リフォーム・クラブにある写真をコピーしてきたフォッグ氏の肖像画を掲載してから、より積極的に支持するようになった。デイリー・テレグラフの読者たちの中には、こういって挑発するものさえ存在した。「結局さあ、なぜできないんだ? もっとおかしいことが次々に実現したじゃないか。」
 さて、十月七日、ある長文の論説が新聞に載った。その記事は王立地理学会の会報に掲載された論文であった。論文の中でその著者は、あらゆる角度からこの問題を取り扱い、フォッグ氏の企てが完全なる愚行であることを示したのだった。
 著者はこう言う。すべては旅行者にとって不利であり、人為的にも自然からもあらゆる障害が彼に強いられる。八十日間で世界一周を成功させるためには、交通機関の到着時刻と出発時刻が奇跡的に一致しなければならない。しかしそれはありえないことだ。もちろんヨーロッパでは列車の到着予定時刻を当てにできるかもしれない。それに行程の距離も比較的手頃である。しかし、インドを横切るのに三日、アメリカ合衆国を横切るのに七日というフィリアス・フォッグの計算は、それが正確に行われるという期待のもとに計画できるのであろうか? それに、機械の故障というのがある。列車の脱線・衝突ということもありうる。悪天候や雪による足止めもありうる。私たちが想像できないような障害もあるのではないか? 汽船にも問題がある。冬に汽船で旅行するときには、風や霧によって日程がよく狂ってしまうことを、彼自身分からなかったのか? 最高の状態であっても、二、三日到着が遅れるという事態は珍しいことではない。たとえ一カ所で遅れるだけでも、このようなスケジュールをめちゃくちゃにするのに十分である。フィリアス・フォッグがもし、汽船が出航する時間に遅れた場合、彼は次の便を待つしかないわけだ。たったそれだけのことで、彼の無謀な試みに取り返しのつかない打撃を与えるのだ。
 この記事は大変な反響をまきおこした。論文はすべての新聞に転載され、むこうみずな企てを支持する人に深刻な反省をさせたのだった。
 誰もが知っているように、英国人は賭けを好む人々の集まりである。ただ、単なるギャンブラーだというよりも、より高い次元で賭けをするのだ。いわば、「賭ける」という行為は英国人の習性なのである。リフォーム・クラブのメンバーだけでなく、一般大衆までもがフィリアス・フォッグの企てに対して賭けを始めた。まるでフィリアス・フォッグが競走馬であるかのごとくに賭けは行われた。証券が発行され、市場で流通するようになった。「フィリアス・フォッグ証券」は平価だったりプレミアムがついたりという取引がなされ、その取引規模はだんだん大きくなっていった。しかし、出発して五日後に、王立地理学会の会報に例の論文が載った後は、需要が落ち込み始めた。「フィリアス・フォッグ証券」も値下がりしだした。そして束で取引されだした。最初は五束、それから十束、二十束、五十束。ついに百束という単位でも買い手がつかなくなってしまった。
 今や、フィリアス・フォッグを支持するのは、老アルビマール卿だけとなってしまった。卿は体に麻痺を抱えていたため、一日中椅子に座りっぱなしの生活を送っていた。卿ならば、たとえ十年かけてでも世界一周をなしとげた人には財産を分け与えたであろう。卿はフィリアス・フォッグが計画を達成する方に五千ポンドを賭けた。冒険は無益であり、馬鹿げているという忠告を卿に告げるものがいると、卿は満足げにこう答えるのだった。「もし計画が実行できるのならば、はじめに実行するのは英国人であるべきだよ。」
 さて、フィリアス・フォッグに賭ける人はますます減りつづけた。ほとんどみんなが計画は失敗すると見ていた。賭けの比率は一:一万五千二百となっていた。そして、フィリアス・フォッグが出発して一週間後、とある出来事が起こり、そのために彼の支持者は全くいなくなってしまったのだ。
 警視総監がオフィスで席に着いていると、夜9時になって、以下に示す速達電信が、スエズからロンドンの総監宛に届けられたのだ。

 スコットランドヤード
 ロウアンケイシソウカンドノ
 
 ワレギンコウゴウトウフィリアスフォッグハッケンセリ
 シキュウタイホジョウヲボンペイニオクラレタシ
 
 フィックス
 
 この電信の効果はてきめんだった。上品な紳士は消え、銀行強盗が現れた。リフォーム・クラブに他のメンバーとともに掲げられていたフォッグ氏の写真が詳細に調べられた。その写真は、警察に提供された泥棒の人相書きと一致していた。フィリアス・フォッグのミステリアスな習性が思いだされた。フォッグ氏は孤独であり、しかも突然出発していった。今やフォッグ氏の目的が明らかになったように思われた。つまり、賭けという名目で世界一周に着手したのは、探偵たちから逃れるためであり、それ以外になんの目的もないのであるから、みずからが明らかにした進路からフォッグ氏が外れていくのはまちがいないように見えたのである。

..第六章:フィックス探偵が全く自然な苛立ちを表すこと
 前にあげたような速達電信が送られた理由は次のとおりである。
 十月九日水曜日午前十一時、半島・極東株式会社に所属しているモンゴリア号(鉄製・二千八百トン積み、五百馬力)が、スエズに入港する予定だった。モンゴリア号は、ブリンシジからスエズ運河を経てボンペイに至る航路を規則正しく往復しており、会社が所有する船の中で最も船足が速かったので、ブリンシジ~スエズ間を時速十ノット、スエズ~ボンペイ間を九.五ノットをそれぞれ超える速度で運行していた。
 波止場を二人の人が歩きまわっていた。もちろん他にも現地人や外国人は大勢波止場にいた。ここはかつて集落が散在しているだけの場所だけだったけれども、M.レセップス氏のおかげですざましい勢いで発展していたのだ。
 ひとりはスエズに駐在している英国領事であった。スエズ運河は、英国政府やスチーブンソンの悲観的な声に負けずに開通し、英国とインドの距離を、喜望峰経由で迂回するのと比べて半分にしたのである。その偉大なる運河を通って、いろいろな場所へ向かう船を、領事館の窓から眺めているのが領事の習慣であった。もうひとりは背が低く、知的ではあるが神経質な感じを漂わせていた。眼光は鋭く、眉を絶え間なくピクピク動かしていた。明らかにいらだっていた。神経質にあちこち動きまわり、少しも静止することはなかった。この男はフィックスといい、例の銀行強盗を捜し出すために英国から急きょ派遣された探偵の一員であった。フィックスは、スエズに到着する乗客を丹念に見ていくよう命じられていた。そして、疑わしかったり、犯人の特徴と一致している人物がその中にいたら、尾行するように、という職務命令を受けていた。彼は以上の命令を二日前にロンドンの警察本部で受けたのだった。
 フィックスは、莫大な成功報酬を得られるという確信を持って、モンゴリア号を(苛立ちをみせなから)待っていた。
 「領事殿、確かなんですね。」フィックスはもう二回も同じことを繰り返していた。「モンゴリア号は決して延着しないんですね。」
 「遅れませんよ、フィックスさん。」領事は言い返した。「船は昨日ポートサイドから通信してきました。残りの距離は、あの船にとってものの数ではないですよ。先ほどから何度も言っているとおり、モンゴリア号は会社が決めた時間よりもいつも早く到着しているんです。それで賞をもらっているんですよ。」
 「船はブリンシジから直接ここへ来るんでしたね。」
 「直接来ます。ブリンシジでインドへの手紙を積み込んで、土曜日の午後五時に出発したんです。我慢ですよ、フィックスさん。船は遅れませんよ。しかしですね、私はあなたが持っている人相書きから、そのような男を見つけられるとは思いませんよ、彼がモンゴリア号に乗っていたとしてですが。」
 「領事殿、そのような男の存在は、見るというよりも感じとるのです。においをかぎ取らなくてはなりません。聞く・見るといった感覚を司《つかさど》る、第六感でつかむのです。私は今まで、紳士づらした奴らを何人も逮捕してきました。もしも泥棒が船に乗っていたら、答えはおのずとでてきます。彼は私の手に捕まるのです。」
 「そう願っていますよ、フィックスさん。なにしろ賊は大量に盗んでいったんですから。」
 「大した賊ですぞ、領事殿。五万五千ポンド! こんな賊にはめったに出会えないですぞ。近ごろの賊はみみっちくなったものだ! ほんのわずかな金で絞首刑となってるんですからな。」
 「フィックスさん。」領事が言葉をはさんだ。「あなたのおっしゃることには共感できますし、あなたが成功することを望んでおります。しかし、私には簡単にことが運ぶとは思えませんね。あなたが持っている人相書きを見ると、いかにも善良な人間と私には思えるのですが。」
 「領事殿。」探偵は断言した。「偉大なる泥棒は善良に見えるものなのです。卑しい顔を持つ奴にはひとつしか道はありません。正直なところを見せるしかないのです。さもなければすぐに捕まってしまうのです。正直さを装う賊の仮面をはぐのは、いわゆる芸術なのです。それが簡単な仕事でないことは私も認めます。しかし、それは真のアートなのです。」
 フィックス氏は明らかに自信過剰気味であった。
 波止場が少しずつ活気づいてきた。様々な国籍を持つ船員、商人、船のあっせん屋、ボーイ、農夫たちが、汽船がすぐ着くだろうということで、あちこち駆けまわっていた。天候は良かった。ただ肌寒くはあった。街の高等が、太陽のぼんやりとした光のもとで、家の上にぼうっと見えていた。二千ヤードほどの長さの防波堤が、停泊地にのびていた。小型漁船や海岸をいく船の数(何隻かは古代ガレー船の様式を残していた)を、紅海の上で数えることができるような雰囲気であった。
 フィックスは、忙しく立ち回っている群衆の間を歩きまわった。その間にも熱心に通行人を調べ、怪しいやつがいないかと、ひとりひとり見ていった。
 港にある時計の鐘が十時半を告げた。
 「船が来ない!」フィックスが叫んだ。
 「すぐ近くに来てますよ。」領事がフィックスに言った。
 「スエズにはどれくらい寄港するのですか?」
 「四時間です。石炭を補給するためです。スエズから紅海の終わりにあるアデンまでは千三百十マイルありますから、新たに石炭を追加しないといけないのです。」
 「スエズから直接ボンペイに来るんですね?」
 「どこにも寄りません。」
 「よろしい!」フィックスは言った。「やつが乗っているならば、まちがいなくスエズで降ります。それから、別の道を使ってオランダかフランスの植民地に向かうでしょう。やつはインドに安息の地はないものと心得ているはずです。インドは英国の植民地ですからね。」
 「思うに、やつは素晴らしく頭がいいのでしょう。」領事はフィックスに異を唱えた。「英国で罪を犯したものは、他のどこよりもロンドンに潜むのを常とするのは、あなたもご存じのはずですが。」
 この意見に探偵は考えこんだ。一方、領事は自分のオフィスへ去っていった。フィックスはひとりになり、ますます落ち着かなくなった。泥棒はモンゴリア号に乗っている、という考えにとりつかれていたのだ。もし泥棒がロンドンから新大陸へ逃げこむつもりならば、きっとインドを経由する道を選ぶだろう。この道はほとんど見張られていないのだから、大西洋を渡るより簡単に逃げられるのだ。
 フィックスがこのような考えにふけっているとき、汽笛が鳴り響き、我に返った。モンゴリア号が到着するのだ。かつぎ人夫や農夫たちが波止場に殺到し、一ダースほどの船が岸壁からモンゴリア号に向かっていった。まもなく、巨大な船影が防波堤の間を通過してきた。船が港に停泊したとき、十一時を告げる鐘が鳴った。船にはたいへん多くの乗客が乗っており、いく人かは、この街がみせる絵のような風景を味わおうと甲板に残っていた。他の乗客はボートで上陸し、波止場にやってきた。フィックスは配置につき、慎重に、上陸してきた乗客の顔や表情を観察してきた。ほどなくして、一人の男が、まとわりつく人夫たちを押しのけて、フィックスのいる場所にやってきた。その乗客はフィックスに、英国の領事館はどこにあるのでしょうかと尋ねてきた。同時に、査証してもらうために持ってきたパスポートをフィックスにみせた。フィックスは本能的に、パスポートをうけとって、その記述をすばやく読んだ。彼は驚きの表情を無意識に押さえ込んでいた。パスポートの記述が、スコットランドヤードから配られた銀行強盗の人相書きと、すべて一致していたのである。
 「これはあなたのパスポートなのですか?」彼はパスポートを持ってきた人に聞いた。
 「いいえ、私の主人のものです。」
 「では、ご主人は―。」
 「船に残っています。」
 「ご主人が自ら領事館に出頭しなければなりません。パスポートが本人のものであることを証明する必要があるのです。」
 「それは必要なことでしょうか。」
 「絶対必要です。」
 「それで、領事館はどこにあるのでしょうか?」
 「あそこです、あの広場の角にあります。」フィックスは、二百歩離れた先の建物を指し示した。
 「船へ戻って、ご主人様を連れてまいりましょう。しかし、あの方はさぞおっくうがることでしょう。」
 乗客はフィックスにおじぎをして、船に戻っていった。

..第七章:探偵を助けるためにはパスポートは役に立たないことを何度となく見せること
 探偵は波止場を通り抜け、領事のオフィスに急いだ。すぐに彼は領事に面会を求め、そして許可された。
 「領事殿。」探偵はいきなり要点を切り出した。「あの強盗はモンゴリア号の乗客の中にいます。確かな証拠があります。」そして、今さっきパスポートを見せた乗客のことを領事に話した。
 「よかったですね。フィックスさん。」領事は答えた。「私も、そいつの顔を見たいとは思います。しかし、たぶんそいつはここには来ないでしょうな。つまり、その男が、あなたが言うような男だとしましょう。泥棒は、自分の足跡は残したがらないものです。それに、パスポートの査証を受ける義務はありませんからな。」
 「領事殿、もし私が考えるようなしたたか者なら、必ずここに来ます。」
 「査証を受けるためにですか?」
 「その通りです。パスポートは、正直者にはじれったいものにすぎませんが、悪党には逃げる助けとなるのです。そいつが出すパスポートは正規のものでしょう。しかし、どうかパスポートを査証しないでいただきたい。」
 「なぜ査証してはいけないのですか? パスポートが正規のものなら、私は査証しなければならんのですよ。」
 「しかし、私はその男を、ロンドンからやつに対する逮捕状が来るまでここに引きとめておかねばならんのです。」
 「ああ、それはあなたの仕事です。しかし私にはできま―。」
 領事はその言葉を途中で止めた。ドアをノックする音が聞こえたのだ。そして二人の男がオフィスに入ってきた。そのひとりは、フィックスが波止場であった従者であった。もう1人は、その主人であった。彼は、パスポートを領事に差し出し、査証していただきたいと願い出た。領事はパスポートを受け取り、慎重にそれを読んだ。その間フィックスは、その人を観察していた。部屋の一角から見つめていたのだ。
 「あなたはフィリアス・フォッグさんですね。」パスポートを読んだ後、領事が言った。
 「そうです。」
 「それでこの人は、あなたの従者ですね。」
 「そうです。フランス人で、パスパルトゥーといいます。」
 「あなたはロンドンから来たんですね。」
 「はい。」
 「これからどちらへ行かれるのですか。」
 「ボンベイに。」
 「分かりました。あなたは、査証は必要なく、パスポートを提出する必要はないということはご存知でしょうか?」
 「知っております。」フィリアス・フォッグは答えた。「しかし、私はあなたの査証によって、私がスエズに寄ったことを証明したいのです。」
 「分かりました。」
 領事はパスポートに署名し、日付を入れた。そしてそこに、彼が公式に使用している印章を加えた。フォッグ氏は手数料を支払い、静かにおじぎをして、出ていった。従者が後に続いた。
 「どうです?」
 「そうですね。彼は全く正直な人のように見えましたね。」領事は答えた。
 「そうでしょう。しかし、それは問題になりません。考えてみてください、領事。あの落ち着き払った紳士は、銀行強盗の人相書きと全くそっくりでしょう?」
 「それは認めましょう、しかし、あなたは知っているでしょうが、人相書きというものは―。」
 「それはこれからはっきりさせます。」フィックスはさえぎった。「従者は主人よりは怪しくありませんし、フランス人ですから、話をせずにはいられないでしょう。では、失礼します、領事殿。」
 フィックスはパスパルトゥーを捜しに行った。
 さてフォッグ氏は、領事館を出て波止場へ行き、パスパルトゥーに命令を与えて、ボートでモンゴリア号に帰り、客室へおりていった。フォッグ氏はノートを手にした。そこには以下のような覚え書きが書いてあった。

ロンドン発 十月二日水曜日 午後八時四十五分
パリ到着 十月三日木曜日 午前七時二十分
パリ発 木曜日 午前八時四十分
モン・スニ峠を経てトリノ着 十月四日金曜日 午前六時三十五分
トリノ発 金曜日 午前七時二十分
ブリンシジ着 十月五日土曜日 午後四時0分
モンゴリア号乗船 土曜日 午後五時0分
スエズ到着 十月九日水曜日 午前十一時0分
総所要時間 百五十八時間半 すなわち六日半

 以上の日程が、表となった日程一覧に記入されていた。その日程表は、十月二日から十二月二十一日までの月日や曜日が記してあり、今回の旅行で通る場所(パリ・ブリンシジ・スエズ・ボンベイ・カルカッタ・シンガポール・ホンコン・ヨコハマ・サンフランシスコ・ニューヨーク・そしてロンドン)への到着予定を示していた。そして、余白に各場所へ到着した時間を書き込むことで、時間の損得が明らかになる仕組みになっていた。フォッグ氏はこのように系統的な記録をとっており、それによって、必要なことがすべて分かるようになっていた。フォッグ氏は、自分が予定に先行しているのか、遅れているのかをいつでも知ることができた。今日十月九日、フォッグ氏はスエズ到着の時刻を書き留めた。そして、時間を得も損もしていないことを知った。
 フォッグ氏はキャビンで朝食をとろうといすに座った。町を見ることなどまったく考えていなかった。結局彼も、従者の目を通して外国を見ることになれた、英国人の典型ということなのだろう。

..第八章:パスパルトゥーが賢明な人ならたぶんしゃべらないであろうことを話すこと
 フィックスはすぐにパスパルトゥーを捜しあてた。パスパルトゥーはぶらぶらと波止場を見てまわっていた。少なくとも、自分が見物してはだめだというふうには感じていなかった。
 「ああ、さっきの方。」探偵は彼のもとへ近づき、声をかけた。「査証はお済みですか?」
 「おや、あなたでしたか。」パスパルトゥーは答えた。「おかげ様で、はい、パスポートは問題ありませんでした。」
 「では、このあたりを散策しているわけですね。」
 「はい。ただ、私たちはとても急いでおりまして、夢の中で旅行しているみたいです。それで、ここはスエズですね?」
 「そうです。」
 「エジプトですね?」
 「そうです、エジプトです。」
 「では、アフリカですね?」
 「アフリカです。」
 「アフリカですか!」パスパルトゥーは繰り返した。「考えてもみてください、あなた。私は、パリより先に来ようとは考えもしませんでした。私がパリを見たのは、朝の七時二十分から八時四十分の間だけなのです。北停車場からリヨン停車場の間、辻馬車のガラス越しに、雨が降る中のパリを見ただけなのです。ペール・ラ・シューズとか、シャンゼリゼーのサーカスをもう一度見たかったなあ!」
 「では、あなたはとても急いでいるのですね?」
 「私ではなく、主人が急いでいるのです。ところで、私は靴とシャツを買わなければいけないのです。私たちはトランクを持たずに、旅行鞄だけでここに来たんですよ。」
 「あなたの欲しいものを売っている、いい店を教えてあげましょう。」
 「ご親切に、ありがとうございます。」
 二人は一緒に店に向かった。その間も、パスパルトゥーはぺらぺらと話していた。
 「とりわけ、」彼は言った。「汽船に乗り遅れないようにしないと。」
 「まだ時間はありますよ。今は十二時ですから。」
 パスパルトゥーは、自慢の時計を取り出した。「十二時!」彼は叫んだ。「違います、今は九時五十二分ですよ。」
 「あなたの時計は遅れてます。」
 「私のが? あなた、この時計は私の曾祖父の代から受け継がれてきたんですよ! 年に五分と違わないのです。完璧な精密機械ですよ、あなた。」
 「ああ、分かりました。」フィックスは言った。「これはロンドン時間のままですね。それではスエズではだいたい二時間遅れですよ。行く先々の正午に、あなたの時計をあわせなきゃいけません。」
 「時計をあわせる? そんなことしませんよ!」
 「そうすると、それは太陽と狂ってきますよ。」
 「それは太陽が悪いんですよ、あなた。太陽の方が間違っているんです!」
 そういって、根が善良なこの男は、反抗的な態度を見せて、時計をしまった。
 少しの間をおいて、フィックスはまた話しかけた。
 「そうすると、あなたは急いでロンドンを出たんですね。」
 「まあ、そう言えるでしょうね! 先週の金曜日の夜八時にフォッグさんがクラブから帰ってきて、四十五分後には出発していたんですから。」
 「では、ご主人はどこへ向かわれているのですか?」
 「先へ先へ。あの人は世界一周をしているのです。」
 「世界一周?」フィックスは叫んだ。
 「そうです、しかも八十日間で! あの人は、それができるかどうか賭けたんだと言っています。しかし、私にはそんなこと信じられません。普通じゃありえませんよ。なんだか突然すぎます。」
 「ほう! フォッグさんは変わり者なんですねえ。」
 「そういうことになりますね。」
 「ご主人はお金持ちですか?」
 「間違いないですね。とてつもない額の金を、真新しい札束で運んでいますよ。それに、道中お金を惜しまないのです。あの人は、モンゴリア号の機関士に高額の報酬を申し出たんです。もし到着予定よりも早くボンペイに着いたら渡すつもりなんです。」
 「それで、あなたはご主人を長いこと知ってるんですか?」
 「ああ、違います。出発のその日に雇われたんです。」
 この問答が、すでに疑いと興奮に包まれていた探偵にどう作用したかは簡単に想像できるだろう。銀行強盗が起こった後、急にロンドンから出発したこと。フォッグ氏が巨額のお金を持ち歩いていること。遠い国に行きたがっていること。風変わりで無謀な賭けを口実にしていること。いちいちフィックスの理論にぴったりなのである。
 フィックスは、かわいそうなパスパルトゥーに質問を続け、彼が本当に主人を知らないこと、その主人はひとりでロンドンに住んでいること、お金持ちであると言われていること、しかし、その金がどこから来たのか誰も知らないこと、主人の仕事や生活があまりに奇妙で理解できないものであることを知った。フィックスは、フィリアス・フォッグはスエズに上陸せず、本当にボンベイに行くつもりだという確信を感じた。
 「ボンベイはここから遠いのですか?」パスパルトゥーは尋ねた。
 「かなり遠いですよ。ここから十日間航海するんです。」
 「それで、ボンベイはどこの国にあるんでしょうか?」
 「インドです。」
 「アジアですね?」
 「そうです。」
 「なんてこった! ああ、実をいうと、ひとつ困ったことがあるんですよ―バーナーなんです!」
 「バーナー?」
 「ガスバーナーなんです。出かけるときに消しわすれたんです。今この瞬間も燃えているんですよ、私のお金で。私は計算してみたんです。二十四時間ごとに二シリング失うんです。私の給金よりも六ペンス多いんです。あなたにも分かるでしょう。私たちの旅は長いんです―。」
 フィックスは、パスパルトゥーがガスのことを心配するのに注意を払っただろうか? そんなことはありえなかった。フィックスは何も聞いてなかった。これからどうしようか考えていた。パスパルトゥーとフィックスは店に到着した。フィックスは、彼の連れが店で買い物をするにまかせ、汽船に乗り遅れないように注意しておいて、領事館に急いだ。今や彼には、フィリアス・フォッグが銀行強盗だという確信があった。彼は落ち着きを取りもどしていた。
 「領事、」彼は言った。「もう間違いありません。あの男を見つけましたよ。やつは、八十日間で世界一周をするなどという、風変わりな人間のふりをしているんです。」
 「だとすると、頭のいい男なんですね。」領事は答えた。「つまり、両大陸の警察の目をくらませて、またロンドンに帰ってこようというのですね。」
 「そういうことでしょう。」フィックスは言った。
 「しかし、間違いないのですね?」
 「間違いないですよ。」
 「では、なぜその強盗は、スエズを通過したことを証明する査証を欲しがっていたんでしょうか?」
 「なぜかは説明できません。しかし、ぜひ聞いていただきたいのです。」
 そしてフィックスは、パスパルトゥーと交わした会話の要点を領事に話した。
 「つまり、」領事は言った。「それは疑われて当然ということでしょうね。それで、あなたはどうするつもりなのですか?」
 「ただちにボンベイへ逮捕状を送ってもらうよう、ロンドンに電報を打ちます。私は、インドに向かう強盗の後をつけて、モンゴリア号に乗っていきますよ。インドはイギリスの植民地ですから、いんぎんな態度でやつを逮捕してやりますよ。令状を見せながら、やつの肩に手をのせてやるんです。」
 冷静かつひややかな雰囲気でもって、フィックスは言い残した。
 探偵は領事館を出て電信局に行き、ロンドン警察に向けて速達電信を打った。その内容はすでに我々が見たとおりである。その十五分後、フィックスは、手に小さいバッグを持って、モンゴリア号へ乗り込んだ。それからまもなく、かの立派な汽船は、空いっぱいの蒸気をあげて、紅海へ出航していった。

..第九章:紅海とインド洋がフィリアス・フォッグの計画にとって都合がよかったこと
 スエズとアデンの間の距離は正確には千三百十マイルである。会社の規定では、汽船は百三十八時間でその間を航海することになっていた。モンゴリア号は、機関士がめざましい働きをしているおかげで、規定時間を大幅に短縮する速度で航行しているように感じられた。ブリンジシから乗っていたお客の多くはインドを目指していた。ボンベイへ向かう者もいたし、そこを経由してカルカッタに向かう者もいた。この道は今ではカルカッタへ行くための最短経路となっていた。陸路鉄道で大インド半島を横切ればいいのだ。
 乗客の中には、様々な身分の役人や軍人もたくさん混じっていた。英国軍隊に所属するものもいれば、インド人兵の部隊を指揮する者もいた。彼らは、英国政府が東インド会社からその権力を引き継いでからは、高い給料を受け取るようになっていたのだ。
 軍人たちと一緒に、イギリスの若者たちも、多くの金を持って旅行していたし、事務長《パーサー》の懸命な努力もあって、モンゴリア号での時間はまたたくまに過ぎていった。乗客が払った料金は、その多くが朝昼晩の食事や八時に出てくる夜食のために使われていた。日に二回服装を変えることにしている女性もいた。時間はめまぐるしく過ぎていった。海がないだ日には音楽会や舞踏会が開かれ、あちこちでゲームをする人がいるのだった。
 しかし、紅海は気まぐれな海で、よく荒れ狂った。細長い海だから当然といえる。アフリカやアジアから吹いてくる風で、船体が長いモンゴリア号はひどい横揺れにみまわれていた。そういったときには、女性たちはすぐに下へ引きこもった。ピアノは沈黙していた。歌やダンスが突然取りやめられた。それでも、この素晴らしい船は風や波で速度を落とすことなく、バブ・エル・マンデブ海峡目指して突進していった。
 普段から表情を顔に出さないあのリフォーム・クラブ員は、どんな出来事にも驚くことなく、船のクロノメーターみたいに同じことを繰り返していた。デッキに上がろうかと思うことさえせず、紅海という記憶に留めておくべき場所を、冷めた無関心といった態度で通りすぎた。彼は、由緒ある町や村が、水平線上にくっきりと、その美しい姿を映しだしているのも見ようとはしなかった。危険なアラビア湾も恐れていないように見えた。昔の歴史家はいつも、その湾がいかに恐ろしいかを書き記していたし、船乗りはそこを通るときにはいつも生け贄を神に捧げてきたという、とても危険な場所なのに、フォッグ氏はまったく恐れていなかったのだ。では、かの風変わりな紳士はどうやってモンゴリア号で時間をつぶしていたのだろうか?
 フォッグ氏は毎日四回、汽船が絶え間なく縦揺れや横揺れを起こす中で、元気に食事をしていた。そして、飽きもせずにホイストで遊んでいた。そう、自分と同じくらいホイストにのめり込んだ遊び仲間を見つけたのだ。ゴアにある自分の職場へ行く途中の収税吏、ボンベイにある自分の教区に帰るデジムス・スミス師、それから、ベナレスにいる部隊へ戻る英国陸軍の准将である。彼らとフォッグ氏は、何時間も無言でホイストをしていた。
 パスパルトゥーはというと、彼もまた船酔いから逃れていた。船首の一角を占め、きちんと食事をとっていた。いい食事といい部屋のおかげで、むしろ航海を楽しんでいた。そして、自分たちが通った場所に大いに関心を寄せていた。主人の気まぐれもボンベイで終わるだろうというはかない見通しでもって、自らを慰めていた。
 スエズを出発した翌日、パスパルトゥーは甲板であの親切な人を見かけてとても喜んだ。そう、波止場を歩いていて、パスパルトゥーと話していたフィックスのことである。
 パスパルトゥーは、この上なく気立てのいい笑顔でフィックスに話しかけた。「もしかして、あなたはスエズで領事館を教えていただいたお方でしょうか。」
 「おお、全くそのとおりですよ。あなた、あの風変わりなイギリス人の従者でしたね。」
 「それで、ムッシュー……。」
 「フィックスです。」
 「ムッシュー・フィックス。」パスパルトゥーは話しだした。「船であなたとお会いできて、とてもうれしいですよ。どちらへ行かれるのですか。」
 「あなたと同じ、ボンベイですよ。」
 「それは素晴らしい! ここを旅行したことはありますか?」
 「何度かありますよ。私はペニンシュラ・カンパニーの社員なんです。」
 「では、インドはご存じで?」
 「あぁー、はい。」フィックスは慎重に答えた。
 「インドという場所は、実に魅力的ですね。」
 「ええ、とても魅力的です。モスク、ミナレ、テンプル、ファキアー、パゴダ。そして虎、蛇、象! 名所を見る時間があればいいですね。」
 「私もそう思いますよ、フィックスさん。あなたは知ってるでしょうが、精神がまともな人は、船から汽車へ、汽車から船へ飛び移るような旅行をすべきじゃないですよ。ましてや、八十日で世界一周するなんて! こんな離れ技も、ボンベイで打ち切るに決まってますよ。」
 「では、フォッグさんはお元気なんですね。」フィックスは、ごくごく自然に話しかけた。
 「元気ですよ。私もそうです。飢えた怪物みたいに食べてますよ。海の空気はうまいですね。」
 「しかし、ご主人は甲板には来ませんね。」
 「来ないでしょう。あの人には、好奇心というものが欠けてるんですよ。」
 「パスパルトゥーさん、その、八十日で世界一周すると言っているこの旅行には、裏の目的があるんじゃないですか―たとえば、外交関係の使者だったりとか。」
 「フィックスさん、誓ってもいいですが、私は何も知らんのですよ。それが分かるとしても、半クラウンも払う気はないです。」
 この会話のあと、パスパルトゥーとフィックスは一緒に話すようになった。これは、フィックスが善良なパスパルトゥーの信用を得るためにしたことだ。フィックスは、よくパスパルトゥーに、船のバーでウイスキーや弱いビールを一杯やろうと言いだした。パスパルトゥーはいつも上品かつ積極的にその申し出を受け、心のなかで、フィックスは最高にいい人だと思っていた。
 その間も、モンゴリア号は前へ前へと突き進んでいた。十三日目にはモカが見えてきた。この町は、崩れた城壁に囲まれていて、そこにはナツメヤシの木が生えていた。モカの山々は広大なコーヒー畑の向こうに見えていた。パスパルトゥーはこの有名な場所を見てうっとりしていた。そして円形の壁と取り壊された砦を見て、巨大なコーヒーカップと受け皿のようだと考えていた。
 次の日、夜になって、バブ・エル・マンデブ海峡を通っていった。この名前は、アラビア語で「涙の橋」という意味である。さらにその翌日、船はアデン港の北西にある石炭補給地点に着いた。汽船に石炭を補給するのは、炭鉱から離れた場所では重大な問題である。ペニンシュラ・カンパニーは、船に石炭を補給するために一年あたり八十万ポンドかけていた。それでこの海域では、石炭は一トンにつき三から四ポンドという値段になるのだった。
 モンゴリア号はボンベイまでまだ千六百五十マイル航海しなければならず、また、この場所で石炭を満載するために四時間停泊しなければならなかった。しかしこの遅れは前もって分かっていたから、フォッグ氏の計画には影響はなかった。その上、モンゴリア号は十五日目の朝にアデンに到着する予定だったのに、十四日目の夜に到着したのだから、フォッグ氏は十五時間得をしたことになるのだ。フォッグ氏と従者は、アデンでパスポートを査証してもらうために上陸した。フィックスは気づかれないように後をつけた。査証してもらうと、フォッグ氏は船に帰り、以前のようにホイストを始めた。パスパルトゥーも、その性格どおりにあたりを散策していた。そこにはソマリア人、インド人、パーシー人、ユダヤ人、アラブ人がいたし、もちろんヨーロッパ系の人たちもいた。アデンには彼らのような人たちが二万五千人住んでいるのだ。
 パスパルトゥーにとっては、この場所が「インド洋のジブラルタル」とうたわれる理由となった要塞施設や、ソロモン王時代に技術者が建造し、英国の技術者たちによっていまだに維持されている巨大な貯水池は驚嘆に値するものだった。
 「全くもってすばらしいな!」パスパルトゥーはひとりごとを言いながら汽船に帰ってきた。「なにか珍しいものを見たいなら、旅も捨てたもんじゃないな。」
 午後六時、モンゴリア号は停泊地からゆっくりと動き出した。すぐにインド洋へと向かっていった。汽船は、ボンベイに到着するまでに百六十八時間を費やした。海はないでいたし、北西の風が吹いていた。すべてが順調な航海を後押しした。船はほとんど揺れなかった。夫人たちは新しいドレスに身を包み、再び甲板に姿を現した。音楽会や舞踏会も復活した。航海は快適だった。パスパルトゥーは旅の道連れを得て喜んでいた。フィックスという楽しい人と出会えた幸運に感謝していた。
 十月二十日日曜日の正午、乗客たちはインドの海岸を認めた。二時間後、水先案内人が乗り込んできた。水平線上の空に丘が見えるようになり、やがてボンベイをいろどるヤシの林がくっきりと見えてきた。汽船は、湾の中にある島で区切られた道筋を通っていった。そして、四時間半かけてボンベイの波止場へ牽引されていった。
 フィリアス・フォッグは、航海中に三十二回ホイスト勝負をしており、今三十三回目の勝負を終わろうとしていた。フォッグ氏とそのパートナーは、大胆な一手でもって切り札を十三枚すべて取ってしまった。この回の勝負は、フォッグ氏たちのみごとな勝利で幕を閉じたのである。
 モンゴリア号は、十月二十二日にボンベイへ到着する予定だった。実際は二十日に到着してしまったので、フィリアス・フォッグはロンドンを出発してから二日間得したことになった。フォッグ氏は無言のまま、旅程表の「得した時間」の欄にこのことを書き入れた。

..第十章:パスパルトゥーが靴を失って非常に喜ぶこと
 読者はすでにご存じだろうが、インドという土地は逆三角形の形をしている。北側に底辺があり、南側に頂点がある。その面積は百四十万平方マイルである。人口は一億八千万人を数えるが、その分布は均一ではない。この広大な国のほとんどは英国政府によって統治されている。カルカッタに総督を派遣し、マドラス・ボンベイ・ベンガルには知事が、アグラには副知事が配置についている。
 しかし、英領インドとすべき地域は、七十万平方マイルの面積を持つにすぎず、その人口はというと、一億から一億一千万の間にあるにすぎない。インドには、まだまだ英国の統治が及ばない地域が存在しているのだ。インド奥地には、いまだ残忍な君主たちが支配し、独立を保つ地域が残っているのである。
 千七百五十六年、英国が現在のマドラス市にあたる場所に最初の足がかりを得たときから、世に名高い東インド会社は、セポイの乱が起こるまではインドを絶対的に支配していた。東インド会社は、現地の族長たちから土地を購入することで、徐々に支配地域を広げていったのだが、その際土地の代金を支払うことはほとんどなかった。そして取得した土地に、総督と、その部下として役人や軍隊を任命してきた。東インド会社は現在は存在していない。インドに残された英国の財産は、直接王冠が支配するところとなっている。そのため、国の様相は、風習や人種上の区分も同様だが、日々変化しているのである。
 昔インドでは、旅行する際には、歩き・馬・かご・馬車といった、旧式で扱いにくい方法を使うしかなかった。現在では、速く進む蒸気船が、インダス川やガンジス川で働いているし、多くの支線がある鉄道も整備されている。これによって、インド半島をボンベイからカルカッタまで、三日間で横切ることができるようになった。この鉄道は、インドをまっすぐに走っているわけではない。ボンベイ―カルカッタ間の距離は、鳥が飛んでいくならば、千から千百マイルにすぎない。しかし、鉄道の路線はカーブを描いているため、その距離は三分の一ほど増えている。
 大インド半島鉄道の一般的なルートは次のとおりである。ボンベイを出発し、サルセットを通りすぎ、ターナの前面で大陸へ渡る。そして、西ゴート山地をすぎ、北東方向へブルハンプルまで走っていく。さらに、ブンデルカントの半独立地帯のはしを通ってアラハバートまで登る。そこから東に転じ、ベナレスでガンジス川に出会う。またガンジス川を離れて、ブルトワンと、フランス人の町チャンデルナゴールとをすぎて南東へ下り、カルカッタへ着く。
 モンゴリア号の乗客は、午後四時半に上陸した。そして、列車は八時ちょうどにカルカッタを出発した。
 フィリアス・フォッグは、ホイスト仲間にさよならを言ったあと、汽船を下り、従者にいくつか用事をいいつけ、八時には駅にいるように、と命じておいて、天文時計が秒を刻むように、規則的な歩調で領事館へと歩いていった。ボンベイには魅力的なものが多い。その名をとどろかす市庁舎、立派な図書館、要塞、ドッグ、バザール、モスク、ユダヤ教会堂、アルメニア人の教会、マダバル・ヒルの上に建っている気高い雰囲気のパゴダ(多角形の堂が二つついていた)などである。しかし、フィリアス・フォッグはそれらには全く注意を払わなかった。そして、エレファンタ島にあるみごとな神像や、ドッグの南東に隠されている怪しげな地下埋葬室や、仏教建築の素晴らしい遺跡や、サルセット島にあるカンヘリアの洞窟なども見ようとはしなかった。
 領事館で査証をすませて、フィリアス・フォッグは静かに鉄道の駅へと向かった。そしてそこで夕食を注文した。店の主人は、お客に出す料理のなかでは、特に現地産の兎で作ったジブロットがおいしゅうございますとフォッグ氏に言った。
 その言葉に従って、フォッグ氏はその料理を注文した。スパイスをきかせたソースがかけてあったのに、口にあうとはとうてい言えなかった。フォッグ氏はベルを鳴らして主人を呼んだ。やってきた主人を見つめ、こう言った。
 「これは兎ですか。」
 「さようでございます、お客様。」その男はずうずうしくもそう言ったのである。「ジャングルから捕ってきた兎でございますよ。」
 「この兎は、死ぬときにニャアと鳴かなかったかね。」
 「ニャアなんて、お客様! 兎がニャアなんて! 誓ってそんな―。」
 「ならいいんだ、ご主人。誓う必要はない。ただ忘れないでくれよ。猫は昔インドでは神聖な動物とされてきたんだ。実にいい時代だったね。」
 「猫にとってですか、お客様?」
 「旅行者にとってもさ。」
 こう言って、フォッグ氏は夕食を食べ続けた。
 一方フィックスは、フォッグ氏が降りたあとすぐに上陸した。そしてすぐさまボンベイ警察本部に向かった。彼は自分がロンドン警察の探偵であることを明らかにし、ボンベイでの仕事と、銀行強盗と思われる人物に対する彼の立場を伝えた。そして、いらいらしながら、逮捕状がロンドンからやってきたかと尋ねた。着いていなかった。インドに到着するまでの時間が過ぎていなかったから、当然である。
 フィックスは大変失望した。それからボンベイ警察の署長から逮捕令状を得ようとした。しかし署長はそれを拒否した。事件はロンドン警察が関わっているのだから、ロンドン警察だけが合法的に逮捕状を発行できるのだ、という理由を付けた。フィックスはいさぎよくあきらめた。ボンベイに逮捕状が来るまで待つのはやめることにした。しかし、ボンベイにいる限りはあの怪しげな悪党を見失わないようにしようと決心した。フィックスは、パスパルトゥー以上に、フィリアス・フォッグはここにとどまるだろうと強く考えていた。その間に逮捕状も届くだろうという見通しだった。
 けれども、パスパルトゥーは、モンゴリア号から下船するときに主人から聞いた命令から、自分たちは、パリやスエズでもそうしたみたいにボンベイを出発するのだということを知った。この旅行は少なくともカルカッタまでは続けられるだろうし、そこを越えても続くんだろうと考えざるを得なかった。ひょっとしたら、フォッグ氏が話していた賭けは単にその場の思いつきだったにすぎないのだろうか、運命に従って――俺は休息を望んでいたんだ――自分も八十日間で世界一周をするのだろうか。
 主人にいわれたシャツと靴を購入して、パスパルトゥーは通りをぶらぶら散歩した。いろんな国の人がいた。ヨーロッパ系の人、とんがり帽子をかぶったペルシャ人、ターバンを巻き付けたバニア人、四角い帽子をかぶったシンド人、黒い僧帽をかぶったパーシー人、長衣をまとったアルメニア人など、多くの国の人がこの町に集まっていたのだ。今日はちょうどパーシー人のお祭りの日だった。パーシー人はゾロアスター教徒の末裔である。東インドに住む人の中ではもっとも勤勉で、文化的で、利口で、厳しい人たちである。パーシー人の中には、ボンベイでも指折りの金持ちとされる商人となった人もいた。彼らは一種の宗教的ばか騒ぎをしていた。行列あり、余興あり、金銀の糸で縫い取りしたバラ色の薄織物をまとったインド人舞姫の姿もあった。舞姫は、ヴィオルが演奏され、小太鼓が鳴り響くなかで、軽やかに、かつ完全なるしとやかさをもって踊っていた。パスパルトゥーが、目を見開き、口をぽかんと開けて、この珍しい式典を見ていたのは言うまでもない。その表情は想像できる限りのまぬけ面だっただろう。
 パスパルトゥーにとっても、その雇い主にとっても不幸なこととなるのだが、彼は好奇心のあまり、自分が行こうと思っていた場所から遠くへ離れていってしまった。パスパルトゥーは、パーシー教のお祭りをすっかり見てしまってから、駅の方向へと足を向けた。その途中で、マラバル・ヒルにあった壮麗なパゴダを見た。その時、どうしても中を見たくなってしまった。パスパルトゥーは全く知らなかったのだが、キリスト教徒が特定のインドの神殿に立ち入ることは禁じられていた。それと、忠実な信者であっても、ドアの外で靴を脱がずに立ち入ってはいけないことになっていた。ここで次のことをつけ加えておこう。英国政府の賢明なる方針によって、現地の宗教的タブーを犯したものは厳しく罰せられるのだった。
 パスパルトゥーは、パゴダを傷つける意図は全くもっていなかったのだけれども、観光客みたいに中へ入っていった。そして、豪華なバラモン風の飾り付けに、我を忘れていた。夢中になってひとつひとつ模様を目で追っていった。ふと我に返ると、自分が神聖なる石畳の上に寝ていることに気づいた。見上げると、とても怒った聖職者が三人立っていた。聖職者はパスパルトゥーに襲いかかり、靴を引きはがし、荒々しく叫びながら彼に殴りかかってきた。しかし、敏捷なフランス人は、すぐに立ち上がり、またたく間に、長いガウンをまとった男たちを二人殴り倒した。そして、力のおよぶ限りの速さでパゴダを抜けだした。通りの群衆にまぎれることで、三人目をまいた。
 七時五十五分になって、パスパルトゥーは、帽子をかぶらず、靴もはかず、言いつけられたシャツと靴の包みも喧嘩の最中になくしてしまった状態で、息を切らして駅に駆け込んできた。
 フィックスは、フォッグ氏のあとをつけて駅に着いた。そして、フォッグ氏は本当にボンベイから出ていくつもりだと知った。フィックスは決心した。カルカッタまで、いや、もっと遠くへ行ったとしても、俺はやつのあとをついていくぞ。パスパルトゥーは探偵を見なかった。探偵はすみっこの暗がりの中に立っていたのだ。しかし、フィックスは、パスパルトゥーが、自分のやってしまったことについて言ったのを聞き取ることができた。
 「二度とそんなことはしないで欲しいね。」静かにフィリアス・フォッグは言った。そして、列車に乗り込んだ。かわいそうなパスパルトゥー(今や彼は完全にしょげていた)は、何も言わずに主人のあとから乗り込んだ。フィックスは別の車両に乗ろうとしていたが、あることを思いついて、自分の計画を変えることにした。
 「ここにいることにしよう。」フィックスはこうつぶやいた。「インドの地で犯罪がなされたんだからな。きっとつかまえてやるぞ。」
 そのとき、機関車がするどく汽笛を鳴らした。列車は夜の闇に消えていった。

..第十一章:フィリアス・フォッグが途方もない値段で珍しい輸送機関を買うこと
 列車は定刻どおりに出発した。乗客の中には軍人や政府職員が大勢いたし、阿片や藍の取引のために東海岸へ向かう商人たちもいた。
 パスパルトゥーは主人と同じ車両に乗っていた。車両の反対側には三人目の乗客が乗っていた。その人はサー・フランシス・クロマーティといい、モンゴリア号でフォッグ氏とホイストをしていたひとりであった。ベナレスに駐屯している彼の部隊のところへ帰る途中だった。
 サー・フランシスは背が高く、金髪で、五十歳くらいだった。最近起こったセポイの乱における活躍で、その名はすっかり有名になっていた。インドに家族を住まわせており、英国へはまれにしか帰らなかった。そして、インドの風俗や歴史、人々の性格などについては、現地の人と同様によく知っていた。しかし、フィリアス・フォッグは旅行をしているのではなかった。ただ円弧を描いているだけだった。従って、そういったことをサー・フランシスに聞いたりはしなかった。フォッグ氏は合理的な力学の法則に従って、地球の周囲の軌道を回っている、一個の物体にすぎなかった。今この瞬間、フィリアス・フォッグは心の中で、ロンドン出発以来費やした時間を計算していた。もし彼が無意味な行動をするたちであったなら、満足して手をもんだことだろう。
 サー・フランシス・クロマーティは、この道連れはおかしいなと感じた。ただ船でフィリアス・フォッグがカードを配り、ホイストをしている間に見ていただけなのである。いったいあの人の心臓は、この冷たい外見の下で本当に動いているのだろうかとか、自然の美しさを解する感覚を持ち合わせているのだろうかと、考え込んでいた。そしてこうひとりごちた。こんな風変わりな人にはいままで会ったことがない。まるで精密機械そのまんまの人だよなぁ。
 フィリアス・フォッグはサー・フランシスに対しても、今やっている世界一周の計画や、達成しなければいけない条件などを隠そうとはしなかった。准将にはその賭けは無意味で風変わりな試みにしか見えず、常識的な感覚が欠けているとしか思えなかった。この奇妙な紳士のようなことをしていると、彼自身にとっても他の人にとっても、いい結果をもたらさないままに、日々過ごすことになるだろう、と考えていた。
 ボンベイを出発して一時間、列車はいくつか高架橋を渡り、サルセット島を通過して、開けた地方を走っていた。カリヤンでは、カンダラとプーナを経てインド南東部へと下ってゆく支線に連絡している駅についた。そしてポーウェルを通過し、一行は山あいへと入っていった。そこは玄武岩を基礎とし、頂上をうっそうたる森林でおおわれた山脈であった。さて、フィリアス・フォッグとサー・フランシス・クロマーティは、列車の中でとぎれとぎれになりがちな会話をしていた。今また、サー・フランシスは新しく話を始めた。「数年前でしたら、フォッグさん、あなたはこのあたりで遅れていたでしょうから、たぶん賭けに負けたでしょうな。」
 「なぜです、サー・フランシス。」
 「なぜなら、列車がこの山あいで止まっていたからですよ。乗客はかごか馬で山を越してカンダラまで行かねばならなかったからのです。」
 「そのような遅れは私の計画には全く影響しませんよ。」フォッグ氏は言った。「そんなたぐいの障害が起こるだろうことは考えてありますから。」
 「しかし、フォッグさん。」サー・フランシスは畳みかけた。「あなたはすでに遅れるようなことをしてるかもしれませんぞ。この若者はパゴダでとんでもないことをしでかしましたな。」
 パスパルトゥーは、毛布にくるまってぐっすりと熟睡していたから、誰かが自分のことを話しているとは夢にも思わなかった。
 「政府の方針として、そういったたぐいの罪は厳しく罰せられるのです。インドにおいては、宗教的慣習には特別な注意を払わなくてはいけないのです。もしあなたの従者が捕まれば―。」
 「よく分かりました。サー・フランシス」フォッグ氏は答えた。「彼が捕まったら、有罪となって刑に服すでしょう。それから、おとなしくヨーロッパに帰っていくでしょう。しかし、そのことが何で主人にまで影響するのか分かりませんよ。」
 そして会話は止まった。夜を徹して列車は山あいを走り抜け、ナシクを通過した。翌日は平坦なところを進み、カンディシュ地方でも耕作が盛んな地方を通りかかった。そこには村がところどころにあり、それぞれにパゴダのミナレが建っていた。この肥沃な地方は、いろいろな場所に流れている小さな川やすんだ流れを利用して潅漑されている。それらの流れはだいたいゴダバリ川を源にしているのだ。
 パスパルトゥーは起きあがり、景色を見ていた。自分が今まさに鉄道に乗ってインドを横断していることが信じられなかった。機関車は、英国人の機関士によって運転され、英国産の石炭を燃やして走っていた。列車の煙が、綿、コーヒー、ナツメグ、クローブ、胡椒などの農園の上になびいていた。煙はヤシの林の周りで渦をまいていた。林の中には、美しいバンガローや(捨てられた修道院のような)ヴィバーラ、そして、インド建築の粋というべき装飾に満ちた、壮麗な寺院が見えていた。やがて、水平線にまで広がる広大な平地にさしかかった。続いて、蛇や虎が住むジャングルに入った。動物たちは、列車の音で逃げていった。そして列車は、線路によって分断された森の中を通っていった。その森にはいまだに象が生息していた。その寂しげな目で、通りすぎる列車をじっと見つめていた。
 旅行者たちは、マレカウンを過ぎ、かつてカーリ女神の信徒たちによってよく殺戮が行われた、あの不吉な地方を横切った。優雅なパゴダ群が建つエローラーが近くに見え、そしてあの有名なアウランガバードに着いた。ここは昔、あの残忍なアウランジーブ帝の首都であった。今ではニザームの王国から分離した地方のうち一州の首邑《しゅゆう》に過ぎない。このあたりは、ザック団の首領にして絞殺者の王だった、フェリンシーが支配した土地でもあった。悪党どもは、秘密の契約によって結びつき、『死の女神』の栄光のために、あらゆる年代の犠牲者を絞め殺した。しかも、血を流すことなく殺人を行ったのである。そのため、この地方で旅をする際に死体を見ずに移動することがほぼ不可能とされた時期があった。英国政府は、彼ら殺人者たちをほぼ全滅させることに成功していた。けれども、ザック団はいまだ存在しており、あの恐ろしい儀式を実現することに力を注いでいるのだった。
 十二時三十分に、列車はブルハンブルで停車した。パスパルトゥーはそこでインド風のスリッパを購入することができた。そのスリッパは偽真珠の飾りを施してあり、明らかに装飾用といえた。彼はそのスリッパを履き、歩き出した。一行は急いで朝食を食べ、アスルグールへ向かって出発した。列車はタプト川の土手に沿って進んでいった。この川はスラトの近くでカンベイ湾にそそいでいる。
 パスパルトゥーは今、頭の中で空想に没頭していた。ボンベイに到着するまでは、旅行がそこで終わるのではないか、という希望を抱いていた。しかし、インドを全速力で横断している今、突然彼本来の、空想的な精神がよみがえってきた。昔の放浪癖がまた目覚めたのだ。若いときの夢見がちな彼に戻ったのである。パスパルトゥーは主人の計画を真剣なものとして受け取るようになった。本当に賭けが行われており、そのために自分たちは世界一周をしていて、指定された時間内にそれを成し遂げなければならないのだということを信じるようになった。予想される日程の遅れや、途中で起こるかもしれない事故のことを心配するようになっていた。パスパルトゥーは自分自身のこととして賭けに対する関心を抱くようになった。そしてあることに気づき、ふるえだした。自分のせいで賭けがふいになったかもしれないのだ。昨日はなんてばかなことをやってしまったんだろう。
 パスパルトゥーは、フォッグ氏ほど冷静な方ではなかったので、全く落ち着きがなかった。過ぎ去った日々を数え上げ、列車が止まると呪いの声をあげ、列車が遅れていると不満たらたらだった。そして、フォッグ氏が機関士に報賞金を約束しなかったことを、心の中で責めていた。ところで、報賞金というものは、汽船の速度を上げるのには役に立つが、列車に対しては実行できないのである。
 夕方頃に、列車はサトプラ山脈の渓谷に入った。サトプラ山脈は、カンディシュ地方とブンデルカント地方を隔てている。
 翌日になって、サー・フランシス・クロマーティは、パスパルトゥーに今何時かと尋ねた。パスパルトゥーは時計を見て、今は午前三時だと答えた。ご承知のとおり、彼の時計はいつもグリニッジ子午線にあわせてあった。今この時、グリニッジ子午線からは東に七十七度離れており、時計は少なくとも四時間は遅れていた。サー・フランシスは、パスパルトゥーの言った時刻を訂正した。しかしパスパルトゥーは、フィックスに言ったような答えをサー・フランシスに返した。准将は、時計はそれぞれの地方にある子午線にあわせなければいけないと主張した。「いいかね、我々は東へ東へと、太陽が昇ってくる方へ向かって進んでいるのだよ。だから、経度を一度越すごとに、四分ずつ日が短くなるのだよ。」
 パスパルトゥーは時計を調整し直すことを頑固に拒否した。時計は相変わらずロンドン時間のままだった。まったく無邪気なわがままだったし、誰も傷つけることはなかった。
 列車は午前八時になって、ロタールから十五マイル離れた空き地の真ん中で止まった。周囲には転々とバンガローや労働者の小屋があった。車掌が、車両づたいに通っていきながら、こう叫んだ。「乗客はここで降りてください!」
 フィリアス・フォッグはサー・フランシス・クロマーティに説明を求めた。しかし准将は、なぜ列車がこんな、ナツメヤシやアカシアが茂る森の中で停車しなければならないのか分からなかった。
 パスパルトゥーはびっくりして車室から飛び出した。すぐ戻ってきて叫んだ。「ご主人様、鉄道がありません!」
 「何だって?」サー・フランシスが尋ねた。
 「列車がこれ以上進めないんです。」
 准将はすぐに客車から降りた。フィリアス・フォッグもゆっくりとあとに続いた。二人は車掌のところまで行った。
 「我々はどこにいるんだね?」サー・フランシスは言った。
 「コルビーの村落です。」
 「ここで止まるのかね?」
 「そうです。鉄道ができていないのです。」
 「何! できていない?」
 「はい。ここからアラハバードまで、まだ五十マイルほど線路をしかなければならないのです。その先には線路があるのですが。」
 「しかし、新聞は全線開通と発表していたのだぞ。」
 「それはですね、閣下。新聞が間違っていたんです。」
 「それならなぜ、ボンベイからカルカッタまでの切符を売ったのだ!」サー・フランシスは怒って叫んだ。
 「ごもっともです。」車掌は言った。「しかし、お客様方は、コルビーからアラハバードまではご自分で行かなければならないことはご承知のはずですが。」
 サー・フランシスは怒り狂った。パスパルトゥーは車掌を殴りつけてやろうと考えていた。主人の顔を見ることができなかった。
 「サー・フランシス。」フォッグ氏は静かに言った。「失礼ながら、アラハバードまでどうやって行くのか考えませんか。」
 「フォッグさん。このことはあなたにとって不幸な遅れとなりますな。」
 「いいえ、サー・フランシス。こうなると思っていました。」
 「何ですって! あなたはこのことを知って―。」
 「知りませんでした。しかし私は、遅かれ早かれ何かの障害が行く手に立ちはだかることは知っていました。ですから、何も失いません。私はすでに二日間、日程に余裕があります。それを失うだけです。二十五日正午に、カルカッタからホンコン行きの船便が出ます。今日は二十二日です。時間内にカルカッタへ到着しますよ。」
 ここまで自信を持って断定されると、もう何も言えなかった。
 とにかく、鉄道がここで終わっていることは間違いのない事実であった。新聞は進みぐせのある時計のようなものであり、鉄道の完成を早まって記事にしてしまったのだ。ほとんどの乗客はここで列車が止まっていることを知っていたので、列車を降りて、村にある乗り物を次々雇い始めた。四輪馬車、コブウシがひく荷馬車、動きまわるパゴダとでも形容すべき旅行車、かご、ポニーなどなど。
 フォッグ氏とサー・フランシス・クロマーティとは、村中を捜しまわったあげく、何も見つけられずに帰ってきた。
 「歩いていきましょう。」フィリアス・フォッグは言った。
 パスパルトゥーは、主人と再会したとき、顔をしかめて見せた。美しいけれども、もろすぎるインド風シューズのことを考えたのだ。それに、彼なりにうまいこと乗り物をさがしてきたのだ。少しためらったあと、こう言った。「ご主人様、うまい乗り物を思いつきました。」
 「何だね。」
 「象でございます! インド人が飼っているのです。ここから百歩ほど行ったところにいるのです。」
 「行って、その象を見よう。」フォッグ氏は答えた。
 一行はすぐにあるあばら屋に着いた。そのそばに、高い柵で囲まれた一角があった。問題の象はそこにいた。インド人があばら屋から出てきて、一行を囲いの中へ案内した。象はそのインド人の所有物であった。彼はもともと、荷物運搬用としてではなく、戦闘用として育てようとしていた。そのため、三ヶ月間砂糖とバターのみを与え続けて、象をいらいらする状態に追い込んでいた。野生のときにはなかった獰猛《どうもう》さを、象に仕込むつもりだったのだ。この方法は、インド象を戦闘用に育てようとする人たちがよくやることなのだ。しかし、フォッグ氏にとって幸いなことに、象はまだ狂暴化していなかった。象本来の性質である優しい心をまだ持ち続けていたのだ。
 キウニ――これがその象の名前である――は確かに、長時間にわたって速く走ることができた。他に手段はなかった。フォッグ氏は象を雇うことにした。しかし、象はインドでは決して安いものではなかった。いつも足りないものだからだ。雄だけが、サーカスで芸を見せるのに適しているので、より熱心に捜索されていた。飼い慣らされたものは特に少なかった。そのため、フォッグ氏がインド人に、キウニを雇いたいと申し出ると、すぐに拒絶された。
 フォッグ氏はくいさがった。アラハバードまでその獣を使うのに、一時間につき十ポンドという莫大な金額を提案した。断られた。二十ポンドでは? また断られた。四十ポンドでは? それでも断られた。パスパルトゥーは、その値上がりぶりに飛び上がった。しかし、インド人はその誘いを断った。それでもまだ、礼金の値上げは続いた。もし象がアラハバードまで着くのに十五時間かかるとすると、インド人は六百ポンド以上もの英国の金を受け取ることになっていた。
 フィリアス・フォッグは、少しも動揺した様子を見せずに、その象を買おうとインド人に言った。まずは千ポンドでどうか、と申し出た。インド人は、たぶんもっと大きな儲けが欲しいと思ったのだろうが、その申し出を断った。
 サー・フランシス・クロマーティは、フォッグ氏をわきへ連れていって、これ以上値段を上げる前に、よく考えた方がいいと言った。フォッグ氏はこう返事した。私は、軽々しくことを起こす習慣は持っておりません。二万ポンドの賭けが危ういのです。今はあの象が、私には絶対に必要なのです。もし、今の値段から二十倍にはねあがったとしても、私はあの象を手にいれます。
インド人のもとへ帰ると、その小さく鋭い目はどん欲に光っていた。その目は明らかに、象を獲るのにどれだけ大きい金額が出るかだけが問題であることを表していた。フォッグ氏は、千二百、千五百、千八百、二千と値段を上げていった。パスパルトゥーは、普段は赤ら顔だったが、真っ青になった。
 二千ポンドでインド人は手を打った。
 「なんて値段だ! 天国だよ。」パスパルトゥーは叫んだ。「象にとってはな。」
 あとはガイドを雇うだけだった。それは比較的簡単だった。利口そうな、パーシー人の若者がその仕事を申し出た。フォッグ氏は彼を雇い、太っ腹な報酬を約束した。そのため、パーシー人は頑張って仕事をやり遂げようと思った。象が引き出され、身支度をした。パーシー人は象使いの才能があった。象の背中に鞍付きの布をつけた。そして左右に、奇妙な、心地よいとはいえない座席を取り付けた。
 フィリアス・フォッグはインド人に、旅行鞄から札束を取り出して代金を払った。パスパルトゥーはあわれにも、臓器を取り出されているように感じていた。それから、フォッグ氏はサー・フランシスに、アラハバードまでお送りしようと申し出た。准将は喜んでその申し出を受けた。乗客がもう一人増えても、この巨大な獣は全然疲れないはずだった。
 食料をコルビーで購入し、サー・フランシスとフォッグ氏は座席に座った。パスパルトゥーは背中の鞍敷きにまたがった。パーシー人は象の首のところに座った。そして、九時に村を出発した。象は最短距離でもってヤシの密林を通っていった。

..第十二章:フィリアス・フォッグと彼の仲間がインドの森を横切って危険を冒したことと、その後に続くこと
 走る距離を短くするために、ガイドは建造中の線路から左に曲がっていった。線路はビンシア山脈がいろんな起伏を作っているために、進路を曲げざるを得なかったのだ。パーシー人は、この地方でどういう道をたどればいいかをよく知っていた。その知識にかけて、森を通っていけば二十マイルほど短縮することができると言い切った。
 フィリアス・フォッグとサー・フランシス・クロマーティは、二人のために用意された座席に座っていた。その座席は、象が急いで歩くのに伴ってひどくゆれた。パーシー人が象を急がせるから、座席はなおさらゆれるのだった。しかし二人は、いかにも英国人らしい冷静さで、その不快さを耐えていた。会話はほとんど交わさなかった。お互いの姿を見ることすらなかった。
 パスパルトゥーは象の背中に乗っていた。休みなく象が歩き続けたので、その振動が直接彼のところにやってきた。彼は主人の忠告に従い、舌を歯の間に入れないように気をつけていた。もしそうなったら舌を噛み切ってしまうからだ。この感心な人物は、象の首から尻まではね回っていた。まるで踏み切り板にのった道化《どうげ》のようだった。そんな状態でも、はねている最中は笑っていて、ときおりポケットから砂糖を取り出してキウニの鼻に持っていった。キウニは急ぎ足をゆるめることなく砂糖を受け取った。
 二時間走ったあと、ガイドはキウニを止めて休憩させた。キウニは近くの泉でのどの渇きをいやし、まわりにある枝や灌木をむさぼりはじめた。サー・フランシスもフォッグ氏も、遅れることをいやがらなかった。むしろ、安堵の表情を浮かべていた。
 「まったく、こいつは鉄でできているんだな!」准将はキウニに感心してこう言った。
 「鍛えられた鉄ですね。」パスパルトゥーが答えた。答えながら、急ごしらえの朝食を準備していた。
 正午、パーシー人は出発の合図を出した。まもなく、非常に荒涼とした地方にさしかかった。ナツメヤシや小型のヤシが生い茂る密林を通りかかった。そして広々とした、灌木が点在するだけの乾いた平野に出た。そこには、閃長石の岩がごろごろ転がっていた。ブンデルカンドでも、このようなところには旅行者はめったに来ない。この地方には、狂信的な信仰を持つ人たちが住んでいる。彼らはヒンドゥー教の中でもとても恐ろしい習慣を保持しているのだ。英国政府はこの地方を完全に支配することができなかった。ここはいまだ王の影響下にあり、王たちがこもる山中の砦には英国の威令は届かなかった。旅行者は何度か残忍な現地人たちの集団を見かけた。現地人たちは、象に乗ってここを突っ切ろうとしている一行を認めて、怒りからか脅しをかけはじめた。パーシー人はできるだけ人を避けるようにしていた。動物の姿はほとんど見かけなかった。猿でさえいろんなしかめっ面をして逃げていった。パスパルトゥーはゆれながら笑っていた。
 愉快がってはいたが、パスパルトゥーにはひとつ心配なことがあった。フォッグ氏は、アラハバードについたらこの象をどうするのだろう? いっしょに旅を続けるのだろうか? 無理だ! 輸送にかかるコストで破産してしまうだろう。売り払うか、それとも解放してやるのか? この獣は考慮すべき価値が十分あるからな。フォッグ氏がこの俺、パスパルトゥーに、キウニをくれてやると言いだしたら、とても困ってしまうなあ。こんなことをパスパルトゥーはずっと考えていた。
 一行はビンディア山脈の主脈を午後八時に通り抜け、北側のふもとに発っていた、壊れかけのバンガローでもう一度停止した。その日、一行はほぼ二十五マイル移動していた。しかしまだ、同じ距離を走らなければアルハンブラの駅には着けないのだった。
 夜は寒かった。パーシー人は枝を集めてきて、バンガローでたき火をした。そのおかげで非常に暖かく感じられた。コルビーで購入した食料で、十分な夕食ができた。一同は食べることに夢中だった。会話はだんだんとりとめのないものになり、やがて大きないびきをかいて眠ってしまった。ガイドはキウニを見張っていた。彼は大きい木の幹に寄りかかって、立ったまま眠った。
 夜の間、安眠を妨げるようなことは何も起こらなかった。ときおりヒョウのうなり声や、鋭い猿の鳴き声が聞こえてくるだけであった。猛獣たちの声は聞こえなかったし、バンガローの中にいる人には危険なことは起こらなかった。サー・フランシスは、疲れ切った実直な軍人らしく、深い眠りに落ちていた。パスパルトゥーは、浅い眠りの中で、昼間やっていたとんぼ返りを繰り返していた。フォッグ氏はというと、サヴィル街にある自分の邸宅にいるみたいに、静かに眠っていた。
 朝六時、一行はまた動き出した。ガイドは夜までにアルハンブラに着こうとしていた。そうなった場合、フォッグ氏は旅行を始めて以来節約してきた四十八時間のうち、一部を使うだけですむのだ。キウニはまた早足でかけだした。ビンジア山脈の最後の斜面を下った。正午頃、カレンゲル村を通過した。カレンゲル村は、ガンジス川の支流であるカニ川のほとりにある。ガイドは、人が住んでいる場所をさけていた。開けた土地を走る方が安全だと考え、ガンジス川流域に広がる低地部分の始まりを通っていった。アルハンブラまではあと十二マイルを残すだけとなっていた。その南西部、バナナの茂みの下で休憩をとった。バナナの実は、パンのようにヘルシーで、クリームみたく汁気を多く含んでいて、一行はおいしくいただいた。
 二時になって、ガイドは何マイルにもわたって広がっている、深い森に入っていった。彼は木陰を移動したがっていた。一行はいやな事故にもあわずに、この移動を終わろうとしていた。そのとき、象が何かにおびえ、突然歩みを止めた。
 ちょうど四時だった。
 「何が起こったんだ?」サー・フランシスが頭を出した。
 「分かりません、ご主人。」パーシー人は答えて、密林にこだまするざわめきに耳をすましていた。
 だんだん音がはっきりしてきた。金管楽器をひきつれた、合唱団のコンサートみたいな音が聞こえてきた。パスパルトゥーは目と耳をそっちに向けた。フォッグ氏は黙って根気よく待った。パーシー人は地面に飛び降り、象を木にとめて、茂みの中へと入っていった。すぐに帰ってきて、こう言った。「バラモンの行列が来ます。見られないようにしましょう。」
 ガイドは象を木からはずし、茂みに隠した。同時に、旅行者に、そのままじっとしていてくださいと頼んだ。彼自身は、気づかれしだい動物にまたがれるような体勢をとった。しかし、みたところは、狂信者の行列は木の葉の中に隠れている一行に気づかずに通りすぎていくようだった。一行はうまく隠れていたのだ。
 耳障りな声や楽器の音がますます近寄ってきた。タンバリンやシンバルの音に物憂げな歌も響いてきた。行列の先頭が木々の下にみえてきた。一行との距離はわずか百歩ほどだった。そのため一行は、奇妙な宗教パレードを枝の間から簡単に見ることができた。最初にバラモンがやってきた。僧帽をかぶり、けばけばしい僧衣を着ていた。僧侶たちは老若男女さまざまな信者に囲まれていた。信者たちは悲しげな歌を歌い、合間にタンバリンとシンバルの音をはさんで歌い続けた。その後ろから、大きい車輪が付いた車がやってきた。その車輪には、互いに絡み合ったヘビが描かれていた。車は、派手な衣装を着せられた四頭のコブウシによって引っぱられていた。その上には、四本の手を持った、恐ろしげな彫像がすえられていた。彫像はくすんだ赤色に塗られ、目は荒々しく、髪は乱れ、舌をつきだし、唇はキンマで彩られていた。彫像はうつぶせになった巨人の上に立っていた。巨人には頭がなかった。
 サー・フランシスは彫像を見て、こうつぶやいた。「カーリ女神だ。愛と死の女神だ。」
 「死の女神ではあるでしょう。」パスパルトゥーはささやいた。「しかし愛の女神だなんて―あの醜い老婆がですか? そんなばかな!」
 パーシー人は黙っているように、と身ぶりでいった。
 年取った行者たちが彫像のまわりを飛び回り、狂ったように騒いでいた。行者の体には黄土色の縞模様があつらえてあり、血が流れ出している切り傷を体中につけていた。狂信的な人たちは、盛大なインドのお祭りともなると、今でも自分からクリシュナの像をのせた車の前に、自ら身を投げ出すのである。その後ろから、東洋風のぜいたくな服で体じゅうをおおい、一歩ごとにふらついている女性を連れてきているバラモンたちがやってきた。その女性は若く、ヨーロッパ人みたいな肌の色をしていた。頭、首、肩、耳、腕、手足などに、さまざまな宝石や装飾品―ブレスレット、イヤリング、指輪など―がつけられていた。金箔をちりばめた寒冷紗《かんれいしゃ》をはおり、その上に軽いモスリン製のローブをまとっていた。その服は彼女の体型をかたどっていた。
 若い女性を護衛していた兵たちは、女性とは対照的だった。むき出しのサーベルを腰にぶら下げ、金銀をちりばめた大きなピストルで武装し、死体をのせた輿《こし》をかついでいた。死体は老人の体だった。王が着るような豪華な衣装を身にまとっていた。生きているみたいな感じで、真珠をあしらったターバンを巻き、シルクと金糸を織り込んだローブをまとい、ダイヤモンドを縫い込んだスカーフをつけて、ヒンドゥーの王にふさわしい立派な武器をおびていた。その後に楽隊が続き、最後にはね回っている行者たちがやってきた。行者たちの叫びは、ときおり楽器の音をかき消していた。それで行列は終わった。
 サー・フランシスは行列を見て、悲しげな表情になり、案内人の方を向いて言った。「サッティーだな。」
 パーシー人はうなずき、指を唇にあてた。行列はゆっくりと木の下を進み、やがて最後尾にいた行者たちも深い森の中に消えていった。歌はだんだん遠ざかっていった。ときおり叫び声が遠くから聞こえてきたけれども、ついにはまったく聞こえなくなった。
 フィリアス・フォッグはサー・フランシスの言葉を聞いていて、行列が消えるとこう言った。「サッティーとは何ですか。」
 「サッティーとは、」准将は答えた。「いけにえのことです。ただ、自発的なものなのです。今あなたがごらんになった女性は、明日、日の出とともに焼け死ぬのです。」
 「何てひどいことを!」パスパルトゥーは怒りをこらえることができなかった。
 「では、あの死体は?」フォッグ氏は尋ねた。
 「あれは王なのです。そしてあの人の夫です。」ガイドは言った。「ブンデルカンド地方の、独立した王だったのです。」
 「そうですか。」フィリアス・フォッグは言った。その声には少しも感情は入っていなかった。「そんな野蛮な風習が、まだインドには存在するのですね。英国がそれをやめさせることはできなかったのですね。」
 「このようないけにえは、インドの大部分ではもう起こりませんよ。」サー・フランシスは言った。「しかし、ここみたいな未開な地方では、私たちは何の力も持っていないのです。特に、ここブンデルカンド地方となるとなおさらです。ビンドヤ山地の北側一帯は、殺人と略奪の舞台となってきたのです。」
 「ああ、かわいそうに!」パスパルトゥーは叫んだ。「生きたまま焼かれるなんて!」
 「その通り。」サー・フランシスが答えた。「生きたまま焼かれるのです。だが、そうしなかったら親類たちに何をされるか、おそらく想像もつかんでしょうな。髪を剃り落とされ、わずかな米だけあてがわれて、なおかつ軽蔑されるんです。不浄な人とみなされて、のら犬みたいにどこかの街角で死んでゆく。そんないやな生活が待っているのだから、女性たちはかわいそうに進んでいけにえを申し出ます。愛ゆえに、というよりは、宗教的な理由からそうするんです。ただ、中には本当に自分の意志でいけにえになる人もいます。それを防ぐためには、政府が介入しなければなりません。数年前、私がボンベイに住んでいたときのことですが、ある若い未亡人が、知事に対して、夫の死体とともに焼かれたいと申し出てきたのです。もちろんあなたもそうするでしょうが、知事はそれを認めませんでした。すると未亡人はボンベイから出ていって、とある酋長が支配する地域へ行き、望みどおり焼かれてしまったんです。」
 サー・フランシスが話している間、ガイドは頭を振っていた。話し終わるとこう言った。「あの人は、自分から進んでいけにえになったんじゃないんです。」
 「どうして知ってるんだ?」
 「ブンデルカンドでは、よく知られていることなんです。」
 「しかし、あの人はいやがっているようには見えなかったが。」サー・フランシスは指摘した。
 「それは、大麻や阿片の煙でもうろうとしているからです。」
 「で、奴らはどこへ向かっているんだ?」
 「ピラジのパゴダです。ここから二マイルほどの場所です。あの人は、一夜をそこで過ごすのです。」
 「それで、いけにえになるんだな。」
 「明日、光がさしはじめる頃には…。」
 ガイドは象を茂みの外へ出し、その首のあたりにのった。そして、キウニに出発の合図を出した。そのとき、フォッグ氏はその合図を止めさせた。そして、サー・フランシス・クロマーティの方を向いて言った。「私たちの力で、あの人を救ってやれないでしょうか。」
 「救いましょう、フォッグさん!」
 「私にはまだ十二時間の余裕があります。その時間が使えますよ。」
 「おお、あなたは親切な人だったんですね!」
 「ときどきですよ。」静かにフィリアス・フォッグは言った。「時間があればそうしてるんです。」

..第十三章:パスパルトゥーが改めて「幸運は勇士に好意を示す」ことを証明すること
 その計画は大胆なものだった。困難に満ちていたし、実行不可能にも見えた。フォッグ氏は命を―少なくとも自由を―危険にさらしていた。従って、彼は世界一周旅行をも危険にさらしていたわけだ。しかし彼はためらわなかった。サー・フランシス・クロマーティも、全力をもって助けるとフォッグ氏に言った。
 パスパルトゥーの心では、とっくに彼女を救いに行くつもりになっていた。主人の考えに魅せられていた。その冷たい見かけの下にある魂の存在を感じ取っていた。パスパルトゥーはフィリアス・フォッグを好きになり始めていた。
 残るのはガイドだけだった。彼はどうするのだろうか? ヒンドゥー教徒たちに味方するだろうか? 助けが得られないまでも、中立の立場でいてもらう必要があった。サー・フランシスは率直にどうするかを尋ねた。
 「閣下。」ガイドは答えた。「私はパーシー人です。あの人もパーシー人です。あなた方の指図に従います。」
 「上出来だ。」フォッグ氏は言った。
 「しかしながら、」ガイドは言った。「命がけの仕事になりますね。それに、捕まったら恐ろしい拷問が待っているでしょう。」
 「わかってるよ。」フォッグ氏が答えた。「行動するのは夜まで待たないといけないだろうね。」
 「そう思います。」ガイドは言った。そして、このインド人は、いけにえとなる人のことを話した。彼が言うには、あの人はパーシー族のインド人で、美人として有名であり、裕福なボンベイ商人の娘ということだった。ボンベイでイギリス流の教育を徹底して受けたため、しぐさも教養も、ヨーロッパ人のものとなっていた。名をアウダといった。彼女は孤児となってしまい、心ならずもブンデルカンドの老王のもとに嫁いだ。しかしすぐに寡婦になってしまった。アウダは自分の身にふりかかる運命を知り、逃げだしたが、王の一族によって捕らえられた。一族はアウダにいけにえとして死んでもらいたかった。アウダは逃げることができないように感じられた。
 パーシー人の話を聞いて、一同はますますその人を助けようという決意を固めた。ガイドがピラジのパゴダの方向へ象を移動させ、できるだけ近づいていくことに決まった。
 三十分後、一行は足を止めた。そこはパゴダから五百フィートほど離れたところにある雑木林に囲まれていたので、隠れるのに都合がよかった。その一方、行者たちのうなり声や叫び声がよく聞こえてきた。
 ここで一行は、どうやっていけにえにされそうな人を助けようか議論した。ガイドはピラジのパゴダについてよく知っていたので、あの若い人は縛られているのだろうと主張した。さて、フォッグ氏たちは、インド人たちがみな麻薬によって眠っている間にドアから進入できるだろうか? 壁に穴をあける方が確実だろうか? それは時と場合による。確実なことは、この誘拐は今夜実行しなければいけないということだ。そうでないと、日の出とともに、犠牲者は、火葬のために積まれた薪がある場所へ連れていかれてしまうのだ。そうなってしまっては、誰も彼女を助け出すことができなくなってしまうのだ。
 夜はすぐにやってきた。およそ六時頃、フォッグ氏たちは塔のまわりを見ていくことにした。行者の叫び声も聞こえなくなっていた。インド人たちは大麻を煎《せん》じた汁に酔いしれて、ぐっすり眠っているところだった。ひょっとしたら、塔の中へ入れるかもしれなかった。
 パーシー人は、一行を案内して、木の間を静かにはうように進んでいった。十分ほどして、小川が浅くなっているところを見つけた。鉄製の松明《たいまつ》がつけてあり、その中に火葬用の薪が積んであるのが見えた。その上に、芳香が満たされた王の遺体が寝かせてあった。妻とともに火葬するためにそうしてあるのだ。深まってゆく夕暮れの中で、木の上にパゴダがぼんやりと見えていた。ここから百歩分くらい離れていた。
 「行きましょう!」ガイドはささやいた。
 そして、これまでよりも慎重に、藪の中を進んでいった。フォッグ氏たちがその後に続いた。あたりは静まり返っていた。枝の中を風が吹き抜ける、低い音があるばかりだった。
 まもなく、パーシー人は空き地の端で止まった。空き地は松明《たいまつ》で照らされていた。麻薬に酔った連中が、空き地に転がっていた。戦場に多くの死者が倒れているみたいだった。老若男女みなが一緒に横たわっていた。その向こう、木の間から、ピラジのパゴダがはっきり見えてきた。
 ガイドはがっかりした。王の護衛が明かりの中に立っており、ドアを見張っていたのだ。しかも、むき出しのサーベルをもってあちこち行進していた。おそらく、パラモンたちも中で見張っているのだろう。
 パーシー人は、神殿の入り口から忍び込むのは不可能と判断した。それ以上進むのをあきらめ、一行を戻させた。フィリアス・フォッグもサー・フランシス・クロマーティも、入り口からは入れないだろうと見ていた。一行はそこで立ち止まり、ひそひそと話をした。
 「今はまだ八時だ。」准将は言った。「護衛たちもやがて眠ってしまうだろう。」
 「ありえないことではないですね。」パーシー人が答えた。
 一行は木の下に横たわり、待った。
 時間が長く感じられた。ガイドはときどき森が途切れるところまで、護衛の様子を見にいった。しかし、護衛は松明《たいまつ》の光の中で、絶え間なく監視を続けていた。塔の窓からも薄明かりがもれていた。
 一行は真夜中まで待った。警備はなおも続いていた。護衛が眠ってしまうなどということは明らかに起こり得なかった。他の計画を実行しなければならなかった。パゴダの壁に穴をあけなければならない。あとはバラモンたちが、入り口の護衛のように根気強く犠牲者のそばで監視しているかどうか確かめるだけだった。
 最後の相談をして、ガイドは準備完了を告げた。そして動き出した。フォッグ氏たちもその後に続いた。パゴダの後方へ行くために、空き地を迂回していった。十一時半に壁面に達した。途中で誰にも会わなかった。パゴダの裏側には護衛はいなかったが、ドアも窓もなかった。
 夜は暗かった。三日月は地平線に沈もうとしていたし、厚い雲が空をおおっていた。高い木が暗闇をさらに深くしていた。
 壁についただけではだめだった。そこに穴を開けなければならなかった。そのための道具としては、持っていたポケットナイフを使うしかなかった。幸い、神殿の壁はレンガや木でできていた。だから、簡単にナイフを貫通させることができた。一個レンガをとれれば、あとは簡単に取れるはずだった。
 彼らは静かに仕事にとりかかった。パーシー人とパスパルトゥーが二人して、二フィートの穴を開けるためにレンガを取り始めた。作業は順調に進んでいた。
 突然、叫び声が神殿の内部から聞こえてきた。すぐに、外からも返事をする声が聞こえてきた。パスパルトゥーとガイドは作業をやめた。聞かれてしまったのか? 警報が発せられているのか? 二人は撤収すべきときと感じ、そして逃げた。フィリアス・フォッグとサー・フランシスも続いた。四人は再び木の中に隠れて、叫び声がおさまるまで待った。そして、おさまりしだい、また作業を続けようと身構えていた。しかし残念なことに、護衛が神殿の後方にやってきた。そして、襲撃を防ぐために、そこを監視し始めた。
 一行の失望は筆舌に尽くせなかった。心ならずも作業を中止した。犠牲者のもとにたどり着くことはできなかった。そうしたら、どうやって彼女を救えばいいのだろうか?
 サー・フランシスは怒りに我を忘れ、ガイドは激怒のあまり歯ぎしりした。フォッグ氏は静かに待った。何の感情も見せなかった。
 「あきらめて行くしかないな。」サー・フランシスがささやいた。
 「行きましょうか。」ガイドは言った。
 「待って下さい。」フォッグ氏が口を挟んだ。「私はアラハバードに、あす昼前に着けばいいのです。」
 「でも、何をしようというのですか?」サー・フランシスは尋ねた。「二、三時間もすれば夜明けになりますし、それに―」
 「今は見込みがないようですが、最後の瞬間にはチャンスがでてくるでしょう。」
 サー・フランシスはフィリアス・フォッグが何を考えているのかを知りたかった。まったく、この冷静なイギリス人は何を考えているのだろうか? それにしても、馬鹿なことを言うものだ。フォッグ氏がそんな馬鹿な人だとはとうてい信じがたい。けれども、サー・フランシスは、このものすごいドラマを最後までみようと思い、その場にとどまることにした。
 ガイドはフォッグ氏たちを空き地の端っこに案内した。そこから、眠りこけている集団を見張ることができた。
 そのときパスパルトゥーは、木の枝に腰掛けていた。彼はあることを考えていた。最初はふと思いついたものだったが、しだいに頭の中で確かなものとなっていた。
 その考えを、最初は「馬鹿げたことだ!」と言い聞かせた。次にはこう繰り返した。「つまり、なぜそうしちゃいけないんだ? それは一つのチャンスだ。たぶん唯一のものだろう。それに奴らはあんな状態なんだ!」こんなことを考えながら、ヘビのように枝をつたっていった。その先はほとんど地面につきそうだった。
 時が過ぎていった。闇が去っていき、日の出が近いことが分かった。ただ、まだ明るくはなかった。突然変化が起こった。眠っていた群衆は動き出し、タンバリンが鳴り出し、歌や叫び声が起こりだした。サッティーの時がやってきたのだ。パゴダのドアが開いた。中から明るい光がもれた。その中に、フォッグ氏とサー・フランシスは犠牲者を見いだした。彼女は麻薬によるしびれを振り払おうとしているように見えた。死刑執行人たちの手から逃げようと努力していた。サー・フランシスの心臓は激しく打った。本能的にフォッグ氏の手をつかんだ。その手に抜き身のナイフがあった。
 そのとき、群衆が動き出した。若い女性は大麻の煙を吸わされて、再び昏睡状態におちいった。バラモン僧たちは、宗教的な叫び声をあげながら、彼女を護送していった。
 フィリアス・フォッグとその仲間たちは、群衆の一番最後に混ざって、後をついていった。二分で、群衆は小川の浅瀬に着き、積んである薪から五十歩ほどのところで止まった。そこにはまだ王の遺体が置かれていた。薄明かりの中、フォッグ氏たちは犠牲者を見た。彼女は微動だにせず、王の遺体のそばに寝かせられていた。そして松明《たいまつ》が運ばれてきて、油がたっぷりしみこませてあった木に火がつけられた。すぐに燃えあがった。
 この瞬間、サー・フランシスとパーシー人は、フィリアス・フォッグを押さえていた。彼は、無鉄砲な高潔の念から、薪のところに突き進もうとしていたのだ。
 フォッグ氏はすばやく彼らを押しのけた。
 そのとき、突然場の空気が変わった。恐怖に駆られた叫びが起こった。群衆の中にいたものは、恐怖に駆られて地面にひれ伏した。
 老王は死んではいなかった。突然、亡霊のように立ち上がったのだ、妻を腕の中に抱えて。そして、煙がもくもくとたちこめる中を、薪から降りてきた。そのため一段と亡霊らしく見えた。
 行者も兵士もバラモンも、恐怖に支配されていた。みな顔を地面につけ、あえてこの不思議な光景を見ようともしなかった。
 気を失っていた犠牲者は、彼女を支える力強い腕によって、軽々と運ばれていた。フォッグ氏とサー・フランシスは直立していた。パーシー人は頭を伏せていた。パスパルトゥーはまちがいなく麻痺状態となっていた。
 復活した王はサー・フランシスとフォッグ氏の方へ近づいてきた。突然、こう言う声が聞こえた。「逃げるのです!」
 それはパスパルトゥーだった! 彼は煙がたちこめる中、薪の下にすべり込んだのである。あたりがまだ暗かったことも彼に幸いした。そうして、若い女性を死から救い出したのである! パスパルトゥーは、幸運と大胆さによって仕事をなしとげたのだ。彼はあたりが恐怖におそわれている中を、ゆうゆうと通りぬけてきたのだ。
 一瞬後、四人は森の中に姿を消した。象が彼らを急ぎ足で運んだ。しかし叫び声とざわめきが起こり、弾丸が音をたててフィリアス・フォッグの帽子を撃ち抜いた。それは策略が見破られたことを示していた。
 老王は死んでいた。薪が燃えている中にその姿があった。バラモンたちは恐怖が去った後に、誘拐が行われたことを悟ったのだ。そして森へ急いで走っていった。兵士たちが後に続き、逃亡者へ向けて一斉射撃を行った。しかし、フォッグ氏たちは狂信者らとの距離を一気に離していった。まもなく、銃弾や矢が届かないところまで逃げることができたと思った。

..第十四章:フィリアス・フォッグが、カンジス川の美しい景色を見ることを考えないでそこを下りきること
 向こう見ずな計画は成功した。パスパルトゥーは一時間は思い出し笑いをしていた。サー・フランシスは、犠牲者を救い出したパスパルトゥーの手を握りしめた。主人は「よくやった!」とだけ言った。これは彼が従者のことを最大級にほめた言葉だった。それに対し、パスパルトゥーはこう答えた。すべての名誉はご主人様のものです。私はただ「ちょっとした」考えを思いついただけです。パスパルトゥーは、体操教師だったり、消防士だったりした自分が、たった一瞬の間だけでも、芳香馥郁《ほうこうふくいく》たる老王として、素敵な女性の夫となったことを思いながら笑っていた。
 インド人の女性はといえば、まだ意識を失っていた。何が起こったのか知らなかった。そして、旅行用毛布にくるまって、座席の中で横になっていた。
 象はパーシー人のうまい誘導のもと、うすぐらい森の中を急いでいた。パゴダを去って一時間で、広大な平原を渡った。
 一行は七時に休息をとった。若い女性はまだ完全な虚脱状態であった。ガイドは彼女にブランデー入りの水を飲ませた。しかしまだ、麻痺から来るうたた寝から彼女を呼び覚ますことはできなかった。サー・フランシスは、大麻の煙がもたらす効果についてよく知っていた。彼女はもう大丈夫だと保証した。准将は、彼女の身に待っている運命のことを心配していた。フィリアス・フォッグにそのことを話した。そして、彼女がインドに残っていたら、また奴らの手に落ちてしまうだろうと言った。狂信者たちは国じゅうに散り、英国警察の手をかいくぐり、マドラスだろうとボンベイだろうとカルカッタだろうと、彼女を取り戻しにくる。彼女はインドを立ち去らないと、身の安全を確保できないだろう。
 フィリアス・フォッグは、そのことは考えておきます、と答えた。
 アルハンブラの駅には、だいたい十時ごろに到着した。そこからまた線路が始まっていた。フォッグ氏たちは、それを使えば二十四時間たたないうちにカルカッタに到着できるのだ。フィリアス・フォッグは、それによって汽船に乗り込むことができる。船は次の日、十月二十五日正午にカルカッタを出発してホンコンへ向かうのだ。
 若い女性は駅の待合室に寝かされた。列車を待つ間、パスパルトゥーは彼女のために、化粧品や服、ショール、毛皮など、いろいろ買ってくることをいいつかった。主人たるフォッグ氏は、パスパルトゥーがうまく買い物をしてくることを疑わなかった。パスパルトゥーはただちに行動を開始した。アルハンブラの大通りにでた。アルハンブラは通称を神の都といった。インドであがめられている町であった。町は二本の神聖な川、ガンジス川とジャムナ川が合流する地点に建っていた。ここを流れる水は、インド半島じゅうの巡礼者のあこがれとされていた。ラーマーヤナの伝説によれば、ガンジス川は天から流れ出しており、ブラーマのお恵みによって、地上へおりてきているのだった。
 パスパルトゥーは買い物をしながら、町をじゅうぶん見てまわった。町は昔は立派な砦によって守られていた。砦は今は州刑務所となっている。町の商業は、昔栄えていたとは思えないくらいにまで衰退してしまっていた。パスパルトゥーは、リージェント通りにあるような商店を探したが、無駄足に終わった。最後に初老の、無愛想なユダヤ人に出会った。彼は中古の品を売っていた。パスパルトゥーはそこで、スコッチ織りのドレスや大きなマント、カワウソの毛皮が裏地に縫い込んである立派なコートを買い、気前よく七十五ポンドを支払った。そして意気揚々と駅に帰っていった。
 アウダは、ピラジのバラモンにむりやり吸わされた麻薬の酔いからしだいに醒《さ》めてきて、徐々に意識を取り戻してきた。その美しい目は、再びインド人らしい優しさを取り戻していた。
 詩人王ウサフ・ウダールはかつて、王妃アメナガラを称えて次のように言った。
 「その艶《つや》やかな長髪は真ん中からきちんと二つに分かれ、白くてきめ細かな両|頬《ほお》のなだらかな輪郭を縁取っている。黒い眉は、愛の神カーマの弓に似た形と魅力を持っている。長い絹糸のような睫毛《まつげ》のかげには、大きな澄んだ目があって、その黒い瞳の中には、ヒマラヤの聖なる湖水さながらに、純粋な影と天の光がただよっている。その歯はみな白くきれいで、微笑をたたえた唇のあいだで、半開きの石榴《ざくろ》の花の中にある露の滴さながらに輝いている。繊細な耳、ばら色の手、小さな足、みな白蓮《びゃくれん》のつぼみのごとくふくよかで優美であり、セイロンの最も美しいダイヤモンドみたいな輝きを持っている。胴は細くしなやかで、抱くには片腕で事足りて、ふくよかな脚線美をえがく腰と、若さを示す美しい胸をいっそうひきたてている。それらすべては、宝とすべき若さを見せている。彼女が絹の服のしなやかなひだに包まれると、不朽の彫刻家ヴィクヴァカルマの妙手によって作られた純銀像を思わせる。」
 しかし、このような叙事詩と引き比べなくても、アウダの美しさを描くことは可能である。ヨーロッパ風の表現でいっても、アウダは素敵な女性であった。彼女は純粋な英語を話した。その点では、この若い婦人は教育によって変わったというガイドの主張は正しかった。
 列車がアルハンブラを出発しようとしていた。フォッグ氏は報酬をガイドに払っていた。だが、約束した値段は払ったものの、それ以上一ファージングも払おうとはしなかった。これにパスパルトゥーは驚いた。主人がいかにパーシー人の献身に負うところが大きかったかをよく覚えていたからだ。事実、彼の命はピラジでの冒険によって危険なものとなっていた。もし狂信者たちに捕まれば、復讐されるに違いないのだ。キウニの処分という問題も残っていた。どうすればいいのだろう? なにしろ高い金を払って購入したのだ。しかし、フィリアス・フォッグの腹は決まっていた。
 「君。」彼はガイドに言った。「君はよく私に尽くしてくれた。仕事の報酬は払ったが、尽くしてくれたお礼をしていない。この象を受け取ってくれないか? こいつは君のものだ。」
 ガイドの目が光った。
 「あなたさまは、このような財産を私めにくださるのですか!」彼はこう叫んだ。
 「受け取ってくれたまえ。」フォッグ氏は言った。「これでもまだ、君には借りがあるくらいだ。」
 「よかったな!」パスパルトゥーは叫んだ。「受け取ってくれたまえよ。キウニは勇敢で忠実な獣だよ。」
 そして、象に歩み寄って、角砂糖をあげながらこう言った。「キウニや。こっちへおいで。」
 象はうれしさからブーブー言った。パスパルトゥーの腰を鼻でつかんで、頭のところまで持ち上げた。パスパルトゥーは平然としていた。キウニをやさしくなでてやった。キウニはそっと、パスパルトゥーを地上に降ろした。
 数分後、フィリアス・フォッグ、サー・フランシス・クロマーティ、パスパルトゥーは、アウダを車両の特等席に落ち着かせた。列車は全速力でベナレスへと向かっていた。八十マイルの行程を二時間で走る予定だった。
 この行程の間に、アウダは完全に意識を回復した。アウダは自分が鉄道の客室にいるのを見てびっくりした。しかも、ヨーロッパ風の服を着て、まったく未知な人と一緒に旅行していたのだ!
 アウダが目を覚ますと、一同はリキュールを少し飲ませるなど、何くれとなく世話をしだした。やがて、サー・フランシスが、彼女の身に起こったことを話し始めた。フィリアス・フォッグが彼女を救うために、ちゅうちょなく命を危険にさらしたその勇気を語った。パスパルトゥーの向こう見ずな考えがもたらした幸福な成り行きについて強調した。フォッグ氏は何も言わなかった。パスパルトゥーは恥ずかしがってこう繰り返していた。「そんなことを話すことはないでしょう!」
 アウダは、感傷的に感謝の意を表した。その素晴らしい瞳に溢れる涙は、幾千の言葉よりも雄弁に、感謝の気持ちを物語っていた。そして、アウダの思いはあのサッディーの場面へとむかっていき、まだ自分の身に待ち受けている危険のことを思いだして、突然震えだした。
 フィリアス・フォッグはアウダが考えていることを理解した。そして、安心させるためにこう申し出た。あなたをホンコンまでお送りしたい。ほとぼりがさめるまでそこに滞在すればよろしいでしょう。アウダはありがたく思い、承知した。アウダにはパーシー人の親類がいて、その中にホンコン在住の著名な商人となった人がいるということだった。ホンコンは中国の沿岸に存在する、イギリス領の都市である。
 十二時半に、列車はベナレスに停車した。バラモンたちに伝わる伝説によれば、この都市は昔、カーシーの地に建っていたとされている。そして、マホメットの墓のように、天国と地球の間にぶらさがっていたそうだ。しかし、ベナレスは現在、東洋通の人たちにインドのアテネと呼ばれてはいるものの、実在する固い地面の上に建っている。パスパルトゥーは、レンガでできた家や粘土でできたあばら屋をちらりと見た。そして、列車が止まるところとしては相当に荒れているなぁとぼんやり考えていた。
 ベナレスはサー・フランシス・クロマーティの目的地であった。サー・フランシスの属していた部隊は、ベナレスの北数マイルのところで野営していた。准将はフィリアス・フォッグに別れを告げた。フォッグ氏の成功を祈り、次回はもっと平凡な、しかし有益な目的を持って、来ていただきたいと述べた。フォッグ氏は軽い握手を交わした。アウダはサー・フランシスの恩義を覚えていたから、もっと思いやりの心をこめた別れをした。パスパルトゥーに対しては、洒落《しゃれ》者の准将は腕が振れるくらい強くその手を握った。
 列車は、ベナレスを離れて、しばらくガンジス川の流域に沿って進んでいった。一行が占めた客室の窓からは、ビハール地方のいろんな景色が次々と表れた。新緑におおわれた山、大麦やら小麦やらコーンやらの畑、緑色のワニが住むジャングル、さっぱりした村や葉っぱがしめっている森などである。象が神聖な川の水に浸っていた。そしてインド人の集団が、空気が肌寒い季節になっているのに、彼らの宗教で義務づけられている沐浴をまじめに実行していた。彼らは熱心なバラモン教徒であった。バラモン教徒は仏教というものを不倶戴天の敵とみなしていた。バラモン教徒の神は、太陽の化身ヴィシュヌ、造化の化身シヴァ、僧侶と立法者との最高支配者ブラーマである。さて、この神々は今日の英国風になったインドをどう考えているのだろうか? 蒸気船が汽笛を鳴らしながらガンジス川を疾走し、水面に浮いているカモメや、浅瀬に群がっているカメや、土手に横たわる信者たちをびっくりさせている今のインドをどう見ているのだろうか?
 そのパノラマは、あっという間に一行の目の前を通りすぎていった。ときたま蒸気の煙がそれらを隠した。一行にはチュペニーの砦はほとんど見えなかった。その砦はベナレスから南西二十マイルほどのところにあり、昔はビハール地方を治めていた王の拠点であった。やがてガシプルと、その有名なバラ香水の工場が見えてきた。コーンウォリス卿の墓は、ガンジス川の左岸にたっていた。そして要塞のある町バクサルや、商工業の盛んな町にして、インドにおける主要なアヘン市場が存在するパトナが見えてきた。さらにモンギールが見えてきた。ここは、ヨーロッパ風の町であるが、それ以上にイギリス風であり、マンチェスターやバーミンガムを思わせる。鋳物工場、刃物工場があり、高い煙突から、黒煙がもくもくと吐き出されている。
 夜になった。列車は全速力で走っていた。トラやクマやオオカミの声が辺りでしていた。動物たちは機関車に追われて逃げていった。ベンガルの驚異である、ゴルコンダや、廃墟となってしまったグールや、昔は首都だったムルシダバードや、ブルドワンや、ウグリなどの町を次々と通過していった。フランス人の町であるチャデルナゴルも通りすぎた。そこに祖国の旗が翻っているのを見たら、パスパルトゥーはその旗を誇りに思ったであろうが、夜の闇に隠れていて見えなかった。
 カルカッタには朝の七時に到着した。定期便は正午にホンコンへ向かって出発する予定だった。つまり、フィリアス・フォッグはこの時点で五時間の余裕を持っていたのである。
 フォッグ氏の日程表では、十月二十五日にカルカッタに到着する予定だった。そして実際にこの日に到着したのだった。したがって、予定は進みも遅れもしていなかった。ロンドン~ボンベイ間で得た二日間は失われていた。読者はその理由を知っているだろう。インドを横断中にその余裕を使ってしまったのである。しかし、容易に想像できるだろうが、フィリアス・フォッグはそのことを少しも苦にしていなかったのである。

..第十五章:札束の入ったバッグが数千ポンドものお金を吐き出すこと
 列車が駅に入った。パスパルトゥーがまず飛び降り、続いてフォッグ氏が、道連れを気遣いながら降りてきた。フィリアス・フォッグはすぐにホンコン行きの汽船に乗り込むつもりだった。もちろん、アウダに快適な船旅をさせるためである。フォッグ氏はずっとアウダにつきそう決心をしていた。なんといっても、この地は一行にとって安全とはいえなくなっているのだ。
 フォッグ氏が駅からでてくると、警官が近寄ってきた。彼はこう言った。「フィリアス・フォッグさんですね?」
 「いかにも。」
 「この人はあなたの従者ですね?」警官はそう言って、パスパルトゥーを指した。
 「そうです。」
 「それでは二人とも、私と同行して下さい。」
 フォッグ氏は驚きの表情をみせなかった。警官は法を代表していた。そして、法律は、イギリス人にとって神聖なものだった。
 パスパルトゥーは何でこんなことになったのか聞こうとした。しかし警官は彼を警棒で軽くたたいた。フォッグ氏は従者に「命令に従うんだ」と言った。
 「この若い婦人を連れていってもよろしいか。」フォッグ氏が尋ねた。
 「いいですよ。」警官は答えた。
 三人は、パルキ・ガリ――四輪馬車の一種であり、二頭の馬が引っぱっていた――に連れてこられた。三人が席に座ると、馬車は出発した。馬車が止まるまでの二十分間、誰も口をきかなかった。
 馬車はまず、ブラック・タウンと呼ばれているところを通っていった。道は狭く、乞食や汚いあばら屋やみすぼらしい人たちが、そこに集まっていた。それから馬車は、ヨーロッパ・タウンといわれるところを通り抜けた。そこにはレンガ立ての明るい屋敷が並んでいた。ココヤシの木が影を落とし、マストがそこかしこに林立していた。まだ朝も早いのに、馬に乗った上流の人々とか、ぜいたくな馬車がゆきかっていた。
 馬車は上品なつくりをした建物の前で止まった。しかし、その外観は個人の邸宅といった感じではなかった。警官は囚人に――まさにそう呼んでもいい扱いだった――馬車を降りるように言った。そして三人を、かんぬきのかかった窓がある部屋へ連れていき、こう言った。「八時半に、オバディア判事の前に出てもらいます。」
 そして、ドアを閉めて出ていった。
 「なんで逮捕されるんだ!」パスパルトゥーはそう叫び、椅子にへたりこんだ。
 アウダは、感情を押し殺そうとつとめながら、フォッグ氏に向かってこう言った。「私に構わずお逃げ下さい。私のせいで、このようなことになったのでございます。私を救っていただいたためなのです。」
 フィリアス・フォッグは、そんなことは不可能だと自分に言い聞かせた。サッディーを防いだがために逮捕されるなど、全くありえないことだ。狂信者どもが訴えでるなんてことはしないはずだ。何かのまちがいだ。それに、いずれにしても、アウダは見捨てない。ホンコンまで連れていくのだ。
 「でも、船は正午に出るのですよ!」パスパルトゥーはいらいらしていた。
 「正午には乗船できる。」穏やかに、フォッグ氏は言いきった。その口調に押され、パスパルトゥーはこう言わずにはいられなかった。「もちろんだ! 正午まえに、きっと乗船しているさ!」しかし、心から信じてはいなかった。
 八時半にドアが開き、警官が現れた。三人に、自分の後についてくるように言って、となりの部屋へと案内した。そこはまちがいなく法廷であった。ヨーロッパ人やインド人たちがすでに後ろにひしめきあっていた。
 フォッグ氏と二人の連れは、判事と書記に相対する位置にある席を占めた。その後すぐ、まるまると太ったオバディア判事が、書記を従えて入場してきた。判事は、釘にかかっていたかつらを取って、あわただしく頭にのせた。
 「第一訴訟事件。」判事が宣言した。それから、頭に手をやって、「おい! これは私のかつらじゃないぞ!」と叫んだ。
 「その通りです、閣下。」書記が答えた。「それは私のですから。」
 「オイスタープッフ君や。判事が書記のかつらをかぶって、どうすれば名判決を出せるのかね。」
 かつらが交換された。
 パスパルトゥーはいらいらしていた。判事の頭の上にかけてある大時計の針が、ものすごい勢いで回っているように見えていたからだ。
 「第一訴訟事件。」オバディア判事が繰り返した。
 「フィリアス・フォッグは?」オイスタープッフが聞いた。
 「私です。」フォッグ氏が答えた。
 「パスパルトゥーは?」
 「ここです。」パスパルトゥーが答えた。
 「よろしい。」判事が言った。「あなた方は、この二日間、ボンベイからの列車が到着するたびに見張られていたのです。」
 「しかし、なんで私たちは訴えられているのですか?」こらえきれずにパスパルトゥーが尋ねた。
 「今それを告げようとしていたんです。」
 「私はイギリス人です、判事。」フォッグ氏が言った。「私は正当の権利と―。」
 「あなたは不当に扱われたのですか?」
 「いいえ。」
 「よろしい。原告は入室してください。」
 判事の声にあわせて、ドアが開いた。三人のバラモンが入ってきた。
 「やっぱりな。」パスパルトゥーがささやいた。「あいつらは、この若い婦人を焼こうとした悪党さ。」
 バラモンたちは、判事の前にある所定の場所についた。書記が大声で訴状を読み上げた。フィリアス・フォッグとその従者は不敬罪を犯した、と訴状にはあった。バラモン教によって神聖な場所とされたところに入り込んだ、という罪で告発されていた。
 「告発を聞きましたね?」
 「聞きました。」フォッグ氏は腕時計を見ながら言った。「それを認めます。」
 「認めるのですか?」
 「認めます。しかしながら、私はこのバラモンたちに対し、ピラジのパゴダで行おうとしていたことに対する釈明を要求します。」
 バラモンたちは互いに顔を見合わせた。明らかに、何を言われたか理解していなかった。
 「そうだ!」パスパルトゥーは興奮していた。「ピラジのパゴダで、こいつらはいけにえを焼き殺そうとしていたんだ!」
 判事は驚いて二人を見つめていた。バラモンたちは呆然としていた。
 「いけにえとは何ですか?」オバディア判事は言った。「誰が焼かれたのですか? ここボンベイで?」
 「ボンベイ?」パスパルトゥーは叫んだ。
 「そうです。私たちはピラジのパゴダでのことを審議しているのではありません。ボンベイにある、マラバル・ヒルのパゴダでのことを審議しているのです。」
 「証拠として。」書記がつけ加えた。「ここに、侵入者が残していった靴があります。」
 そして、一足の靴を自分の机の上に置いた。
 「ぼくの靴だ!」パスパルトゥーが声をあげた。驚きのあまり、自分が罪を認める発言をしたことに気づかなかった。
 この主従は当惑していた。二人はボンベイで起こした事件のことはすっかり忘れていた。しかし、まさしくその事件のせいで、主従ともにカルカッタで拘留されていたのだ。
 ボンベイの駅において、フィックス探偵は、パスパルトゥーが犯した行為が、自分にとって有利になることに気づいた。そこで出発を十二時間遅らせ、マラバル・ヒルのバラモンに事件のあらましを聞いたのである。当局はこのような事件に対して非常に厳しくあたることを知っていたので、フィックスはバラモンたちに、この件で多額の損害賠償がとれるぞ、と約束した。そして、次の電車でバラモンたちとともにカルカッタへ向かった。フォッグ氏たちは若い未亡人を助けようとして遅れていたので、フィックスは先にインドの首都に着いてしまった。治安判事はすでに、フィックスからの知らせを受けて、到着しだい逮捕しようと待ちかまえていた。
 フィリアス・フォッグがまだカルカッタに現れていないことを知ったときのフィックスの失望は想像に難くない。そして、強盗は途中で列車を降りて、南の方へ逃げていってしまったと考えた。それから二十四時間、フィックスは不安におののきながら駅の見張りをしていた。その努力はついに報われた。フォッグ氏とパスパルトゥーが、フィックスの知らない若い女性を伴って現れたのだ。フィックスはさっそく警官を差し向けた。これによって、フォッグ氏たちが逮捕され、オバディア判事の前に連れてこられたのである。
 パスパルトゥーがもう少し注意して法廷を見回していたら、探偵がすみっこで訴訟の一部始終を、彼自身の理由によって、興味を持って見守っていることに気がついただろう。スエズでもボンベイでもそうだったのだが、カルカッタにも令状は届いていなかったのだ。
 不幸にもオバディア判事は、パスパルトゥーが思わず発した言葉を聞いていた。
 「事実を認めるのですね?」判事は聞いた。
 「認めます。」フィリアス・フォッグは冷静に答えた。
 「それでは。」判事は繰り返した。「イギリスの法律はインドにおいて人々が信じている宗教を等しく、そして厳しく保護しているのだ。しかるに、被告人パスパルトゥーは、十月二十日、ボンベイにあるマラバル・ヒルの神聖なるパゴダに入り込んだことを認めた。よって、パスパルトゥーに、十五日間の禁固と三百ポンドの罰金を宣告する。」
 「三百ポンド!」パスパルトゥーは、罰金の額に驚いて叫んだ。
 「静かに!」巡査が注意した。
 「さらに、」判事は続けた。「その行為を主人が認めていたかどうかは証明できないが、いずれにせよ、主人たるもの、従者の行為に対しては常に責任を持たなければならない。よって、フィリアス・フォッグに、一週間の禁固と百五十ポンドの罰金を宣告する。」
 フィックスは満足し、手をこすりあわせていた。フィリアス・フォッグを一週間カルカッタに引き留めておければ、逮捕令状は必ずや到着するだろう。一方、パスパルトゥーは呆然とした。この判決は主人を破滅させてしまう。二万ポンドの賭けに負けてしまった。それというのも、この俺が、馬鹿げたことにあのしゃくにさわる塔に入ったからだ。
 フィリアス・フォッグは冷静だった。まるでこの判決が自分に関係ないと思っているみたいだった。判決が読み上げられている間、眉をひそめさえしなかった。書記が次の事件を読み上げていたちょうどそのとき、立ち上がってこう言った。「保釈金を払います。」
 「よろしい、認めます。」判事は答えた。フィックスは血が凍る思いだった。やがて落ち着きを取り戻したが、それは判事が、保釈金としてそれぞれ千ポンドを預けるように宣告したのを聞いたからだ。
 「すぐ納めます。」フィリアス・フォッグはそう言うと、パスパルトゥーが持っていた旅行鞄から札束を取り出して、書記の机の上に置いた。
 「保釈金は、刑期を終えたときに被告に返却します。」判事が言った。「もちろん、保釈金を納めたのですから、被告はどこへでも行ってよろしい。」
 「来るんだ。」フィリアス。フォッグは従者に言った。
 「でも、靴だけはせめて返してください!」パスパルトゥーは腹を立てて叫んだ。
 「ああ、なんて高価な靴なんだろうな。」靴を返してもらうと、パスパルトゥーはこうつぶやいた。「片方につき千ポンドを超えるんだからな。しかも、俺の足には小さすぎるのに。」
 フォッグ氏は、アウダに手をかして、裁判所を出ていった。パスパルトゥーが、すっかりしょげた感じであとに続いた。フィックスはまだあきらめてはいなかった。強盗は結局、二千ポンドはあきらめずに、刑務所で一週間過ごす方を選ぶだろう。そんなことを考えながら、急いでフォッグ氏の後を追った。フォッグ氏は馬車を呼んだ。三人はすぐに波止場に着いた。
 ラングーン号は、港から半マイルのところで停泊していた。港の見張り番が、出発の信号を出していた。十一時の鐘が鳴っていた。フォッグ氏は出発時刻に間に合ったのだ。フィックスは、三人が馬車を降り、ラングーン号へ乗るための舟へと向かうのを見て、地団駄《じだんだ》をふんで悔しがった。
 「ちくしょう、行ってしまった!」フィックスは叫んでいた。「二千ポンドを捨てつなんて! まったく気前のいい泥棒だよ! こうなったら、やつの行くところ、どこまでもついていってやる! だが、こんな調子だと、盗まれた金はすぐなくなってしまうな。」
 探偵の推測は、そうまちがえてはいなかった。ロンドンを出てから、旅行費用・賞金・象の代金・保釈金や罰金などで、フォッグ氏はすでに五千ポンド以上使っていた。銀行強盗から取り戻した金額に応じて、探偵の報酬が決まっていたのだが、それは今やものすごい勢いで減少していたのである。

..第十六章:フィックスが、いわれたことをいくらか理解しながら、素振りも見せないこと
 ラングーン号は、半島・極東株式会社に所属している客船であった。シナとニッポンの海に就航している鋼鉄製のスクリュー船であり、その総トン数千七百七十トン、四百馬力のエンジンを搭載している。速度はモンゴリア号と同じだけ出せたが、モンゴリア号ほどには装備が整ってはいなかった。そのため、アウダに対して、フィリアス・フォッグが望むような快適な生活を提供できる船ではなかった。しかし、カルカッタからホンコンまでの航路は三千五百マイルにすぎず、十日から十二日でいける距離だった。それに、アウダはそう口やかましい客ではなかった。
 最初の数日間で、アウダは自分を助けてくれた人のことをよく観察することができた。アウダはフォッグ氏がしてくれたことに対して、いつも変わらぬ感謝の念を表していた。かの紳士はというと、アウダの話に何の反応も示さなかった。その声からも、露ほども感情を読みとれなかった。ただ、フォッグ氏は、アウダに何一つ不自由な思いをさせまいと、常に気を配っていた。彼は毎日、ある時間になると決まってアウダの部屋をたずねた。彼自身が話すだけでなく、座って彼女の話を聞いていた。フォッグ氏はおそろしく上品にアウダをもてなした。だが、その動きはまるで機械のようだった。機械さながらに、アウダを保護していた。
 アウダはフォッグ氏のふるまいには大いにとまどった。パスパルトゥーは、主人が風変わりであることを説明した。世界一周が八十日間でできるかどうか賭けをしている、ということを聞いて、アウダは微笑を禁じ得なかった。ただ、アウダはフィリアス・フォッグに命をゆだねたのであり、アウダにとってフォッグ氏は尊敬すべき人物であった。
 アウダはパーシー人のガイドが語った彼女の経歴を裏付けた。ガイドの話どおり、インドの民族の中でも高貴な地位に属していた。パーシー人の商人は、その多くが綿貿易によって一財産を築いていた。そのひとり、サー・ジェームズ・ジェジーブホイ氏は、英国政府によって准男爵に列せられていた。アウダはその准男爵の親戚であった。准男爵にはジェジーという名のいとこがいて、アウダはホンコンに着いたら、その人のところへ身を寄せたいと思っていた。そのいとこがアウダを助けてくれるかどうか、アウダには分からなかった。しかし、フォッグ氏はアウダを安心させようと、万事は数学的に――本当に彼はこの言葉を使った――処理されるだろうと請けあった。アウダはその「ヒマラヤの聖なる湖のようにすんだ」瞳で、いつもフォッグ氏を見ていた。しかし、この扱いにくい紳士は、相も変わらず遠慮がちで、自ら湖の中に飛び込むようなそぶりすら見せなかった。
 航海の始めごろのような穏やかな日々は長くは続かなかった。しかし、穏やかなうちに汽船は、すばらしい天候と追い風に恵まれ、大アンダマン島が視界にはいるところにやってきた。大アンダマン島は、ベンガル湾にある島々の中でも大きい方であった。標高二千四百フィートのところにある、絵のような風景をみせるサドル・ピークが、遠くにぼうっと見えていた。汽船は岸の近くを通っていた。そこは、野蛮で人間としては原始的な生活をしているパプア人がいるところだった。目の前にその姿はなかった。ちなみに、パプア人は食人種とされているが、それは誤りだ。
 島の景色は次から次へと変わっていった。どれもすばらしかった。シュロ、ビンロウ、タケ、チーク材、巨大なミモザ、木のようなシダなどのジャングルが前景となっていた。遠くには、山々の優雅な輪郭が空に描かれていた。海岸には貴重なツバメが数千羽も群がっていた。そのツバメの巣は、シナの皇帝に出される豪華な料理の材料となるのだ。
 アンダマン諸島がみせるさまざまな景色も後方へ消えていった。ラングーン号は速度を上げたままでマラッカ海峡へと近づいていった。それは、シナの海が近づいてきたことを示していた。
 フィックス探偵は、不幸な成り行きで世界一周をすることになってしまったのだが、その間何をしていたのだろうか? フィックスはパスパルトゥーに見られることなく、カルカッタに停泊していたラングーン号に乗船することに成功していた。もちろん、逮捕令状が届いたら、ホンコンへ転送してもらうようちゃんと頼んでおいた後に、である。フィックスは航海の終わりまで隠れているつもりだった。なぜ自分がラングーン号に乗っているのかを、パスパルトゥーにうまく説明できるかどうか分からなかったからだ。なにしろ、パスパルトゥーは、フィックスはまだボンベイにいるものと考えているはずだからだ。しかし、運命はフィックスに、心ならずもパスパルトゥーとのつきあいを再開させるのである。そのいきさつはいずれ分かるだろう。
 探偵の希望は今やホンコンにかかっていた。ラングーン号は、シンガポールには短時間しか寄港せず、そこで何かすることなどできなかった。強盗はホンコンで逮捕しなければならない。さもなければたぶん永遠に逃げおおせてしまうだろう。ホンコンは、彼が立ち寄る最後の英国領であった。その向こう、シナ・ニッポン・アメリカは、フォッグ氏にとって絶好の避難先となるだろう。もし逮捕令状がホンコンに着いていれば、フィックスは何の支障もなくフォッグ氏を逮捕できる。しかし、ホンコンの先では、令状だけでは何の役にも立たない。犯人引き渡し令状が必要になってくるのだ。そしてそのことは遅延と障害をもたらし、犯人は処罰を逃れることとなってしまうに違いなかった。
 フィックスは、客室の中で長いことこの問題について考えていた。そして次のように自分自身に言い続けていた。「今現在、逮捕状がホンコンにあれば、俺はそこでやつを逮捕しよう。だが、もしホンコンになければ、そこでは逮捕はしない。そのときはやつの出発を遅らせることが絶対必要だ。俺はボンベイで失敗した。カルカッタでも失敗した。もしホンコンでも失敗したら、俺の名声は地に堕ちてしまう。どんなことをしてでも成功しなくてはならない! だが、どうやってやつを引き留めればいいんだ? 逮捕状がホンコンになかったとしたら?」
 フィックスは心に決めた。もし最悪の事態が現実となったら、パスパルトゥーの前に姿を現して、彼が仕える主人の真の姿を話すことにしよう。パスパルトゥーがフォッグの共犯でないことはもう明らかだ。したがって、この話を聞けば、自分が共犯者にされることを恐れるだろうから、おそらく俺に味方してくれるはずだ。だが、その方法には危険も伴う。だから、どうにも打つ手がなくなったときにだけ使うことにしよう。パスパルトゥーの口から主人に伝わってしまえば、すべては終わりだ。以上のようなことで、探偵は考えをまとめられなくなってしまった。
 だが、突然新しい考えが探偵の心に浮かんだ。ラングーン号に、フィリアス・フォッグとともに乗り込んできた、アウダの姿を見て、新たな考えが彼の心をとらえたのだ。
 あの女性は誰だ? どんな事情で、フォッグ氏と旅行しているのだろうか? フォッグ氏が、ボンベイとカルカッタの間のどこかで彼女と一緒になったのは明らかだ。だが、どこで会ったんだ? 偶然会ったんだろうか、それともフォッグはあの魅力的な女を捜すために、インドの奥地へ入っていったんだろうか?
 フィックスにはわけが分からなかった。何かよこしまな企みが行われたのかと考えた。この考えは探偵に強い影響を与えた。頭の中で考えた陰謀が実際に行われたものとひとり合点してしまった。あの若い女性が結婚しているかどうかということには関係なく、フォッグが大金を積んだって逃げられないような状態にできるだろう。だが、フォッグのやつがホンコンに着くまで待っていていいのだろうか? やつは小癪にも、船から船へと飛び移る早業を使ってくる。事が起こる前に、再びヨコハマへと出発してしまうかもしれない。
 フィックスは今後の方針を決めた。ラングーン号が目的地に到着する前に、当局に警告を出さなければならない。これは簡単だ、船はシンガポールで停泊するし、そこからホンコンまで電信用の線が敷かれているからな。
 さらにフィックスは考えを進めた。行動を起こす前に、パスパルトゥーにいくつか質問をしよう。あいつに話をさせることはそう難しくないだろう。一刻も無駄にできなかったから、フィックスは姿を見せる準備を始めた。
 その時の日付は十月三十日だった。その次の日に、ラングーン号はシンガポールに到着する予定だった。
 フィックスは客室を出てデッキに上がっていった。パスパルトゥーは船の前の方であちこち散歩していた。探偵はひどく驚いたといった表情でそこへかけより、声をあげた。「おや、あなたもこの船に?」
 「おお、ムッシュー・フィックス。あなたもこの船に?」パスパルトゥーは、モンゴリア号にいた知人を発見して、本当に驚いていた。「私はボンベイであなたと別れたのに、何でこの船にいるんですか? ここはホンコンへ行く道だというのに。あなたも世界一周をしているのですか?」
 「いやいや。」フィックスは答えた。「私はホンコンにいますよ。少なくとも数日はね。」
 「ふむ!」パスパルトゥーはそういわれて、明らかに当惑していた。
 「しかし、それなら私たちがカルカッタを出てから、なぜ船で見かけなかったんでしょう?」
 「ああ、軽い船酔いになりまして。ずっと寝台で寝ていたんですよ。ベンガル湾もインド洋も、私にはあわないんですよ。それで、フォッグさんは?」
 「これまで同様、まったく正確ですよ。一日と遅れませんね。そういえばムッシュー・フィックス、あなたは知らんでしょうが、私たちは若い婦人と一緒に旅をしているんですよ。」
 「若い婦人?」分からないふりをして、探偵は言った。
 そこでパスパルトゥーは、アウダのことを話して聞かせた。ボンベイのパゴダでの事件、二千ポンドで象を購入したこと、アウダをサッディーから救ったこと、カルカッタで逮捕され、裁判を受けたこと、フォッグ氏が保釈金を払って自由の身になったこと。フィックスは最後の部分についてはよく知っていた。しかし、パスパルトゥーの話を、すべて今初めて知ったように聞いていた。パスパルトゥーはといえば、関心を持って聞いてくれる人を見つけて、話に熱を帯びてきた。
 「それでは、ご主人はその若い婦人をヨーロッパまで連れていくつもりなんですか?」
 「そんなことはないですよ。私たちは親類のところまで彼女を護送していくだけです。その人はホンコンで成功した商人でしてね。」
 「それじゃ何もできないな。」フィックスは独り言を言った。しかし、内心失望していることは隠していた。「ジンでもどうです、パスパルトゥーさん。」
 「喜んで、ムッシュー・フィックス。ラングーン号で一杯やらなきゃいけませんね。」

..第十七章:シンガポールからホンコンまでの航海で起こったこと
 フィックスとパスパルトゥーは、先にあげた会話のあと、よくデッキの上で会うようになった。ただ、フィックスは遠慮がちな態度をとっていて、フォッグ氏に関する情報を友人に話させようとはしなかった。フィックスは一二度あの不思議な紳士をちらりと見た。しかし普通フォッグ氏は客室に閉じこもっていた。フォッグ氏はアウダのそばを離れはしなかったが、時々は根っからの習慣に従って、ホイストをやっていた。
 パスパルトゥーは、主人の通った経路でフィックスと会い続けるという奇妙な偶然について、今までになく真剣に考え始めた。そのことは考える必要があった。彼はたしかに気立てはいいし、丁寧だ。だが、彼とは最初にスエズで会い、それからモンゴリア号の甲板で会った。ボンベイで上陸し、そこが自分の目的地だと言っていたのに、突然ラングーン号に現れた。まさしく一歩一歩フォッグ氏のあとをつけているのだ。フィックスの目的は何だろう? パスパルトゥーは確信していた。俺のはいているインドの靴に賭けて、フィックスは我々と同時にホンコンに上陸するだろうし、また同じ船に乗るに違いない。
 パスパルトゥーがいくら知恵を絞って考えても、探偵に会い続ける本当の理由はまず分からなかっただろう。フィリアス・フォッグが強盗として世界中追い回されているなんてことは、パスパルトゥーには決して想像できなかった。しかし、あらゆる謎に解決を求めたがる人間の本性として、パスパルトゥーは突然、フィックスがなぜそんなふうに姿を見せるのか、かなり合理的な説明を見いだした。彼はこう考えた。フィックスはきっと、リフォーム・クラブのメンバーがフォッグ様につけた監視人だろう。フォッグ様の後をつけて、本当に自分が言ったとおりの経路を通って世界一周をしたかどうか、確かめようとしているんだ。
 「そうに違いない!」善良な従者は自分の抜け目なさを何度も確認した。「あいつは我々を見張るために派遣されたスパイだ。なんて卑劣なことをするんだ! フォッグ様のような、まったく誠実なお方にスパイをつけるなんて! ああ、リフォーム・クラブの紳士方よ、高価な代償を払うのはあなた方の方ですよ!」
 パスパルトゥーは自分の考えに心を奪われていた。そして、主人には何も言わない方がいいと思った。主人が聞いたら、相手側が見せた不信に対して怒るだろうからだ。しかし、機会があったらフィックスをからかってやろうと心に決めた。あいまいにほのめかしてやろう、だが、俺の真意は言わないようにしよう。
 十月三十日水曜日の午後になって、ラングーン号はマラッカ海峡に入った。この海峡は、マラッカ半島とスマトラ島とを隔てている。ごつごつした山がそびえる小島が、スマトラ島という立派な島の景観を旅行者の目からさえぎっていた。ラングーン号は翌日午前四時にシンガポールに錨を下ろした。そこで石炭を補充するためだ。到着時間は、予定時刻よりも半日早かった。フィリアス・フォッグは日誌の中にこの得した時間のことを記録し、そして、陸に上がって散歩をしたいというアウダに付き添って上陸した。
 フィックスは、フォッグ氏のやることすべてを怪しんでいた。だから、自分がフォッグ氏に見つからないように、用心深く後をつけた。一方パスパルトゥーは、フィックスの行動を見て苦笑しつつ、例によって買い物をしに行った。
 シンガポールという島は、山がないためにあまり威圧的な感じは受けないが、それでもこの島には人を引きつけるものがあった。この島は、感じがいい本道と支道がいりみだれる公園だった。オーストラリア産のつやつやした毛並みをもつ二頭立ての馬車で、フィリアス・フォッグとアウダはシンガポールを散策した。すばらしい葉をしたヤシの並木や、半開きのつぼみを付けたクローブの間をめぐっていった。ヨーロッパの田舎によくあるとげだらけの垣根のかわりにコショウのしげみがそこかしこにあった。ソテツ――華麗な枝を持つ大きなシダのことだ――のしげみにより、この地方の気候は様々に変化していた。葉っぱにおおわれているナツメグの木の香りが、あたりの空気に満ちていた。猿の群れが、木の上で身軽にはね回ったり歯をむき出したりしていた。ジャングルの中には今でもトラが生息しているそうだ。
 二時間郊外を散策したあと、アウダとフォッグ氏は都市の中へ入っていった。そこは重苦しく不釣り合いな家々がいろいろ立ち並んでいた。そしてその家は、熱帯の果物や植物が生い茂る、素敵な庭園に囲まれていた。十時に二人は船に帰ってきた。そのすぐあとに探偵が続いた。ずっと二人を監視していたのだ。パスパルトゥーは何ダースかマンゴーを買っていた。マンゴーとは、かなり大きなりんごと同じくらいの大きさの果物で、外側は濃い茶色だが中は鮮明な赤で、果肉は白く、口の中で溶けていく感じが美食家の間ではおいしいという評判だった。パスパルトゥーは甲板で二人を待っていた。そしてアウダにマンゴーを熱心に勧めた。アウダはその贈り物を優雅に感謝して受けた。
 十一時にラングーン号はシンガポール港をあとにした。その後何時間かかけてマラッカの高い山々の間を通過していった。マラッカの森には、世界で最も美しい毛皮を持つトラが住んでいるのだが、船からは姿は見えなかった。シンガポールからホンコン島までは千三百マイルの距離である。そしてホンコンはシナの海岸沿いにある、小さな英国領である。フィリアス・フォッグはこの航海を六日間で行こうとしていた。十一月六日にヨコハマ――ニッポンの主要な港である――へ向けて出航する汽船に乗るつもりでいたからだ。
 ラングーン号にはシンガポールから乗客がおおぜい乗ってきた。乗客はインド人、セイロン人、シナ人、マレー人、ポルトガル人などで、ほとんどが二等船客であった。
 ここまでの天候は良好だったが、月の最終四半期を迎えるとともに悪くなっていった。海の横揺れはひどく、風がときどき嵐の域にまで激しくなった。ただ幸いなことに、風は南西から吹いていたので、汽船を前方へ押すような感じになっていた。船長は頻繁に帆をあげるよう指示を出した。蒸気の力と帆が受ける風の力とのおかげで、船はすごい速度でアンナンとコーチシナの海岸沿いを突き進んでいった。しかし、ラングーン号の構造には欠陥があり、そのために普通の船には必要のない警戒を、天候が崩れたときにはしなければならなかった。しかし、そういう理由から生じた時間の遅れは、パスパルトゥーにとっては噴飯ものであったが、その主人にとっては何の影響もないみたいだった。パスパルトゥーは船長、機関士、乗組員などをののしった。コショウが成長する土地へと向かう船に関係するすべてを呪った。たぶん、今なお彼の費用で燃え続けているガス灯のことを思って、焦りがつのっているのだろう。
 「あなたはホンコンへの旅路をいやに急いでいるんですねえ。」ある日フィックスはパスパルトゥーに言った。
 「非常に急いでいるんです!」
 「フォッグ氏はたぶん、ヨコハマに向かう便に乗りたがっているんでしょうね?」
 「すごく乗りたがってますよ。」
 「ではあなたは、世界一周などということを信じているんですね?」
 「そうですよ。あなたはそうじゃないんですか、フィックスさん?」
 「私? 私にはそんなこと、信じられませんよ。」
 「あなたはずる賢い犬ですね!」パスパルトゥーは言い、ウィンクした。
 この言葉はフィックスの心をかき乱した。なぜそう言われたか分からなかった。このフランス人は、自分の真の目的を悟ったのだろうか? それは考えられない。パスパルトゥーがどうやって、俺が探偵だということを発見できるというんだ? だが、あいつの言葉には、明らかに何か含みがある。
 パスパルトゥーは、その次の日にも口をすべらしてしまった。舌をとめておけなかったのだ。
 「フィックスさん、」パスパルトゥーはからかい口調でしゃべっていた。「残念なことですねえ。ホンコンに着いたらあなたとお別れになるんでしょうね?」
 「いやまあ。」フィックスは当惑ぎみに言った。「分かりませんよ。たぶん―。」
 「ああ、あなたは私たちについてくるんですね! まあ、ペニンシュラ・カンパニーの社員なら、途中で止まることはできませんからね。あなたはボンベイにいるはずでした。でもここはシナです。アメリカはそう遠くないですし、そこからヨーロッパまではひとっとびですよ。」
 フィックスは友人の顔を見つめた。その表情は穏やかなものだった。フィックスは友人と一緒に笑っていた。だがパスパルトゥーはフィックスを冷やかし続け、現在の仕事はさぞ実入りの多いものでしょうな、とフィックスに尋ねた。
 「はいともいいえとも言えますね。」フィックスは答えた。「いいことも悪いこともありますからね。ただ、私は自分のお金で旅行しているわけじゃありませんよ。そこを理解していただきたいですね。」
 「ああ、それはそうでしょうなあ!」パスパルトゥーは心から笑っていた。
 フィックスは困り果て、客室へ降り、このことについて考えた。明らかに怪しまれていた。なんらかの形で、あのフランス人は俺が探偵であることを探り出したんだ。ところで、主人にはそのことを告げたんだろうか? あの男はこの事件でどんな役割を果たしたんだろう。共犯者なのか? それとも無関係なのか? 計画がばれてしまったのか? フィックスは何時間もそのことについて考え続けた。ある時にはすべて終わったと考え、それから、フォッグは俺の存在を知らないと自らに納得させ、どうするのが最善なのか決められずにいた。
 それにもかかわらず、フィックスは冷静だった。最後に、パスパルトゥーに対して率直に振る舞おうと結論づけた。もしフォッグをホンコンで逮捕できるような状況にならず、あいつがこの最後の英国領を出発しようとするかまえを見せたら、パスパルトゥーにすべてを打ち明けよう。従者が主人の共犯者だった場合には、主人は俺の計画を知ってしまい、失敗となるだろう。だが、従者が銀行強盗のことを何も知らなかったら、そのときは泥棒のことを見捨てるに違いない。
 以上が、フィックスとパスパルトゥーがそれぞれ置かれた状況だった。一方フィリアス・フォッグは、二人の上を超然とした無関心といった感じで動いていた。彼は自分が決めた軌道に従い、秩序だった進行を続けていた。まわりの小さな星の動きにまどわされずに、地球を回り続けていた。それでも、天文学者が言うところの摂動《せつどう》を起こすはずの惑星が近くにあった。その星はかの紳士の心に振動を起こす可能性があった。だが、そうはならなかった! アウダの魅力は何の影響も持っていなかった。そのことはパスパルトゥーにとっては驚くべきことだった。もし影響があったとすれば、それは海王星の発見のもととなった天王星の軌道計算よりも算出が難しかっただろう。
 パスパルトゥーの疑問は日増しにふくらんでいった。アウダの瞳の中に自分の主人への深い感謝の念を毎日見ていたのだから、当然といえよう。フィリアス・フォッグは勇士であり、洒落っ気もあるのだけれど、全く無情な人だなあ、とパスパルトゥーは思っていた。この旅行に関してフォッグ氏が何を考えているのか、それは表情には出ていなかった。一方パスパルトゥーは哀れにも、いつも気をもんでいた。
 ある日パスパルトゥーは、機関室の手すりにもたれてエンジンを見ていた。そのとき突然縦揺れが起こり、スクリューが水の外に出てしまった。蒸気がパルブから音をたてて吹き出していた。パスパルトゥーはこれを見て怒りを覚えた。
 「バルブが充分じゃないじゃないか!」パスパルトゥーは叫んだ。「俺たちは進んでいない。英国製はいかんな! もしアメリカの船だったら、もっとゆれるかもしれんが、もっと速く進むだろう!」

..第十八章:フィリアス・フォッグ、パスパルトゥー、フィックスがフォッグの計画に関しておこなったこと
 航海が終わろうとする頃には天候はすっかり悪くなっていた。北西方向からの風がいつまでも吹きつけて、船を遅らせた。ラングーン号はひどい横揺れにみまわれ、乗客は風によって次々とできる恐ろしい大波の前に次々と気分を悪くした。そして十一月三日、ついに大嵐となってしまった。スコールが激しく船に降りそそぎ、高い波もおそってきた。ラングーン号は帆をすべて下ろしたが、それでもなお索具が強風の中で揺れて、音を立てていた。船はゆっくり進むことを余儀なくされた。船長は、二十時間は遅れると見積もった。もし嵐が続けばもっと遅れるだろう。
 フィリアス・フォッグは大荒れの海をじっと見つめていた。海はフォッグ氏の速度を遅らせようと必死だったが、いつものように落ち着き払っていた。フォッグ氏は片時も表情を変えなかった。だが、二十時間の遅れによって、ヨコハマへ向かう船に乗り遅れてしまい、必然的に賭けに負けてしまうことになってしまった。しかし、かの勇気ある男は、焦りも迷惑がりもしていなかった。まるで、この嵐は計画の一部であって、こうなることは知っていたみたいだった。アウダはフィリアス・フォッグの表情が、最初自分が見たときと同じように静かなのにびっくりしていた。
 フィックスは事態を同じようには見ていなかった。嵐は彼をおおいに喜ばせた。フィックスは完全に満足していた。なにしろラングーン号は強烈な風波の前に停泊せざるを得なかったのだ。遅れるごとに希望がふくらんでいった。フォッグがホンコンに何日かいなければならなくなりそうだったからだ。今や天は突風と大雨でもってフィックスを助けるようになった。自分が船酔いしたことは重要ではなかった。そんなことはフィックスにとってはなんでもなかった。嵐のせいで体はつらかったが、フィックスの心は希望に満ちた喜びにはずんでいた。
 パスパルトゥーは、言いようがないくらい都合が悪い天気に怒っていた。今まですべてが順調にいっていたのだ! 大地も海も、主人に仕えているかに思えた。汽船も鉄道も、主人の意のままだった。風と蒸気は、フォッグの旅行を早く進めようとしていた。それなのに、邪魔される時間となってしまったのだろうか? パスパルトゥーは、二万ポンドが自分のふところから出ているみたいに興奮していた。嵐に怒り、強風のたびに荒れ狂った。頑固な海に対して従順にしようと鞭で打ちたがっていた。かわいそうに! フィックスは自分が喜んでいることを苦心して内面にしまっておいた。もしそのことが分かったら、パスパルトゥーはフィックスに暴力をふるわずにはいられなかっただろう。
 パスパルトゥーは、嵐が続くかぎりデッキに上がっていた。部屋で静かに嵐が治まるまで待っていられなかった。自分から、船が進むのを助けようと乗組員に手を貸した。船長や航海士、乗組員たちはその行動にあぜんとしていた。パスパルトゥーが焦りからいろいろ質問してくるのを笑わずにはいられなかった。パスパルトゥーは嵐がどれくらい続くのか正確なところを知りたがっていた。気圧計を見たが、気圧計は上昇する意志を持たないようだった。パスパルトゥーは気圧計を振ったけれども、何の効果もなかった。どちらにしても、パスパルトゥーがいくら頑張っても、何の効果もなかった。
 しかし、十一月四日になって、海は以前より静かになり、嵐もようやく治まってきた。風は南方からとなり、再び好都合な状態になった。パスパルトゥーはこの天気に、ようやく落ち着いた。帆が広げられ、ラングーン号は最高速を取り戻した。しかし、失われた時間は取り戻せなかった。陸地は六日の朝五時まで姿を見せなかった。船は五日に到着する予定だった。フィリアス・フォッグは二十四時間遅れていた。もちろん、ヨコハマ行きの船に乗りそこねたのだ。
 水先案内人は六時に乗り込んできた。そして船橋に身を移し、ラングーン号をホンコンの港へ向かう水路へと導いていった。パスパルトゥーは汽船がヨコハマに向けて出発したかどうか、案内人に尋ねたかった。しかしあえて尋ねなかった。いよいよというときになるまで、希望の灯を捨てたくはなかったからだ。パスパルトゥーは自分の心配をフィックスに打ち明けた。フィックスは内心ふざけて、フォッグ氏は次の便に乗れば時間にまにあうだろうと言って慰めようとした。これに対し、パスパルトゥーは激怒するばかりだった。
 フォッグ氏は、従者より大胆だったので、水先案内人に近づくのをためらったりしなかった。静かに、船はいつホンコンからヨコハマへ向けて出発するか知ってますか、と尋ねた。
 「明日の朝、満潮とともに出ます。」水先案内人は答えた。
 「そうですか。」何の驚きも見せずにフォッグ氏は言った。
 パスパルトゥーはこれを聞いて、案内人を抱きしめて喜んだ。一方フィックスは、彼の首をひねりたくてしょうがなかった。
 「何という船ですか。」フォッグ氏は尋ねた。
 「カルナティック号です。」
 「その船は昨日出たのではないんですか。」
 「その予定でした。しかし、ボイラーを修理しなければなりませんでしたので、出発が明日まで延期されたのです。」
 「ありがとう。」フォッグ氏はそう言って、数学的にサロンへ降りていった。
 パスパルトゥーは水先案内人の手を握りしめ、喜びのあまりその手を上下に振りながらこう叫んだ。「あなたはすばらしい人です!」
 たぶん水先案内人には、自分の返答がなんでこんなに熱烈な歓迎を得たのか、今日まで全く分かっていないだろう。彼は再び船橋に乗って、ジャンクやタンカや釣り船で混み合った港の中を誘導していった。
 ラングーン号は一時に波止場に到着した。乗客は次々と上陸していった。
 運命は不思議な好意をフィリアス・フォッグに見せていた。なぜなら、もしカルナティック号がボイラー修理のために停泊を余儀なくされていなかったならば、船は十一月六日に出発していただろう。そして、日本に向かう乗客は次の便まで一週間待たなければならなかっただろう。フォッグ氏は確かに二十四時間予定より遅れていた。しかし、この遅れはフォッグ氏の旅行において深刻な問題ではなくなっていた。
 ヨコハマからサンフランシスコへ向かって太平洋を横断する船はホンコンから来る船と直結しており、ホンコンからの船が横浜に到着しないかぎり、出発することができないのだった。フォッグ氏が二十四時間遅れてヨコハマに到着したとすると、その遅れは、太平洋を横断する二十二日間の航海において簡単に取り戻せるはずであった。ロンドンを出発して三十五日、今現在、フォッグ氏は二十四時間遅れているわけだ。
 カルナティック号は翌朝五時にホンコンを出発すると発表された。フォッグ氏は用事を果たすために十六時間利用できるようになった。その用事とは、アウダを裕福な親戚に無事に預けるというものだった。
 上陸と同時に、フォッグ氏はアウダをかごのあるところへ案内した。そして一行はクラブ・ホテルへ向かった。そしてフォッグ氏は、アウダが何不自由なくすごせるように気を配り、彼女のいとこジェジーを捜しに出かけた。フォッグ氏はパスパルトゥーに、自分が戻るまでホテルにいるように、アウダを一人にしないためだ、と指示した。
 フォッグ氏は取引所へと向かった。ここならまちがいなく、重要人物であるパーシー人の豪商はよく知られているはずだった。
 フォッグ氏は一人の仲買人に会い、ジェジーのことを聞いた。そしてジェジーが二年前にシナを出ていっており、莫大な富を持って事業を引退したことを知った。ジェジーはヨーロッパに住んでいた―たぶんオランダだろうと仲買人は考えていた。彼はそこの商人とよく取り引きしていたから、と言うのだった。フィリアス・フォッグはホテルに戻り、アウダに話をしたいと申し出た。そして単刀直入に言った。ジェジー氏はホンコンにおりません、オランダにいるようです。
 アウダは最初何も言わなかった。手をひたいに置いて、しばらく考えていた。それから、甘く柔らかい声で言った。「どうすればいいのでしょう、フォッグさん?」
 「簡単なことです。」かの紳士は言った。「一緒にヨーロッパへ来ていただければよろしいでしょう。」
 「ですが、そんなお邪魔を―。」
 「邪魔ではありません。あなたがいることは私の計画には少しも問題になりません。パスパルトゥー。」
 「はい、ご主人様。」
 「カルナティック号へ行って、船室を三つ予約してくれ。」
 パスパルトゥーは喜んだ。自分に優しくしてくれる若い女性が、自分たちと一緒に旅行を続けることになったからだ。そして、活発な足どりで、主人の命令を実行しようと出ていった。

..第十九章:パスパルトゥーが彼の主人に関心を持ちすぎたために起こったこと
 ホンコンは、千八百四十二年の戦争のあと、ナンキン条約によって英国の所有となった島である。英国気質が入ることによって、ホンコンは優れた港を持つ重要な都市となった。この島はカントン川の河口にあり、反対側の海岸にあるポルトガル人の町マカオからおよそ六十マイルの距離にある。ホンコンはシナとの貿易における地位をマカオと争ってきたが、今はシナの物資は大部分がホンコンに運ばれ、貯蔵されている。ドック、病院、波止場、ゴチック様式の大聖堂、政府の建物、砕石で舗装された通りなどを見ていると、ケント州とかサリ州にあるような町の外観が、不思議な魔法によって、地球をはさんで正反対にあるホンコンに移されたような感じを受けるのである。
 パスパルトゥーはポケットに手を入れて、ヴィクトリア港へと向かっていた。そして、かごなどの乗り物や、シナ人、ニッポン人、ヨーロッパ人などが通りを行き交っているのをめずらしげに並んでいた。ホンコンはパスパルトゥーにはボンベイやカルカッタ、シンガポールと同じように見えた。ホンコンの至る所に、それらの都市のように英国の主権が及んでいる証拠が見えていたのだ。ヴィクトリア港には、あらゆる国の船が混み合った状態にあった。イギリス、フランス、アメリカ、オランダから来た軍艦や商船、ニッポンやシナのジャンク船、センパス、タンカなどが港にいたし、花を満載した船が、海面に浮かぶ花壇付きの庭をつくっていた。
 パスパルトゥーは群衆の中に、非常に年を取っている現地人がたくさんいるのに気づいた。彼らはみな黄色い服を着ていた。パスパルトゥーはひげを剃ろうと床屋に入り、往来を歩いている老人たちはみな、少なくとも八十歳以上であると教えられた。その歳になると、彼らは黄色の服(それは帝国の象徴であった)を着るのを許されるのだった。パスパルトゥーは、なぜだか分からないが非常におもしろいと感じた。
 パスパルトゥーが、自分たちが乗ろうとしているカルナティック号が停泊していた波止場に着いたとき、フィックスがあちこち歩いているのを見たが、なんの驚きもなかった。探偵は、とても混乱し、かつ、がっかりしているようだった。
 「よくない知らせがあったな。」パスパルトゥーはつぶやいた。「リフォーム・クラブの紳士がたにとってはな。」そして、陽気な笑顔を浮かべながらフィックスに声をかけた。フィックスがくやしがっているのがまるで分からなかったみたいにふるまっていた。実際探偵は、理由があって自分が直面した不運に激しく怒っていた。令状が来ていなかったのだ! まちがいなく探偵を追ってはいたが、ホンコンに着くまでにはまだ数日かかるのだった。ここホンコンは、フォッグ氏が通る最後の英国領であり、ここで引き留めることができないかぎり、強盗は逃げおおせてしまうに違いなかった。
 「こんにちは、ムッシュー・フィックス。」パスパルトゥーは言った。「私たちと一緒にアメリカまで行くことにしたのですか?」
 「その通りです。」フィックスはムッとして答えた。
 「よかったですね!」パスパルトゥーは心から笑った。「あなたが私たちと離れられないのは分かってましたよ。さあ、予約しに行きましょう。」
 二人は船会社の事務所へ行って、四人分の船室を予約した。事務員は二人にチケットを渡し、カルナティック号の修理が終わったので、船は以前発表した明朝ではなく今晩出航することになったことを二人に告げた。
 「ご主人様にとってはますます好都合だな。」パスパルトゥーは言った。「行って、ご主人様に知らせることにしよう。」
 フィックスは賭けに出ることにした。パスパルトゥーにすべてを話そうと考えた。それだけが、フィリアス・フォッグをホンコンに何日間か引き留める方法のように思えた。フィックスは、パスパルトゥーを波止場で目についた居酒屋に連れていった。そこに入ると、二人の目の前に派手な装飾が施された広い部屋が現れた。その奥にはクッション付の大きなキャンプベッドがあった。何人かがそのベッドで深い睡眠に落ちていた。部屋に並べられた小さいテーブルで、三十人くらいのお客が英国のビールやポートワインやジンやブランデーなどを飲んでいた。そうしながら彼らは、バラの香りを混ぜてあるアヘンの玉が少量詰めてある、長い赤粘土製のパイプを吸っていた。麻薬のせいで正気を失って、テーブルの下にすべり落ちるものまでいた。ウエイターはそういった人の頭と足を持って、ベッドまで運んでいくのだった。ベッドにはすでに二十人の麻薬中毒者が寝ていた。
 フィックスとパスパルトゥーは自分たちがアヘン宿にいることに気がついた。そこにはこういった哀れな、死人や白地のように見える人々がよく訪れるのだ。彼らに対してイギリス商人は、アヘンと呼ばれているひどい薬を毎年百四十万ポンドも売りつけている。その利益は、いわば最も卑劣な、人間性をなくすような悪徳から生まれているのだ。シナの政府は、このような悪徳を厳しく罰しようと試みたが無駄に終わった。その悪徳は金持ちから徐々に広まっていき、しだいに下層階級にまで広がってしまった。もう誰にも止めることができなくなってしまったのだ。アヘンは今では、シナ帝国じゅうどこへ行っても吸われている。男も女も、いつでも吸うようになってしまった。いったんアヘンに慣れてしまうと、犠牲者はそれなしではいられなくなってしまう。もし吸わないでいると、恐ろしいほどの体のひきつりと、それに伴う苦しみを味わわなくてはならないのだ。重度の中毒者は一日にパイプ八本分も吸うようになり、五年くらいで死んでしまうのだった。
 フィックスとパスパルトゥーは、一杯やろうとして、アヘンを吸わせる店に迷い込んでしまったのである。パスパルトゥーはお金を持っていなかったけれど、いつかお返しをすればいいと考えて、フィックスの招待を喜んで受けることにしたのだった。
 二人はポートワインを二本注文した。フランス人が十分に楽しんでいる間、フィックスは彼を綿密に観察していた。二人は旅行について話をした。パスパルトゥーはかなりはしゃいでいた。フィックスが自分たちと一緒に旅行を続けるという着想を持っていたからだ。しかし、ビンが空になり、パスパルトゥーは主人にカルナティック号の出航時間の変更を告げようと立ち上がった。
 フィックスはパスパルトゥーの腕をつかみ、「ちょっと待って下さい。」と言った。
 「なんですか、フィックスさん。」
 「あなたとまじめな話がしたいんです。」
 「まじめな話ですって!」パスパルトゥーはそう言うと、グラスの底にあったわずかなワインを飲み干した。
 「その話は明日にしましょう。時間がないんです。」
 「待ちなさい! 事はあなたのご主人に関係しているんです。」
 パスパルトゥーはこの言葉を聞き、相手の顔をまじまじと見つめた。フィックスの顔には異様な真剣さが見てとれた。パスパルトゥーは席に着いた。
 「あなたは何を言ってるんですか。」
 フィックスはパスパルトゥーの腕に手を置き、声を低めて言った。「あなたは私が誰だか感づいたんでしょう。」
 「もちろん!」パスパルトゥーは微笑を浮かべた。
 「それなら、すべてを話しましょう―。」
 「もちろんすべて知ってますよ、あなた! 非常にいいですねえ。続けてください。ですが、最初に言っておきますが、あの紳士がたは無駄な費用を使ってるんですよ。」
 「無駄ですと!」フィックスは言った。「大胆ですねえ。どれだけの金がかかってるのか知らないんですな。」
 「もちろん知ってますよ。」パスパルトゥーは答えた。「二万ポンドでしょう。」
 「五万五千ポンドですよ!」フィックスは答えながら相手の腕を力強く握った。
 「なんと! フォッグ様はそんなに―五万五千ポンドも賭けていたのか! それじゃあ、ますます一刻の猶予もならんぞ。」そう言うと、急いで立ち上がった。
 フィックスはパスパルトゥーをいすに押し戻し、言葉を続けた。「五万五千ポンドです。もし私が成功したら、二千ポンドもらえるんです。もし私を助けてくれれば、そのうち五百ポンドをあなたにあげますよ。」
 「あなたを助ける?」パスパルトゥーは叫んだ。その目は大きく見開かれていた。
 「そうです、フォッグ氏を二、三日ここに留めておくのを助けてほしいのです。」
 「なぜです、何を言っているんですか? あの紳士がたは、主人のあとをつけて、その正直さを疑うだけでなく、道中で邪魔しようとまでするのですか! まったく、恥ずかしくなりますな!」
 「何のことですか?」
 「恥ずかしいペテンだと言っているんです。あの人たちは、フォッグさんを待ち伏せして、お金を取っていくに等しいことをやってるんですよ!」
 「それこそ私たちがやろうとしていることなのです。」
 「なら、それは陰謀だ。」パスパルトゥーは叫んだ。彼はリキュールのせいでますます頭に血が上り、何をしているかが分からぬままさらに飲み続けた。「それはまさしく陰謀だ! 紳士ともあろう方が、フン!」
 フィックスは困りだした。
 「リフォーム・クラブのメンバーですよ!」パスパルトゥーは続けた。「分かるでしょう、ムッシュー・フィックス。私の主人は正直な人なんです。あの人は賭けをして、正々堂々と賭けに勝とうとしているんですよ!」
 「あなたは私を誰だと思ってるんですか?」フィックスは相手を見つめながら尋ねた。
 「知ってますよ! リフォーム・クラブのメンバーの手先でしょう。主人の旅行を止めるためにここに送られてきたんでしょう。私は何回かあなたを見かけましたが、フォッグさんに何も言わないよう気をつけてましたよ。」
 「では、彼は何も知らないんですね?」
 「何にも。」パスパルトゥーは答え、またグラスを空にした。探偵は手をひたいに持っていった。話をやめて口ごもった。彼は何をすべきだっただろう? パスパルトゥーが間違っているのは明らかだ。だが、これで計画がさらに難しくなった。従者が主人の共犯でないのは明らかだ。従者が共犯であることをフィックスは恐れていたのだが、そうではなかったのだ。
 「そうか。」探偵は自分自身に言い聞かせた。「共犯でないのなら、俺を助けてくれるだろう。」
 探偵にはもう時間がなかった。フォッグをホンコンに引き留めておかねばならない、こちらの胸の内をさらけだそうと考えた。
 「私の話を聞け。」探偵はぶっきらぼうに言った。「私はあなたが考えているような、リフォーム・クラブの手先ではない。」
 「フン!」パスパルトゥーは、からかうそぶりで言った。
 「私は探偵なんだ。ロンドン警察の命を受けてここに派遣されたんだ。」
 「あなたが探偵?」
 「それを証明しよう。これが私への命令書だ。」
 パスパルトゥーはフィックスが文書を見せたとき、驚きのあまり言葉もなかった。その紙が本物だということは疑いようがなかった。
 「あの男の賭けは、」フィックスは話を続けた。「単なる口実に過ぎないんだ。あなたやリフォーム・クラブの紳士がたはだまされているんだ。あいつは、あなた方の無知につけこんで、協力してもらおうとしているんだよ。」
 「しかし、なぜ?」
 「聞くんだ。先月、九月二十八日に、五万五千ポンドの略奪がイングランド銀行で行われた。犯人の人相書きは幸い確保されている。これが人相書きだ。フィリアス・フォッグの特徴と性格に一致しているだろう。」
 「そんなばかげたこと!」パスパルトゥーは拳でテーブルをたたいて叫んだ。「私の主人はこの世で最も高貴な人です!」
 「どうしてそう言えるんだ? 君はフィリアス・フォッグについてほとんど知らない。君はフィリアス・フォッグが出発したその日に従者になった。そしてフィリアス・フォッグは、馬鹿げた口実で国を離れた。トランクもなく、大量の札束を抱えていた。それでもまだ、あくまであの男は正直な人だと主張するのか。」
 「そうです、そうです。」パスパルトゥーが機械的にそう繰り返すさまは、実に哀れだった。
 「では君は、あの男の共犯として逮捕されたいのか?」
 パスパルトゥーは、これを聞いて参ってしまった。手で頭をはさみ、探偵を見ようとしなかった。フィリアス・フォッグ、アウダの救世主にして、勇敢で寛大なあの人が泥棒だなんて! それなのに、あの人が疑いをもたれている! パスパルトゥーは、自分の心に忍びこむ疑いをうち消そうとした。自分の主人が犯罪を犯したなんて思いたくなかった。
 「ああ、あなたは私に何をしてほしいのですか?」やっとの事でパスパルトゥーはこう言った。
 「そこだ。」フィックスは答えた。「私はフィリアス・フォッグをここまで追ってきた。しかし、まだロンドンに頼んだ逮捕状を受け取ってないんだ。君にはここホンコンにあいつを留め置くのを助けてもらわなきゃ―。」
 「私! しかし私―。」
 「イングランド銀行が提供する二千ポンドの報酬を君にも分けてやろう。」
 「できません!」パスパルトゥーは答えて、立ち上がろうとしたが、理性も気力もぬけてしまって、また腰を下ろしてしまった。
 「フィックスさん。」どもりながらパスパルトゥーは言った。「あなたのいうことが真実だったとしても…もし私の主人が本当にあなたが追っている泥棒だとしても…私は否定します…私はあの方の従者でしたし、今もそうです…私はあの方の高潔で善良なところを見てきました…私はご主人様を裏切れません…世界中の金を積まれてもだめです…私はそういうパンは食べない村の出身なのです。」
 「君は拒絶するのだね?」
 「拒絶します。」
 「何も言わなかったことにしよう。」フィックスは言った。「そして、飲むことにしよう。」
 「そうです、飲みましょう!」
 パスパルトゥーはますますリキュールの力に負けてしまう感じがしていた。フィックスは、どんな危険を冒しても、パスパルトゥーを主人から引き離しておかないといけないことを知り、だったら完全にまいらせてしまおうと思った。アヘンが詰まったパイプが何本かテーブルに置いてあった。フィックスはパスパルトゥーの手にパイプをすべりこませた。パスパルトゥーはそれを取り、唇の間に入れ、火をつけて、何服か吸った。麻薬の影響で頭が重くなり、テーブルに頭を落とした。
 「これでいい!」フィックスはそう言って、意識を失ったパスパルトゥーを見た。「フォッグはカルナティック号の出発を知らされないだろう、もし知ったとしても、このうるさいフランス人なしで行かざるを得ないだろうよ!」
 そして、自分の勘定を払って、居酒屋を後にした。

..第二十章:フィックスがフィリアス・フォッグと対面すること
 こういった出来事がアヘン窟《くつ》で進行していたとき、フォッグ氏は、汽船に乗り遅れてしまうかもしれない事態に気づかずに、英国領たるホンコンの通りでアウダをエスコートしていた。これからの長い航海に必要な品々を買っていたのだ。フォッグ氏のような英国紳士であれば、旅行鞄一つで世界旅行をすることもできた。しかし、女性がそのような状態で何不自由なく旅行することなど期待できるものではなかった。彼は独特の落ち着きでもって自分の仕事をこなしていった。そして、彼の忍耐と高潔さに対して当惑していた連れの未亡人が、遠慮したり断ったりするのに対して、いつもこう答えていた。「これは私の旅行に必要なのです。私の計画に入っているのです。」
 買い物を済ませ、二人はホテルに帰って豪華な晩餐を一緒に食べた。その後アウダは、英国流に手を振って、休息のために部屋へ入った。フォッグ氏はタイムズとイラストレイテッド・ロンドン・ニュースを夕方じゅう読みふけってすごした。
 就寝時間になっても従者が帰ってこなかったのを見て、フィリアス・フォッグはいかなる驚きをもったのだろうか。しかし、船が翌朝まで港にいることを知っていたので、この問題に関しては考えないことにした。パスパルトゥーが翌朝になっても主人のベルに答えなかったときも、フォッグ氏は苛立ちの表情も見せずに旅行鞄を取って、アウダを呼んで、かごを注文した。
 そのとき八時だった。九時半に満潮となり、カルナティック号は港を出る予定だった。フォッグ氏とアウダはかごに乗り、荷物を手押し車に載せた。三十分後、荷物と手押し車は、フォッグ氏たちが乗船することになっていた波止場に着いた。そのときフォッグ氏は、カルナティック号が昨晩出航してしまったことを知った。フィリアス・フォッグは船と従者を見いだせるものと考えていたが、どちらもあきらめざるを得なかったのだ。しかし彼は、失望の表情を見せず、アウダに一言だけ告げたのだった。「これは事故です、マダム。何の心配もいりません。」
 そのとき、フォッグ氏を見つめていた男が丁寧な感じで近づいてきた。その男、フィックスは、おじぎをして、フォッグ氏に話しかけた。「失礼ですが、あなたはもしや昨日ここに着いたラングーン号に乗っていませんでしたか?」
 「乗っていました。」フォッグ氏は静かに言った。「しかしお目にかかったことが――。」
 「失礼しました。おともの方とここでお会いできるかと思いましたので。」
 「あなたはあの人がどこにいるか、ご存じでしょうか?」アウダが心配そうに尋ねた。
 「何ですって!」フィックスは驚きの表情を見せながら答えた。「彼はあなた方と一緒ではないのですか?」
 「おりませんの。」アウダは言った。「あの人、昨日から姿を見せないんですの。私たちを待たずにカルナティック号へ乗船したんでしょうか?」
 「あなた方を待たずに、ですか?」探偵は答えた。「失礼ですが、あなた方はカルナティック号で出航するおつもりだったのですか?」
 「そうなんです。」
 「私もそのつもりでした、マダム。それで、私はとてもがっかりしているのです。カルナティック号は、修理が完了したということで、定刻の十二時間前に、何の予告もなしに出ていってしまったのです。次の船まで一週間待たなければならないのです。」
 「一週間」と言ったとき、フィックスの心臓はうれしくて飛び出そうだった。フォッグは一週間ホンコンで引き止められるのだ! 運命はついに法の代理人にほほえんだのだ。
 フォッグ氏が穏やかな声でこう言うのを聞いたときの、フィックスの戦慄は容易に想像できるだろう。「しかし、ホンコンの港には、カルナティック号のほかにも船はあるだろう。」
 そして、アウダに腕を差し出して、今まさに出航しようとしている船を探そうと、ドックの方へ足を向けた。フィックスは、呆然としながらあとに続いた。まるでフォッグ氏と見えない糸でつながれているように見えた。しかし機会は、今まで都合よくなるようにお膳立てしていた男を見捨ててしまったように思えた。フィリアス・フォッグは三時間ドックを歩きまわった。いざとなったらヨコハマまで自分を乗せていく船をチャーターしようとまで考えていた。しかし彼は、荷物を積んだり下ろしたりしている船しか見つけることができず、どうしても出航することができなかった。フィックスの希望がよみがえってきた。
 しかしフォッグ氏は、決して落胆することなく、船を探し続けた。マカオへ行ってでも探し続けようとまで考えた。ある波止場へ行ったときに、彼のところに水夫がやってきて話しかけられた。
 「あなた方は船を探してるんですか?」
 「すぐに出航できる船をお持ちですか。」
 「ありますよ、だんな。水先案内船で―四十三号ですよ。港の中でもいい船ですよ。」
 「船足は速いですか。」
 「一時間あたり八か九ノット行きますよ。船を見ますか?」
 「見せて下さい。」
 「きっとだんなも満足しますよ。ご遊覧ですか?」
 「いや、旅行したいんです。」
 「旅行?」
 「そうです、ヨコハマまで私を連れていってもらいたいのです。」
 水夫はあっけにとられた。目を見開いてこう言った。「だんな、ご冗談でしょう。」
 「本気です。私はカルナティック号に乗れなかったのです。それで、サンフランシスコ行きの船に乗るために、遅くとも四日間で横浜へ着かねばならんのです。」
 「申し訳ない。」水夫は言った。「それは不可能ですよ。」
 「一日につき百ポンド出します。もし時間内にヨコハマへ着いたら、二百ポンド報酬を出しましょう。」
 「まじめに言ってるんですか?」
 「まじめに言ってるんです。」
 水先案内人はフォッグ氏から離れて、海を見つめていた。明らかに、大金を得たいという欲望と、大変な危険を冒すことになる恐怖との間でもがいていた。フィックスはすざましい不安を抱いていた。
 フォッグ氏はアウダの方を向いてこう尋ねた。「こわくはないですか、マダム。」
 「あなたと一緒ならこわくはないですわ、フォッグさん。」これがアウダの答えだった。
 そのとき水先案内人が帰ってきた。その手に帽子を握りしめていた。
 「行ってくれますか。」フォッグ氏が言った。
 「そうだねえ、だんな。」水先案内人が答えた。「今の時期に、二十トンそこそこの小さな船でそんな長い航海をするなんて、私にとっても部下にとっても危険が大きすぎます。それに、そんな時間でヨコハマに着くなんてできませんや。なにしろ、ホンコンから千六百六十マイルいかなきゃならんですからね。」
 「千六百マイルですよ。」フォッグ氏が言った。
 「同じことですよ。」
 フィックスは安堵のため息をついた。
 「ですが、」案内人はつけ加えた。「ほかに方法がないわけじゃありません。」
 フィックスは息をのんだ。
 「どうするんだね。」フォッグ氏が尋ねた。
 「ナガサキはニッポンでもかなり南側にありますし、シャンハイはもっと南にあります。シャンハイならここから八百マイル離れているにすぎません。シャンハイへ行く際には、だいたいシナ海岸に沿っていきますし、潮流が北側に向かって流れていますから、我々にとってとても好都合なのです。」
 「あなた。」フォッグ氏は言った。「私はヨコハマでアメリカ行きの船に乗らねばならんので、シャンハイやナガサキへ行く必要はないのです。」
 「なぜいけないんです?」水先案内人は答えた。「サンフランシスコ行きの船はヨコハマからは出ません。ヨコハマやナガサキにも寄りますが、船はシャンハイから出るのです。」
 「それは間違いないですか?」
 「間違いないです。」
 「それで、その船はいつシャンハイを出るんですか。」
 「十一日の、夜七時です。ですから、我々にはまだ四日間、九十六時間の余裕があります。その時間内に、もし運に恵まれて、南西の風が吹いて、海が静かだったらという条件つきですが、シャンハイまでの八百マイルを走破することができるわけです。」
 「それで、どのくらいで準備ができ――。」
 「一時間。食料を積んで、帆の準備をしたらすぐに出発します。」
 「契約しましょう。あなたは船主ですか。」
 「そうです。ジョン・バンスビー、タンカディア号の船長です。」
 「前金がいりますか。」
 「もし差し支えなければ……。」
 「では、二百ポンド出しましょう。」そしてフィリアス・フォッグはフィックスの方を向いて言った。「もしお乗りになりたいのでしたら……。」
 「ありがとうございます。ご厚意に甘えさせてもらいます。」
 「かまいませんよ。三十分後に船に乗ります。」
 「でも、パスパルトゥーはどうしますの?」アウダはフォッグ氏に聞いた。彼女は従者の失踪に心穏やかでなかった。
 「できるだけのことはやりましょう。」フィリアス・フォッグは答えた。
 フィックスは、どうにもやりきれない気持ちで、水先案内船の方へ向かっていった。一方ほかの二人は、ホンコンの警察署へ足を向けた。フィリアス・フォッグはそこで、パスパルトゥーの人相書きを伝えて、彼を捜すために必要なだけのお金をおいていった。フランス領事館でも同じ手続きをとり、かごに乗ってホテルに戻って荷物を受け取り、波止場に戻ってきた。
 ちょうど三時だった。水先案内船四十三号は、乗組員は船にスタンバイしており、食料の積み込みも完了し、今にも出発せんばかりだった。タンカディア号は二十トンのこざっぱりとした小さな船であった。レース用の船みたいに上品な形をしていた。船底に輝く銅、亜鉛メッキをした鉄、象牙のように白い甲板、それらすべてが、ジョン・バンスビーによる手入れのおかげで、人前に出しても恥ずかしくないという誇りをあらわしていた。二本のマストは少し後ろに傾いていた。ブリガンティン型帆船を運んでおり、前|檣《しょう》帆やストームジブ、スタンディングジブは風を受けて走るために広げられていた。確かにすばらしい速力で走るに違いなかった。事実、タンカディア号は水先案内船のレースでたびたび賞を得ていたのである。タンカディア号の乗員は、船長ジョン・バンスビーと四人の頑丈な水夫とであった。彼らはみなシナの海をよく知っていた。ジョン・バンスビーは四十五歳くらいの屈強な男で、日焼けしており、目には陽気な表情をたたえ、エネルギッシュで自信にあふれた表情を見せていて、どんな臆病者でも信頼を寄せたくなるような男であった。
 フィリアス・フォッグとアウダは船に乗り込み、すでに乗り込んでいたフィックスを見つけた。甲板の下には四角い船室があり、その壁は小屋のような形にふくらんでおり、円形のソファが置いてあった。部屋の中央にはくるくる回るランプがついたテーブルがあった。部屋の設備は少ないが、整っていた。
 「もっといい部屋を用意できなくて申し訳ありません。」フォッグ氏はフィックスに言った。フィックスは黙っておじぎをした。
 探偵はフォッグ氏の好意によって利益を得ることに屈辱に似た感情を感じていた。
 「確かに、」彼は考えた。「ならず者だが、礼儀正しいやつだ!」
 三時十分すぎに、タンカディア号は帆と英国旗を掲げた。フォッグ氏とアウダは甲板に座り、もしかしてパスパルトゥーがやってこないかと波止場をちらっと見た。フィックスは、ひょっとしてあの不運な従者がここへやってきやしないかという恐れを抱かずにはいられなかった。従者にあんなひどいことをしたのは自分だったからだ。もし従者が姿を見せたら、探偵にとってとても不都合な事態を弁解しなければならなかっただろう。しかしあのフランス人は現れなかった。きっとまだアヘンのせいで麻痺しているに違いなかった。ついにジョン・バンスビー船長は出発の命令を下した。タンカディア号は風を二本のマストと前|檣《しょう》帆とスタンディングジブに受けて、元気よく波間を前に進んでいった。

..第二十一章:タンカディア号の船長が二百ポンドの報酬のために大きな危険を冒すこと
 八百マイルにわたるこの航海は、二十トンの船にとっては危険な冒険であった。一年のなかでもこの季節に実行したのだからなおさらそうなってしまっていた。シナの海はすさまじい突風によって荒れがちであった。秋分の季節には特にひどい状態になるのであり、しかも今は十一月はじめであった。
 船長にとっては、ヨコハマへ乗客を運んだ方が有利なのは明らかだった。一日ごとに特定の金額が支払われる契約だったからだ。しかし、ヨコハマまで航海をするのは無謀な試みだったし、シャンハイに向かうのでさえ軽率な行動だった。ただ、ジョン・バンスビーはタンカディア号を信じていた。船はカモメみたいに波に乗るだろうと考えていた。たぶん彼は間違ってはいなかった。
 その日の遅く、タンカディア号はホンコンの気まぐれな水路を通り抜けた。そして、順風に恵まれて、とても慎重に進んでいった。
 「言うまでもないことですが、」船が沖に出たとき、フィリアス・フォッグは言った。「できるだけ速度を上げてください。」
 「まかしといてください、だんな。帆はみんな、風を受けて我々を運んでいってます。オールを使う必要はないでしょう。港にはいるときにだけ使えばいいはずです。」
 「あなたが航海しているんですから、信頼していますよ。」
 フィリアス・フォッグは、水夫みたいに体を直立させ、足を広げて立っていた。そして、たじろぎもしないで大きなうねりを見つめていた。あの若い女性は船尾に座って、すでに暗くなりかけた海を、じっと身動きもせずに眺めていた。彼女は、自分はなんてもろい船で荒海に挑んでいるんだろう、と感じていた。その頭の上で、白い帆が音を立てていた。その姿は大きい翼みたいだった。船は風によって前へ進んでいて、空を飛んでいるように思われた。
 夜がやってきた。上弦の月だった。そのほのかな光は水平線上の霧にはばまれてすぐに消えた。雲が東から立ち上り、すでに空はかなり雲におおわれていた。
 船長は明かりを外に出した。陸の方へ向かう船で混み合っているこのあたりの海ではとても重要なことだった。船同士の衝突もめずらしくなかったし、勇敢にも今のような速度で航行するこの小さな船は、わずかな衝撃が加わるだけで砕かれてしまうのだった。
 フィックスは、船首に座って自分の考えに浸っていた。同乗者とは距離を置いていた。フォッグ氏が無口な方であることを知っていた。それに、自分が厚意を受けた男に話しかけたくもなかった。フィックスは将来についても思いをめぐらした。フォッグがヨコハマに止まらず、すぐにサンフランシスコ行きの船に乗るのは確かなことのように思えた。そして、アメリカの広大な国土はあの男に自由と安全を提供するだろう。
 フォッグの計画は、フィックスにはまったく単純なものに見えた。普通の悪党のように、イギリスからアメリカへ直接航海するという方法をとらずに、地球の四分の三を旅行するという方法をとったのだ。それがより確実にアメリカ大陸に到達する道だからな。そこで警察の追跡をふりきり、銀行から盗んだ金で静かに暮らすんだろう。だが、アメリカに着いたら自分は何をすればいいのだろう? この男のそばから去るべきだろうか? だめだ! 絶対だめだ! 自分が身柄を確保するまで、一分たりとも見逃さない。それが自分の職務だ。俺は最後まで職務を果たす。いずれにしても、ひとつありがたいことがあった。パスパルトゥーが主人と一緒ではないことだ。これは大事なことだ。フィックスが秘密をもらしてしまった後で、従者に主人と話す機会を持たせてはならんからな。
 フィリアス・フォッグも、急に不可解な失踪をしたパスパルトゥーのことを考えていた。すべての観点から見て、なんらかのミスであの男は最後の瞬間に、カルナティック号に乗船したのかもしれない。そんなこともありそうに思えた。それはアウダの意見でもあった。アウダは多くの借りがあったあの感心な若者の失踪をものすごく残念に思っていた。もしカルナティック号がパスパルトゥーをヨコハマへ運んでいれば、二人はそこで彼を見つけられるかもしれなかった。彼が船に乗っていたかどうかはすぐに分かるだろうと思われた。
 十時ごろ、さかんに風が吹いてきた。船長は、暗礁に対する用心はしていたけれども、そらもようを慎重に調べた後で、前のように船を操作し続けた。タンカディア号の帆は非常に安定していた。喫水線が深いからだ。それに、いざ暴風となったら、すぐに帆が下ろせるようになっていた。
 フォッグ氏とアウダは真夜中に船室へ降りた。フィックスはすでに降りていて、ベットで横になっていた。船長と乗員は、一晩中甲板に残っていた。
 次の日、十一月八日の日の出ごろ、船はすでに百マイル以上の距離を進んでいた。記録によると、船は時速八から九マイルの速度を出していた。タンカディア号はまだ帆をすべて広げており、出せるかぎりの速度を出していた。風が今までのようであれば、運命は船に好意を示してくれるはずであった。
 その日一日、船はずっと海岸沿いを進んでいた。その辺りの海流は船に都合がよかった。海岸は規則正しい輪郭をしており、明るくなるとときどき現れた。船は海岸から五マイルと離れていなかった。風は陸から吹いているので、海はあまり激しくなかった。この状況は、総トン数が小さいために海の大きなうねりに苦しんでいる船にとってありがたいことだった。
 そよ風は正午ごろにすこし静まり、南西方向に変わった。船長は柱を設置したが、二時間ほどして、新たな風が吹いてきたので再び柱をしまった。
 フォッグ氏とアウダは、幸運にも海の荒れには強かったので、おうせいな食欲で食べた。フィックスは、一緒に食事をしようと誘われ、くやしさを心に秘めたまま誘いを受けた。この男の費用で旅行をし、食事することは、フィックスにとって好ましくなかった。それでも、食べなければならなかった。だから彼は食べた。
 食事が終わったとき、フィックスはフォッグ氏をわきに呼んで、「あなた」と呼びかけた。この「あなた」という言葉を口にしたとき、くちびるが焼けこげる思いだった。この「紳士」を逮捕したくなる衝動を抑えなければならなかった。「あなたのおかげを持ちまして、この船で旅行を続けられることを大変感謝しております。ですが、私にはあなたほど自由に使えるお金を持ちあわせてはおりませんが、私の分はぜひ私に払わせていただき―。」
 「そのことを話すのはやめましょう。」フォッグ氏は答えた。
 「ですが、私はどうしても―。」
 「いけません。」返事を拒む調子でフォッグ氏は答えた。「これは私の費用の一部なんです。」
 フィックスは頭を下げた。息の根を止められる思いだった。船首に出て、体を落ち着かせた。その日はもう口を開かなかった。
 一方、船はすばらしい速度で前進していた。ジョン・バンスビーはおおいに希望を抱いていた。繰り返し繰り返し、時間内にシャンハイに到着できるだろうとフォッグ氏に請けあった。かの紳士は、それが重要なことですからねと答えていた。乗員はすばらしい真剣さでもって仕事をこなしていた。提示された報酬を得ようと頑張っていた。ぴんと張っていない帆はなかったし、力強く巻かれてない帆もなかった。舵に関しても、船長は一つも間違えなかった。ロイヤル・ヨット・レガッタで競争しているみたいに必死に働いていた。
 夕方までには、船のログはホンコンから二百二十マイル航海したことを示していた。フォッグ氏は、ひょっとすると遅れを日誌につけることなくヨコハマに着けるかもしれないという希望を抱き始めた。そうなると、ロンドンを出発してからふりかかってきた不運な出来事も、フォッグ氏の旅行にあまり大した影響はもたらさないに違いなかった。
 タンカディア号は、シナの沿岸からタイワンを切り離している、フーチェンの海峡に入った。そしてその夜、北回帰線を横切った。海峡に入ると海は荒れ模様で、前方からの流れによって渦がいっぱいできていた。たたきつける波で進路は乱れ、とても甲板に立っていられる状態ではなかった。
 夜が明けると、また風が強くなった。空を見上げると、これから強風が吹くように思われた。気圧計はすばやく変化し、水銀が気まぐれに上下した。南東方向では、大嵐を予感させる長いうねりが起きていた。前には夕方になると太陽は赤い霧の中にあり、リン光のように海の中ほどをきらめかせていたのだ。
 ジョン・バンスビーは空の荒れ具合を調べ、口の中でぶつぶつつぶやいた。そしてフォッグ氏に、低い声で言った。「お話ししてもよろしいでしょうか?」
 「どうぞ。」
 「では。突風が来ます。」
 「風は北からですか、南からですか。」フォッグ氏は静かに尋ねた。
 「南からです。見てください! 台風が来ています。」
 「南からの台風なら、私たちを前に運んでくれますね。」
 「ああ、そう思うのであれば、」ジョン・バンスビーは言った。「何も言うことはありません。」
 ジョン・バンスビーの疑いは正しかった。もっと早い季節なら、台風は――これはある有名な気象学者の説である――電気の炎で明るい滝のような状況となるが、秋分のころになるとすさまじい破壊力をもたらすだろうと恐れられていた。
 船長は前もって用心した。あらゆる帆を巻かせ、マストはすべて抜き取られた。人間はすべて前に集められた。ただ一枚、強靱《きょうじん》な布でできた三角帆だけがストームジブとして取り付けられた。これは後ろから来る風を受けるためだ。それから彼らは待った。
 ジョン・バンスビーは、乗客に下へ行くよう頼んだ。しかし、狭い空間に閉じこめられ、空気も悪く、船は強風でゆれるという状況は決して心地よいとは言えなかった。フォッグ氏もフィックスも、アウダでさえも、甲板を去ろうとはしなかった。
 暴風雨は八時頃に船をおそった。小さな帆をひとつつけているだけなのに、タンカディア号は羽根のように風にもてあそばれた。そのすさまじさは何と言っていいか分からなかった。その風速は全速力で走る機関車の四倍、といっても足りなかったろう。
 船はこの日一日、巨大な波に乗って北へと運ばれていった。幸い、波の速度に遅れることはなかった。二十回ほど、船は後ろに起こった水の山に飲み込まれそうに見えた。しかし、船長の巧みな操作に救われていた。乗客にたびたびしぶきがかかったが、彼らはこの状況を冷静に耐えていた。フィックスは悪態をついていた。アウダは自分を守ってくれている人を見つめ、フォッグ氏が冷静でいることに驚いてはいたものの、フォッグ氏も感心するほどに、勇敢に嵐に耐えていた。フィリアス・フォッグはというと、台風が自分の計画に組み込まれていたみたいに平然としていた。
 この時まで、タンカディア号は常に北へと進行し続けていた。だが、夕方ごろになって、風が四分の三だけ方向を変えて、北西から吹きつけるようになった。船は波の谷間に入り、縦横に揺さぶられていた。海はすさまじいまでの激しさで船を襲った。夜になると、嵐の威力はますます激しくなった。ジョン・バンスビーは、辺りが闇に包まれ、嵐がやってきたことを心配し、表情がくもった。彼はしばらく考え、乗員に速度をゆるめるときではないかと尋ねた。その後で、フォッグ氏に近づいていった。
 「だんな、どこか沿岸の港に行った方がいいと思うんですが。」
 「私もそう考えていました。」
 「ああ!」船長は行った。「ですが、どこへ行けばいいですかね?」
 「ひとつしか知りません。」フォッグ氏は静かに答えた。
 「それはいったい―。」
 「シャンハイ。」
 船長は最初はよく分かっていないみたいだった。その言葉にひそむ決意と頑固さをほとんど理解できなかった。それから彼は叫んだ。「ああ――その通りだ! だんなのおっしゃるとおりだ。シャンハイへ行くぞ!」
 そしてタンカディア号は北への進路をとり続けた。
 その夜は本当に恐ろしかった。船が沈没しなかったのは奇跡といえるだろう。乗員が絶えず警戒していなかったなら、二回は沈没していただろう。アウダは疲れ切ってはいたが、何一つ不平を言わなかった。一度ならずフォッグ氏は、彼女を暴れまわる波から守ろうとかけよった。
 夜が明けた。嵐は依然として猛威を振るっていたけれども、風はまた東南から吹き出していた。そのことはいい変化だった。タンカディア号は再び荒れ模様の海を前に進んでいった。しかし、波どうしが重なり、船に衝撃を与えていた。船が丈夫でなかったら、ひとたまりもなくつぶれてしまっていただろう。ときどき海岸が霧の晴れ間から見えていたが、船はまったく見えなかった。タンカディア号は、ただ一隻海に出ていたのだ。
 正午になると天候は凪いできた。太陽が地平線の下に落ちるころにははっきりと凪いでいた。嵐は来たときと同じくすばやく去っていった。乗客は完全に疲れ切っていたが、ようやく一息つけるようになり、少し休むことができた。
 夜は比較的静かだった。帆が何枚か上げられ、船の速度が非常に速くなった。翌朝夜明けごろに海岸が見え、ジョン・バンスビーはシャンハイまであと百マイルもないだろうと断言した。今日中に百マイル進まなければいけないのだ! まさに今夜、フォッグ氏はシャンハイに着く予定にしていた。ヨコハマ行きの船に乗り遅れたくなかったからだ。だが、嵐によって時間を無駄にしなかったら、一行は目的地まで三十マイル以内の地点にいたはずだったのだ。
 風は明らかに穏やかなものになり、幸運にも海も凪いできた。すべての帆が上げられ、正午にはタンカディア号はシャンハイまで四十五マイルの地点に進んでいた。船上の誰もが時間内にシャンハイに着けなくなることを恐れ、そしてみんな――フィリアス・フォッグは別だった――焦りで心臓がどきどきしていた。船はずっと平均時速九マイルで行かなければならないのに、時が経つにつれて風がなくなってきていた。気まぐれに微風が海岸側から吹いてきて、その後また海が穏やかになった。それでも、タンカディア号は順調に進んでいた。帆は気まぐれな西風をうまく捉え、海流の助けも借りていた。
 六時にはジョン・バンスビーはシャンハイの河口から十マイルと離れてはいないことを見いだした。だが、シャンハイの街は河口よりも少なくとも十二マイル上流に位置しているのだ。
 七時、船はまだシャンハイから三マイル離れていた。船長は怒ってののしった。二百ポンドの報酬が、その手からすり抜けようとしていた。彼はフォッグ氏を見た。フォッグ氏はとても冷静だった。それでも、自身の全財産はまさに危機を迎えていた。
 そのとき、長く黒い煙突――その口からもくもくと煙が出ていた――が水平線上に現れた。定刻にヨコハマへ向けて出発したアメリカ船だった。
 「もうダメだ!」船長は叫び、やけっぱちになって舵を押し戻した。
 「船に信号。」フィリアス・フォッグが静かにいった。
 小さな真鍮《しんちゅう》の大砲が、霧の中で信号を送るためにタンカディア号の前方に据え付けられた。砲口に弾を込め、船長が赤く焼けた石炭を火門に入れようとしたとき、フォッグ氏は「旗を揚げてくれ。」と言った。
 旗は半旗で揚げられた。これは遭難信号を意味していた。アメリカ船がこれを見て、船を助けるためにその針路を変えてくれるだろうと考えたのだ。
 「撃て。」フォッグ氏が言った。大砲の音が大気中に響き渡った。

..第二十二章:パスパルトゥーが、地球の反対側であってもポケットにお金がある方が便利であることを発見すること
 カルナティック号は、十一月七日午後六時半にホンコンを出航し、全速力でニッポンへと向かった。船にはたくさん荷物が積み込まれていて、客室には乗客を満載していた。しかしながら、船尾にある二つの部屋だけは空いていた。フィリアス・フォッグが予約した部屋であった。
 その翌日、酔っぱらったような目をして、乱れた髪のままふらふらと二等船室から現れて、へたり込んでいる乗客がいた。
 それはパスパルトゥーであった。パスパルトゥーの身には以下のことが起こっていた。フィックスがアヘン窟《くつ》を出るとすぐに、二人の従業員が気を失ったパスパルトゥーを持ち上げて、煙を吸う人のために用意されたベッドへ運んだ。三時間後、夢の中でもある固定観念にとりつかれたこのかわいそうな従者は目を覚まし、麻薬による酔いと戦っていた。職務を果たしていないという考えがパスパルトゥーを現実に引き戻し、あわててアヘン窟《くつ》を飛び出した。パスパルトゥーの足はふらつき、壁にもたれてやっと体を保ち、そして崩れ落ち、また立ち上がり、そんな状態ではあったが、ある種の本能に導かれて、こう叫びながら歩き続けた。「カルナティック号! カルナティック号!」
 汽船は波止場に止まっていて、今にも出発しようとしていた。パスパルトゥーはもうそんなに歩く必要はなかった。歩み板にかけより、登り切り、甲板で気を失った。ちょうどそのときカルナティック号が動き出した。船員はこういうことに慣れていたから、かわいそうなフランス人を二等船室に降ろした。パスパルトゥーは寝たままでシナを離れ、百五十マイルほどの距離をそのままで過ごした。
 そういうわけで、翌朝になってパスパルトゥーは、自分がカルナティック号の甲板にいるということを発見したのである。そして熱心に、海に吹く爽快なそよ風を吸いこんだ。きれいな空気で酔いがさめた。
 パスパルトゥーは夕べの記憶をたどっていった。大変な苦労をした後で、夕方ごろの出来事、つまり、フィックスの打ち明け話とアヘン窟《くつ》でのことを思いだした。
 「明らかに、」パスパルトゥーは自分に言い聞かせた。「俺はひどく酔ってしまったな! フォッグ様になんて言おう? まあ、船には乗り遅れなかった。それが一番大事なことだ。」
 それから、フィックスの言ったことを考えた。「あの野郎は追っ払ってしまえただろう。あんなことを持ちかけておいて、カルナティック号にまではついてくることはできまい。フォッグさんを探偵がつけてくる! しかも、イングランド銀行で強盗したなんて! フォッグさんが強盗なら、俺はさしずめ人殺しなんだろうよ!」
 フィックスの話を主人に話すべきだろうか? 探偵がやっていることを主人に言うべきであろうか? それとも、フォッグさんが再びロンドンに入るまで待って、ロンドン警視庁の探偵が、世界一周をしているご主人様の後をつけてきたんですよと打ち明けて、笑い事にした方がいいだろうか? それだけは考えておかねばなるまい。とにかく今は、まずフォッグ様を見つけて、弁解のしようもない不始末をお詫びせねばなるまい。
 パスパルトゥーは起きあがり、汽船がうねりのせいでゆれているのに邪魔されながらも、ようやく船尾にたどり着いた。パスパルトゥーは主人やアウダに似ている人を見つけられなかった。
 「そうだ!」パスパルトゥーはつぶやいた。「アウダさんはまだ起きていないんだ。ご主人様はきっと、ホイストの相手を見つけているに違いない。」
 そこでサロンに降りていった。フォッグ氏はそこにいなかった。こうなるとパスパルトゥーには、パーサーに主人の部屋番号を聞くしかなかった。パーサーは、フォッグという名の乗客は知らないと答えた。
 「くどいようですが、」パスパルトゥーは食い下がった。「その人は背が高い紳士で、落ち着いた、無口な人なんです。若いご婦人を連れているはず―。」
 「若いご婦人のお客様は乗っていません。」パーサーがさえぎった。「ここに乗客名簿があります。ご自分でお調べください。」
 パスパルトゥーは名簿を見ていった。主人の名前はそこにはなかった。そのとき、彼にある考えが浮かんだ。
 「ああ! この船はカルナティック号じゃないんですね?」
 「いや、カルナティック号です。」
 「ヨコハマ行きの?」
 「そうです。」
 一瞬彼は、船を間違えたと思ったのだ。だが、まさしくパスパルトゥーはカルナティック号にいた。では、主人はカルナティック号に乗っていないのだ!
 パスパルトゥーは椅子に身を投げ出した。頭の中が真っ白になった。そして突然思いだした。出航時間が予定より早くなったのだ。自分はそれを主人に言うべきだったのに、言わなかったのだ。そうだ、フォッグ様とアウダさんが汽船に乗りそこねたのは俺の責任だ。確かにそうだ。だが結局は、あいつのせいなんだ。主人をホンコンに引き留めようと、俺を主人から引き離して泥酔させた、あの男のしわざなんだ!
 パスパルトゥーは、ようやく探偵の策略に気がついた。ああ、ご主人様は賭けに負けた。破産してしまったんだ。きっと今ごろは逮捕されて牢にいるに違いないんだ! こう考えて頭をかきむしった。ちくしょう、もしフィックスが手の届くところに来たら、この始末は必ずつけてやる!
 最初の失望から立ち直ると、パスパルトゥーは落ち着きを取り戻し、状況を考え出した。そううまくいっているとは言えなかった。なるほどニッポンへは向かっている。だが、到着したらどうすればいいのだろう? ポケットは空っぽだった。一シリングもなかったのだ。
 幸い、部屋は予約されている。今後どうするかを決めるには五、六日あるわけだ。
 パスパルトゥーはおうせいな食欲で食べた。フォッグ氏やアウダの分まで食べた。まるでニッポンが砂漠であり、何も食べ物を手にいれられないかのごとく食べた。
 十三日の夜明けごろ、カルナティック号はヨコハマに入港した。ヨコハマは太平洋における重要な寄港地で、北米やシナやニッポンや、そのほかの東洋の島々へと移動する旅行者を乗せる船や郵便汽船が立ち寄る港だった。ヨコハマはエドがある湾にあり、エドとはわずかな距離を置いているにすぎない。エドはニッポン帝国の第二の首都で、俗界の皇帝であったタイクンの住居であった。だが、タイクンは、宗教上の皇帝であったミカドに、住居もろとも接収されたのだった。
 カルナティック号は税関そばにある波止場に錨《いかり》を下ろした。そこには、あらゆる国の国旗がひるがえっていた。
 パスパルトゥーは、太陽の国と称される不思議な国に、おっかなびっくり足を踏み入れた。運に任せて歩きまわるほかなかったから、ヨコハマの通りをあてもなくさまよっていた。その目に、完全にヨーロッパ風の地区が飛びこんできた。ここの家は正面があまり高くなく、それぞれにベランダがあって、その下には優雅な柱廊《ちゅうろう》が並んでいた。至る所に街路や広場やドックや倉庫が並ぶこの地区は、「条約岬」から川までの間を占めていた。ホンコンやカルカッタでもそうだったが、ここにもまたあらゆる民族が入り交じっていた。アメリカ人やイギリス人、シナ人やオランダ人などであった。多くの商人が、あらゆるものを売り買いしていた。パスパルトゥーは、自分がまるでホッテントット人の国に独り投げ出されたように感じた。
 パスパルトゥーにも、ひとつ方法がないわけではなかった。ヨコハマにあるイギリス領事館やフランス領事館に行って助けを求めるのだ。だが彼は、今の自分の状態を話したくなかった。自分の身の上を話そうとすると、主人のそれも話さなければならない。彼はそれがいやだった。領事館に行く前に、あらゆる手を尽くすつもりだった。
 ヨーロッパ風の地区では、チャンスは彼に微笑まなかった。パスパルトゥーはニッポン人の街へと入っていった。いざとなったら、エドまで行こうとさえ決心した。ヨコハマのニッポン人街は、当時ベンテンと呼ばれていた。その名は、この近くの島々に祭ってある、海の女神から取られたものだ。そこでパスパルトゥーは、美しいモミや杉の並木、奇妙な構造をした神聖なる門、竹や葦《あし》の中に半分隠れた橋、巨大な杉の木が影を落とす寺などを見た。仏教の僧や儒者たちがひっそりと暮らす家を見た。街路はどこまでも続いており、どこへ行っても真っ赤なほおをした子どもたちが群れていた。その様子はニッポンの屏風から切り取ったみたいだった。子どもたちは、短い足のプードルや黄色がかった猫と楽しそうに遊んでいた。
 往来はどこもごった返していた。僧侶たちが一列に並び、単調な太鼓を鳴らしながら進んでいった。警官と税関職員は、表面がひもで覆われている、先のとがった陣笠をかぶり、脚に二本のサーベルを差していた。兵士たちは、白い縞の入った青い綿布の服を着て、銃を持っていた。ミカドの衛兵は、絹の胴衣の下に鎖かたびらを着込んでいた。その他にもあらゆる階級の軍人たち(軍人という人種は、シナでは軽蔑されているが、ニッポンでは尊敬されているのだ)の集団とか二人組とかが、そこかしこを歩いていた。それから、喜捨《きしゃ》を求める托鉢《たくはつ》僧や、長い衣を着た巡礼や、一般の市民たちにも会った。なめらかな漆黒《しっこく》の髪、大きい頭、寸胴《ずんどう》な体、細く長い足を持っていた。背は低く、顔色は銅のような赤黒い色から死人のような青白いのまで様々だったが、シナ人によくいる黄色い顔はいなかった。この点では、二つの民族は非常に違っている。
 好奇心をそそるような立派な乗り物も見た。馬車、コシ、帆がついた二輪手押し車や竹製のカゴなどのことだ。女性はといえば――パスパルトゥーにはあまりきれいに思えなかった――小さな足でちょこちょこと歩いていた。その足には布製のシューズや藁であんだサンダル、細工がほどこされた木靴をはいていた。きつく見える目、平らな胸、時代の好みで黒く染めた歯がパスパルトゥーの目に飛びこんできた。彼女たちは、寝巻をえり元で交差させ、後ろに目立つ結び目を作って帯で留めていた。現代のパリジェンヌの着こなしは、このニッポン女性の真似をしているようである。
 パスパルトゥーは何時間も、色とりどりの群衆がいる中をさまよい歩いた。高価で珍しいものを扱う店、ニッポン風の趣向を凝らした貴金属を扱うバザール、のぼりや旗で飾り立てた小料理屋なんかを見てまわった。かぐわしい飲み物を飲ませる茶店があった。ここではサキという名の、米を発酵して造る酒も出される。快適な喫煙所もあった。そこで人々がぷかぷか煙を出していた。アヘンを吸っているのではない。ニッポンではアヘンはほとんど知られていないのだ。吸っているのは非常に細かく刻んだタバコなのだ。
 やがて、パスパルトゥーは自分が田んぼの広がる中にいることに気がついた。そこには真っ赤なツバキが咲いていて、あたりに最後の色と香りを振りまいていた。ツバキの花は灌木《かんぼく》というには背が高い木に咲いていた。竹垣の中にはサクラ、ウメ、リンゴなどが植えられていた。ニッポン人は実を採るためではなく、花を見るために、そういった木を植えるのである。これらの木々は、奇妙な形をした、歯を見せて笑っているかかしによって、スズメやハトやカラスやなんかのどん欲な鳥どもから守られていた。杉の木の枝に大きなワシがとまっていた。しだれ柳の葉の中には、アオサギが一本足でまじめな顔をして立っていた。至る所に野生のコガラスやカモやタカなどがいた。それから、たくさんのツルがいた。ニッポン人はツルを、長寿と幸福の象徴としてあがめているのである。
 長い間歩き続けて、パスパルトゥーは灌木《かんぼく》の中にスミレが咲いているのを見つけた。
 「しめた!」彼は声をあげた。「これでメシにありつける。」
 だが、においをかいでみると、なんの匂いもしなかった。
 「ここにはチャンスはないな。」彼は考えた。
 パスパルトゥーは、こうあることを予期して、カルナティック号を去る前に、できるだけの食事をとってきていた。しかし、一日中歩きまわっていたから、腹はすっかり減っていた。さらに彼は、肉屋の陳列台に羊もヤギも豚も見あたらないのを目の当たりにしていた。牛を殺すことはニッポンでは宗教的なタブーであり、牛は耕作用としてのみ飼われていることをパスパルトゥーは知っていた。従って、ヨコハマには肉があまりないのだと結論づけた。肉屋に肉がないのなら、パスパルトゥーは、イノシシや鹿、ヤマウズラなどのウズラ、そういった野生の動物や魚の肉で生きていかなければならなかった。実際、ニッポン人は、米と一緒にもっぱらこういうものを食べて生きているのだ。だが、パスパルトゥーは、敢然と運命に立ちむかう決心を固め、食事は明日まで待ってみることにした。
 夜がやってきた。パスパルトゥーは再び現地の人が住むところに入っていった。いろんな色で照らされた通りをあてもなくさまよった。そこで、踊り子がすばらしい踊りをしているのや、易者が望遠鏡でもって人を集めているのを眺めていた。それから、樹脂を塗ったたいまつを灯りにして漁が行われている港に出た。漁師たちが船に乗って漁をしていた。
 そのうち、通りが静かになった。豪華な制服を着た警官が見回りをしていた。警官は多くの供をひきつれていた。パスパルトゥーには彼らが使節団に見えた。すれ違うたびに、くすくす笑いながらこうつぶやいた。「やあ! また大使がヨーロッパにおでかけだ!」

..第二十三章:パスパルトゥーの鼻がとても長くなること
 翌朝には、パスパルトゥーは飢えと疲れのせいでとても弱り切っていた。何か食べなければ危険だ、それも一刻も早く、と思った。確かに時計を売るという手はあった。だがそうするくらいなら、飢え死にした方がいいと思った。パスパルトゥーはもともと強い――あまりメロディアスとは言えないが――声を持っていた。今こそそれを使わなければならない。
 パスパルトゥーはイギリスやフランスの歌をいくらか知っていた。それを歌ってみようと考えた。
 なにしろニッポン人は音楽の愛好家に違いない、あらゆることをシンバルやタムタムやタンバリンの伴奏にのせてやるんだからな、ヨーロッパの才能を認めないわけにはいかないだろう……。
 だが、独演会を開くには朝が早すぎた。聴衆もこの時間にはまだ寝ているだろうから、芸人に、ミカドの肖像を彫ってあるコインを払おうとはしないだろう。だから何時間か待つことにした。ずっと歩きまわっているうちに、自分の服が、流しの芸人にしてはなりがよすぎることに気づいた。もっと芸人らしい服に着替えることにした。そうすれば、とりあえず飢えを満たせるだけのお金も手に入るな、と思った。後は実行あるのみだった。
 パスパルトゥーはさんざん探し回った末に、ようやく現地の古着屋を発見し、服を交換してくれるよう頼んだ。主人がヨーロッパ風の服を気に入ったので、パスパルトゥーは店を出るころにはニッポンの古い着物を着て、時代がたって色あせた、ターバンのようなものを横っちょにかぶっていた。さらに銀貨がポケットでちゃらちゃら鳴っていた。
 「いいだろう!」パスパルトゥーは考えた。「カーニバルにいると思えばいいさ。」
 このようにして「日本化」したパスパルトゥーは、手始めにこぢんまりとした造りの茶店に入り、鶏を半身とわずかなお米を朝食として食べた。その間も、夕食はどうしようと考え続けていた。
 「今こそ、」丸ごと平らげた後でパスパルトゥーはこう考えた。「冷静にならなきゃいかんぞ。この服を、もっと古い服に替えるわけにはいかないからな。とにかく、この太陽の国から出ていく方法を考えないとな。なにしろ、ここに来てからいい思い出なんて全くないんだからな。」
 パスパルトゥーはアメリカ行きの汽船に行こうと思った。そこでコックや下男になって、運賃と食事代をまけてもらえばいい。サンフランシスコにさえ着けば、そこを出る方法は見つけられる。問題は、ニッポン・アメリカ間に横たわる、四千七百マイルもの太平洋をいかにして旅行するかだ。
 パスパルトゥーはうじうじ考えるたちではなかったから、ドックへと足を向けた。だが、いざ近くに来たら、最初は単純に思えた計画が、次第にたいへんなことのように思えてきた。アメリカ行きの汽船がコックや下男を必要としているだろうか? この格好では自分を信用してもらえないんじゃないだろうか? 何か証明書を出せるというのか? そんなことを考えていると、道化が持っている巨大プラカードに目が留まった。そのプラカードは英語で書かれていた。内容はこうだった。

ニッポンの軽業師
ウィリアム・バタルカー団長
合衆国出発前に最後の公演
長い長い鼻
天狗神の庇護のもとに
ものすごい公演です!

 「アメリカ合衆国か!」パスパルトゥーは言った。「おあつらえ向きだ!」
 パスパルトゥーは道化についていき、再びニッポン人街へと入っていった。十五分後、ある大きい小屋の前で足を止めた。その小屋はたくさんの紙テープで飾られていて、外壁には団員が何人か、派手な色と遠近法を無視した構図で描いてあった。
 これがウィリアム・バタルカー団長の舞台だった。この紳士はバーナムの一人で、軽業師、手品師、道化、曲芸師、綱渡り、体操師などを抱える一座の団長だった。プラカードによれば、合衆国へ行く前に、この太陽の国において最後の公演をするとのことだった。
 パスパルトゥーはバタルカー団長に面会を求めた。氏はみずから出てきた。
 「何が望みだ?」バタルカー氏はパスパルトゥーにこう言った。彼をニッポン人だと思いこんでいたのだ。
 「下男はいりませんか?」パスパルトゥーは尋ねた。
 「下男だと!」バタルカー氏は叫んだ。あごに生えている濃いグレーのあごひげをさわりながらこう告げた。「俺はもう従順で信頼できる下男を二人も持ってるんだ。絶対俺から逃げんし、ただ食べさせればいいんだ――こいつらがそうだ。」それから、コントラバスの弦みたいな太い静脈が浮き出た両腕を出した。
 「では、私でお役に立てることはないとおっしゃいますか?」
 「ないね。」
 「なんてこった! 団長と一緒に太平洋を横断できれば俺には好都合なんですが。」
 「ほう!」バタルカー団長が言った。「お前、俺が猿でないように、ニッポン人じゃないな! なんでそんな服を着てるんだ?」
 「人は自分に着られる服を着るんですよ。」
 「そりゃそうだ。お前フランス人だね?」
 「そうです。パリっ子ですよ。」
 「なら、しかめっ面はできるな?」
 「なぜです?」自分の国籍がなんでこの質問につながるのか、少なからず困惑しながらパスパルトゥーは答えた。「フランス人だってしかめっ面のやり方くらい知ってますよ。まあアメリカ人ほどうまくはないですがね。」
 「よろしい。うーん、下男としては雇えんが、道化として雇おう。いいかね君、フランスでは外国の道化を使うんだろうが、外国ではフランス人が道化になるんだよ。」
 「ほぉ!」
 「君は力持ちかね、え?」
 「腹いっぱい食べたときなどは格別でさぁ。」
 「歌えるのか?」
 「できますよ。」パスパルトゥーは答えた。昔通りで歌っていたことがあったからだ。
 「だが、逆立ちして、左の足の裏でこまを回し、右足にサーベルを立てながら歌えるかね?」
 「できますとも。」若いころそんな芸の練習もしていたことを思いながら、パスパルトゥーは答えた。
 「よし、上出来だ。」ウィリアム・バタルカー団長は言った。
 契約がその場で結ばれた。
 パスパルトゥーはようやく職にありついた。有名なニッポン人一座で芸をすることになったのだ。あまりいい仕事ではなかったが、一週間以内にサンフランシスコへの旅に出られるに違いなかった。
 バタルカー団長によって派手に宣伝された舞台は三時に始まることになっていた。ニッポン式楽団が耳をつんざくような大音響をならすのが聞こえてきた。パスパルトゥーは、芸を練習する時間がなかったので、一座の目玉であり、長鼻の天狗神たちが演じる「人間ピラミッド」を支えるために、その強い肩を貸すことになった。この「すばらしい演目」によって、舞台はフィナーレを飾ることになっていた。
 三時にならないうちから、広い小屋は見物人でごった返していた。ヨーロッパ人、シナ人、ニッポン人の男、女、子どもたち。彼らは狭いベンチや舞台の前の席に、先を争って入っていった。音楽家たちは中に入り、ドラや太鼓や笛、ボーンズ、タンバリン、大太鼓を大音響で鳴らしていた。
 曲芸団のすることは、どこの国でもよく似ているものだ。だが、ニッポン人が世界屈指の軽業師であることは認めなければならない。
 ある者は、扇と紙吹雪で、蝶と花を優雅に表現していた。またある者は、パイプから出る芳《かぐわ》しい煙で空中に青い文字を描き、観客へのあいさつを作っていた。灯りがついたロウソクを持って曲芸をする者もいた。ロウソクが口の前に来ると次々と消していき、曲芸を中断せずにまたつけていった。こま回しはこまを回しながら、他に類を見ない芸をやった。手の中で果てしなく回り続けるこまは、まるで命を持っているように見えた。こまがパイプの胴を走り、刀の切っ先でまわり、舞台に張られた髪の毛みたいなワイヤーまでも渡っていくのだった。そして、大きなお椀のふちをまわり、竹のはしごを横切り、おのおの角に散って、いろんな音色が組み合わさって不思議な音楽を奏でていた。こま回しはさらにこまを空中に投げ、木の羽子板でシャトルみたいに打ち合っていた。それでもこまは回っていたのだ。さらに、ポケットにこまを入れ、再び回った状態のこまを取り出すのだった。
 曲芸師や体操師が繰り出すパフォーマンスがどれだけ驚くべきものかはここに書くまでもないだろう。はしご乗り、棒乗り、玉乗り、樽乗りなどが、すばらしく正確に実行された。
 しかし、主な呼び物は長鼻たちの公演だった。この演目は、ヨーロッパではまだまだ見慣れたものとはなっていない。
 特殊な集団である長鼻衆は、天狗神の直接の庇護を受けている。長鼻衆は中世風に装い、肩に豪華な翼のひとそろいを身につけていた。しかし、特に有名だったのは、その顔に付いている長い鼻であった。その使用法も彼らがつくり出したのだ。その鼻は竹でできていて、長さは五、六フィートだったり十フィートだったりする。まっすぐなのや、曲がったのや、すべすべしたのや、いぼだらけのがあった。長鼻衆は、その鼻を本当の鼻にぴったりくっつけて、体操みたいな演技をするのだった。天狗神の信徒が十二人仰向けに寝ると、長鼻衆が出てきて、避雷針のように見える鼻の上に乗り、鼻から鼻へと飛び移ったり、熟練の技術を要する跳躍やら宙返りやらを演じるのだ。
 最後の演目として、「人間ピラミッド」が用意されていた。これは五十人の長鼻衆が天主の車を作るというものだ。だが、長鼻衆は互いの肩に乗る代わりに、鼻のてっぺんに乗ってピラミッドを作ってしまうのだった。今まで車の基礎を作っていた団員が一座を抜けてしまうという事態が起こり、その穴を埋める必要があったのだが、強く機敏であればよかったから、パスパルトゥーが代用として雇われたのだった。
 パスパルトゥーはとても悲しくなった――なんて哀れな表情だったろう。そんな思いを抱きながら、いろんな色で塗られた翼がついた服に着替え、六フィートの偽鼻を本物の鼻につけた。しかし、この鼻で食べ物にありつけるんだと思うと元気が出てきた。
 パスパルトゥーは舞台に行き、天主の車の基礎に入る者たちの中に入った。全員床に手足を伸ばし、鼻を天井に伸ばした。二段目の組がその鼻に乗った。三段目、四段目とあとに続き、ついに劇場の天井にまで届く高さに達した。これは喝采をあび、オーケストラも耳をつんざくような大音響を響かせた。突然ピラミッドがよろめき、バランスを失った。土台がひとりピラミッドから抜けてしまったのだ。人間ピラミッドはトランプの城みたいに崩れ落ちてしまった!
 その原因はパスパルトゥーだった。自分の場所から離れ、翼の助けも借りずに舞台を飛び越え、右側の座敷までよじ登り、ある見物人の前にひざまずいて叫んでいた。「ああ、ご主人様! ご主人様!」
 「おまえか。」
 「そうでございます。」
 「よし。なら一緒に船に来るんだ。」
 フォッグ氏とアウダとパスパルトゥーは外に通じる劇場のロビーに向かった。そこで、怒り心頭に発したバタルカー団長と出会った。団長はピラミッドの「破壊」に対する弁償を要求した。フィリアス・フォッグは一つかみの札束を渡して団長をなだめた。
 六時半(まさに出発する時刻だった)、フォッグ氏とアウダと、急いでいるあまりまだ翼と六フィートの偽鼻をつけたままのパスパルトゥーは、アメリカ船に乗り込んだ。

..第二十四章:フォッグ氏の一行が太平洋を横断すること
 水先案内船がシャンハイ近くに来たときに何が起こったかはすぐに分かるだろう。タンカディア号が発した信号はヨコハマ行きの船の船長が確認した。半旗があがった船をみて、そちらに進路を向けたのだ。フィリアス・フォッグはジョン・バンスビーに、契約に従って五百五十ポンドを支払った。そして、アウダとフィックスを連れて船に乗り込んだ。そして、一行はすぐにナガサキとヨコハマへ向かったのだ。
 船は十一月十四日の朝にヨコハマに到着した。フィリアス・フォッグはカルナティック号へ行き、フランス人のパスパルトゥーが、間違いなくその前日にヨコハマに到着したことを知った。アウダはとても喜んだ。たぶんフィリアス・フォッグも喜んでいただろうが、表情には出さなかった。
 サンフランシスコ行きの船は今晩出航するとのことだった。パスパルトゥーを、できれば予定の遅れなく捜し出す必要が出てきた。フォッグ氏はイギリス、フランスそれぞれの領事館に行ったが無駄足に終わった。長いこと通りをさまよったあげく、ひょっとしたら従者を見つけられないんじゃないかと思い始めた。偶然か、あるいは虫の知らせといったようなものか、とにかくバタルカー団長の劇場へと入ってみる気になった。確かに、フォッグ氏は奇妙な山師のかっこうをしたパスパルトゥーのことは分からなかった。だが従者のほうは、仰向けに寝ていたから、客席に主人がいるのを見つけたのだった。パスパルトゥーは主人のそばへ行こうとして鼻を動かし、ステージ上の『ピラミッド』をめちゃめちゃにしてしまう結果となったのである。
 パスパルトゥーはアウダから一部始終を聞いた。すなわち、ホンコンからシャンハイまでタンカディア号に乗って航海したこと、その際フィックスという男と連れになったこと、等々である。
 その名前を聞いても、パスパルトゥーは表情を変えなかった。今はまだ、探偵と自分の間での出来事を主人に話すときではないと思ったのだ。そして、自分がいなくなったのは、ホンコンの居酒屋でアヘンの煙に酔ってしまったのですとだけ弁解した。
 フォッグ氏は何も言わず冷ややかに聞いていた。それから、従者に自分の立場に合った服を着せるためのお金を渡した。その一時間後、かのフランス人は鼻を捨て、翼も取ってしまって、天狗神の子分を思わせるものは全くなくなっていた。
 汽船はヨコハマを出航してサンフランシスコに向かうところだった。この船は太平洋郵便会社のもので、グラント将軍号といった。二千五百トンの大きな外輪船で、設備は整い、速力もすごかった。巨大な槓桿《こうかん》が甲板の上で上下していた。その一端にはピストン棒が、他端には連結棒が継ぎ合わされていた。そして、槓桿《こうかん》が直線運動を旋回運動に変え、外輪車の軸に直接作用していた。グラント将軍号には三本のマストがあり、マストに張られた帆から大きい推力を得て、蒸気の力を補っていた。時速十二マイルで航海すれば、船は二十一日で太平洋を横断することになる。それにより、フィリアス・フォッグは十二月二日にサンフランシスコに着く予定になっていた。その後は十二月十一日にニューヨーク、十二月二十日にロンドンとなっていた。それゆえ、十二月二十一日という運命の日付にはまだ数時間の余裕があるのだった。
 乗客は多かった。イギリス人、アメリカ人が多数、それからカリフォルニアに行く途中のクーリーたち。東インド会社の職員たちもいた。彼らは休暇を利用して世界一周をしようとしていた。
 航海中はなにも起こらなかった。汽船は、大きな外輪のおかげでほとんど揺れなかった。太平洋はほとんど名前通りだった。
 フィリアス・フォッグはこれまで同様無口で静かだった。彼の若い連れは、感謝とは違う心から、フォッグ氏をますます慕うようになった。その静かではあるが高邁な精神により、アウダは感謝し、心のおもむくままに我が身を寄せていった。だが、アウダの保護者になんらかの効果を与えはしなかったようであった。さらに、アウダはフォッグ氏の計画に異常な関心を寄せ、旅行を遅らせるようなことが起きないかと気をもむようになっていた。
 アウダはよくパスパルトゥーと話をした。パスパルトゥーもアウダの胸の内が分からないような男ではなかった。今や彼は主人に徹頭徹尾心服していた。フィリアス・フォッグの誠実、寛大、献身、そういうものをほめちぎっていた。パスパルトゥーはアウダに、今度の旅行は成功裏に終わるだろうと何度も繰り返した。最も難しい部分は通りすぎた。今はもう、シナとかニッポンとか、そういう幻想的な地域は通りすぎましたから、後は再び文明化された所を、淡々と進めばいいのです。サンフランシスコ~ニューヨーク間の鉄道と、ニューヨーク~リヴァプール間の汽船を使えば、約束の期間内にこの信じがたい旅行を終わらせることができますから。
 ヨコハマを出発して九日目、フィリアス・フォッグは正確に地球を半周した。グラント将軍号は、十一月二十三日に東経百八十度線を通過したのだ。まさにそのとき、フォッグ氏はロンドンの裏側にいたのである。そのときフォッグ氏は、旅行予定の八十日間のうち、五十二日を費やしていた。残りはもう二十八日しかなかった。しかし、子午線に関しては半分しか通っていなかったけれども、実際には全行程の三分の二を消化していた。というのは、彼は回り道を通る必要があったのだ。ロンドン~アデン~ボンベイ~カルカッタ~シンガポール~ヨコハマと通らなければならなかったのだ。ロンドンから北緯五十度の線に沿って旅行できたら、その距離はおよそ一万二千マイルにすぎなかった。ところが、フォッグ氏はくねくね移動することを余儀なくされたから、二万六千マイル旅行しなければならなかった。そして、十一月二十三日までに、そのうち一万七千五百マイル旅行したのである。残りのコースはまっすぐなものとなっていた。だから、フィックスはもう途中に障害を置くことはできなかった。
 十一月二十三日、パスパルトゥーもまた、あることを見つけてうれしくなった。この頑固な従者が、その有名な家族の時計をロンドン時間に合わせ続けていたことは読者もご記憶であろう。狂ってしまってあてにならないにもかかわらず、パスパルトゥーはロンドン時間を尊重し続けていたのだ。だが、この日、針を動かしていないのに、彼の時計が船のクロノメーターと正確に一致していることを発見したのである。パスパルトゥーはこの勝利を面白がった。もしフィックスが船にいたらなんて言うか聞いてやりたかった。
 「あいつめ、俺にさんざんほら吹きやがって!」パスパルトゥーは何度もそう言った。「子午線がどうとか、太陽や月がなんだとかな! 月がなんだい! 全くばかばかしい! あいつらのいうことを聞いてたら、さぞいい時計ができるだろうな! 俺はいつか太陽が俺の時計に合うことを信じてたんだ!」
 パスパルトゥーは知らなかったが、時計がもしイタリア製の時計みたいに時間を二十四時間で表示していたら、喜ぶことはなかったはずである。つまり、パスパルトゥーの手にある時計は、朝の九時ではなくて、夜の九時を示していたのだ。すなわち、零時から二十一時間目を指していたのである。この差は、ちょうどロンドン時間と東経百八十度の子午線上での時間との差に相当するのだ。だが、もしフィックスが純粋に物理学的なこの効果を説明できたとしても、パスパルトゥーはそのことを、頭で理解できたとしても、決して心から認めないに違いなかった。それどころが、あの探偵がこの時船に乗っていたら、パスパルトゥーは、全く違うテーマについて、全く違う方法で、彼と取り組んだはずだった。
 この時フィックスはどこにいただろう?
 まさにグラント将軍号に乗っていた。
 ヨコハマに到着した後、フォッグ氏と別れた(その日のうちにもう一度会うつもりだった)フィックスは、すぐイギリス領事館へと向かった。そこでついに逮捕状を見つけた。ボンベイからフィックスの後を追い、カルナティック号、つまり、彼自身が乗っていたはずだった汽船でやってきたのだ。その逮捕状がもう使えないことを考えたフィックスの失望は想像に難くない。フォッグ氏は英国領を去ってしまった。従って、今では犯人引き渡しの手続きが必要になっていたのだ!
 「いいだろう。」怒りがおさまった後、フィックスは考えていた。「この令状はここでは役に立たない。だが、イギリスでは有効だ。あいつは明らかに自分の国へ帰ろうとしている。きっと、警察を道中でまいてやったと考えているんだろう。よかろう! 俺は大西洋の向こうまでやつをつけてやろう。ところで、あいつが盗んだ金が、なるべくたくさん残っていればいいがなぁ! しかし、やつも旅費、賞金、訴訟費用、保釈金、象の代金、その他もろもろでもう五千ポンド以上使ってしまった。だが、まぁいい、銀行はお金持ちなんだ!」
 今後の方向を心に決めたフィックスは、フォッグ氏とアウダが到着したときに、グラント将軍号に乗り込んだ。フィックスは仰天した。変なかっこうをしてはいるが、あいつはパスパルトゥーじゃないか! すばやく客室に隠れた。やっかいな説明をしたくなかったからだ。そしてこう願った。乗客は大勢いるんだから、あの従者に気づかれずにすむだろう。
 しかし、まさしくこの十一月二十三日、前甲板でパスパルトゥーとばったり出会ってしまった。パスパルトゥーは何も言わずに突進し、フィックスののどをつかんだ。まわりのアメリカ人が、面白がってすぐ賭けを始めた。拳の連打が探偵を完全にノックアウトし、ボクシングの技術においてフランスがイギリスにおおいに勝っていることを証明した。
 パスパルトゥーは殴るのをやめた。気が晴れ、前よりもかえって落ち着いた気分になった。フィックスは見るも無惨なかっこうで立ち上がり、相手を見ながら、ぶっきらぼうに言った。「これで気がすんだか?」
 「今日のところはね。」
 「少し話をさせてくれ。」
 「だが俺は―。」
 「お前の主人が得することだ。」
 パスパルトゥーは、フィックスが落ち着いているのに影響を受け、静かに彼についていった。二人は他の乗客たちと離れて座った。
 「君は俺を殴った。」フィックスは言った。「まあ、それは予期していた。今度は俺の話を聞いてくれ。今まで俺は、フォッグの邪魔をしていた。今からはあいつの味方になる。」
 「ほう!」パスパルトゥーは叫んだ。「あんたもあの人は紳士だってことを分かってくれたのかい?」
 「違う。」フィックスは冷ややかに答えた。「俺はやつを悪党だと思っている。しぃ! 動くな、話を聞け。フォッグが英国領にいるかぎりは、俺の関心は、逮捕状が届くまであいつを引き留めておくことにあった。俺は引き留めるためにあらゆることをやった。ボンベイの坊主たちをたきつけた。ホンコンで君を眠らせた。フォッグから君を引き離して、ヨコハマ行きの汽船に乗れなくした。」
 パスパルトゥーは拳を握りしめながら、話を聞いていた。
 「だが、」フィックスは続けた。「フォッグは英国に戻ろうとしている。よかろう。俺はそれをつけていくつもりだ。今からは、今までやつの行く手を邪魔したみたいに、障害を全力で取り除くつもりだ。計画を変えたんだよ。なぜなら、それが俺の利益になるからだ。君の利益も俺のと同じだ。なぜなら、英国に着かなきゃ、君が悪党に仕えてるのか紳士に仕えてるのか分からないんだからね。」
 パスパルトゥーはフィックスの話を注意して聞いた。彼はすべて正直に話したものと思った。
 「俺達は友だちだろう?」探偵は尋ねた。
 「友だち? 違う。」パスパルトゥーは答えた。「同盟だ、それならいい。だが、少しでも裏切るそぶりを見せたら、お前の首をひねってやるからな。」
 「分かった。」探偵は穏やかに言った。
 十一日後の十二月三日、グラント将軍号は金門海峡を通ってサンフランシスコに着いた。
 フォッグ氏は一日も得てなかったが、失ってもいなかったのである。

..第二十五章:サンフランシスコの一面をかいま見ること
 朝七時、フォッグ氏とアウダ、それとパスパルトゥーはアメリカ大陸に足を踏み入れた。もちろん、一行が乗った浮き桟橋をそう呼べるならば、であるが。桟橋は潮の満ち引きとともに上下していた。そのため、船からの乗り降りが楽になるのだ。その横に、いろんな大きさの快速船や、あらゆる国籍の汽船が泊まっていた。サクラメント河やその支流を走る二階三階づきの蒸気船もその中にいた。また、メキシコ、チリ、ペルー、ブラジル、ヨーロッパ、アジア、太平洋に浮かぶ島々からやってくる商品が山と積まれていた。
 パスパルトゥーは、ついにアメリカ大陸に入った喜びを、アクロバティックな跳躍で見せようと思った。しかし、甲板に虫食いの板があったために、甲板を踏み抜いてしまった。こんな方法で新大陸に「足を置いた」ために、パスパルトゥーは大声を出してしまった。その声で、浮き桟橋に留まっていた数え切れない数の鵜やペリカンたちをびっくりさせてしまった。叫び声がうるさかったのだろう。
 フォッグ氏は上陸し、ニューヨークに向かう一番早い列車の出発時刻を調べた。そして、その時刻が午後六時であることを突き止めた。従って、フォッグ氏はカリフォルニアで丸一日すごせることとなった。三ドルで馬車を呼び、フォッグ氏とアウダはそれに乗った。パスパルトゥーは御者のそばに座った。そして、インターナショナル・ホテルに向かった。
 パスパルトゥーは馬上から見えるものを、めずらしそうに眺めていた。広い通り、平らに並んだ低い家、アングロサクソン式ゴシック建築の教会、巨大なドック、大邸宅みたいな倉庫(木造だったりレンガ造りだったりする)、往来を走るおびただしい数の乗り合い馬車や列車や自動車などを彼は見ていた。歩道にはアメリカ人やヨーロッパ人だけでなく、シナ人やインド人までが歩いていた。パスパルトゥーはすべてにびっくりしていた。サンフランシスコは千八百四十九年のあの伝説的な都市ではなかった。山賊や暗殺者や放火犯なんかが、ひたすら略奪に明け暮れていたあの『サンフランシスコ』ではなかった。
 市庁舎の高い塔が、街路や通りを上から見渡していた。道は直角に交差していて、そこかしこに緑色の広場が見えていた。遠くに見えるシナ人街は、おもちゃ箱に入れてシナ帝国からそっくりそのまま持ち込んだみたいに見えた。ソンブレロや赤シャツや、羽根をつけたインディアンはめったに見なかった。代わりに、シルクハットやブロックコートを着て、どん欲に動きまわる紳士風の男たちがたくさんいた。通りには、特にモンゴメリー街に顕著だったが、ロンドンならリージェント街、パリならイタリア並木通り、ニューヨークならブロードウェイに匹敵するような、豪華で立派な店が並んでいて、世界中のあらゆる商品が陳列されていた。
 パスパルトゥーはインターナショナル・ホテルに着いたが、英国を離れて旅行しているとはどうしても思えなかった。
 ホテルの一階は大きなバーであった。すべての通行人に解放された、レストランの一種である。干し肉、カキのスープ、ビスケットやチーズが並んでいて、お客は財布なしで食べることができるのだ。エールやボーター、シェリー酒なんかを飲むときだけ、その代金を支払えばよかった。これは「とってもアメリカ的だな。」とパスパルトゥーは感じていた。ホテルの食堂は快適だった。フォッグ氏とアウダが席に着くと、真っ黒な黒人が小さな皿ですべて給仕してくれた。
 朝食後、フォッグ氏はアウダと一緒に、英国領事館に査証をもらいに行った。外へ出たときパスパルトゥーに会った。パスパルトゥーは主人に、列車に乗る前にエンフィールド銃やコルト式自動拳銃を買った方がいいのではないかと聞いてきた。スー族やポーニー族が列車を襲ってくるという話を聞いたのだ。フォッグ氏は、どうでもいい話だとは思ったが、好きなようにしたらいいと従者に答えて、領事館に向かった。
 二百歩も行かないうちに、「全く思いがけなく」フィックスに出会った。探偵は、びっくりしてあっけにとられたみたいだった。なんてこった! フォッグ氏と一緒に太平洋を渡ったのに、船上で会わなかったんだ! それはさておいて、大恩あるあなたと今一度お目にかかれて光栄に思います。仕事でヨーロッパに戻らなきゃならんのですが、すばらしいお仲間とこうして旅行を続けられるなんて、うれしく思いますよ。
 フォッグ氏も、お目にかかれて光栄です、と答えた。探偵は、この男を見失うまいと思っていたから、サンフランシスコご見物ならお供をしたいと頼んだ。フォッグ氏はどうぞと答えた。
 三人はモンゴメリー街に入っていった。そこには多くの人が集まっていた。歩道や車道、馬車や列車、家々のドアや窓、屋根までもが、人であふれていた。
 群衆は大きなポスターについて動いていた。旗やテープを空に突き上げ、あたりかまわず叫び声を響かせていた。
 「カマーフィールドばんざい!」
 「マンディボーイばんざい!」
 これは政治的集会だ。フィックスはそう思った。そしてフォッグ氏に言った。「我々はあの中にいない方がいいでしょう。危険ですから。」
 「そうですね。」フォッグ氏が答えた。「政治がからんでも、げんこつはげんこつですからね。」
 フィックスは、このしゃれに笑みを浮かべた。そして、雑踏に巻き込まれずに見物するために、モンゴメリー街の台地に通じる段々に陣取った。その向こう側、石炭用波止場と石油倉庫の間にある広間に、大きな演壇が作られていて、群衆はそこへ向かっているようだった。ところで、これはなんの集会なんだろう? 何がもとでこんなに人々は興奮しているんだろう? フィリアス・フォッグには想像もつかなかった。知事とか国会議員とか、そういう要職を選んでるんだろうか? それはありえなくもなかった。それくらい群衆は熱心に応援していた。
 ちょうどこの時、群衆の間に異常なざわめきが起こった。すべての手が空にあがった。いくつかの手は固く拳を握りしめ、喚声の中で急速に振り上げられ、またうち下ろされたようだった。明らかに投票しようとする動きだった。群衆は後ろに下がり、旗が揺れ動き、見えなくなったと思ったら、ずたずたになって上がってきた。人波が段々の下まで押し寄せてきた。あらゆる頭が、まるで海が突風で波立つように揺れ動いた。黒い帽子がみるみる減っていき、群衆の位置が低くなったようだった。
 「確かに、なにかの集会ですね。」フィックスが言った。「きっと重大問題でしょう。いったん話がついたはずのアラバマ号事件が、またもめだしたのかもしれませんね。」
 「ありえますね。」フォッグ氏は簡単に答えた。
 「いずれにしても、相反する立場の論者、カマーフィールド氏とマンディボーイ氏がいるんですね。」
 アウダはフォッグ氏の腕にもたれながら、この騒々しい光景を見ていた。フィックスは、近くにいた人に、この騒ぎの原因はなにかと尋ねていた。だが、答えを聞く前に、新たな動きがあった。ばんざいという興奮した声が聞こえてきた。旗を支える棒が攻撃の道具となった。そこかしこで拳が飛んでいた。群衆に囲まれた、馬車や乗り合い馬車の上でも殴り合いが起こった。ブーツやシューズが空に投げられた。フォッグ氏には、喧噪の中にピストルの音も混じっているように思われた。群衆がまた段々に近づき、階段に押し寄せてきた。候補者の一人が劣勢に立っているのだ。だが、単なる見物人には、マンディボーイとカマーフィールドのどちらが勝っているのか分からなかった。
 「引き上げた方がいいでしょう。」フィックスが言った。彼はフォッグ氏に、英国に戻るまではケガしてもらいたくなかった。「もし議題が英国に関するもので、我々が英国人と知れたら、大変な目にあうでしょう。」
 「英国民たるもの―。」フォッグ氏が話し出した。
 話が終わらないうちに、すごい喚声が、三人が立っている階段の上にある高台から起こった。新たな一団が熱狂的に「ばんざい! ばんざい! マンディボーイばんざい!」と叫んでいた。
 それは、味方を助けに来た有権者の集団だった。彼らは側面からカマーフィールド派を攻撃しに来たのだ。フォッグ氏、アウダ、フィックスは、二方向から火の手に巻き込まれたのだ。もう逃げられなかった。杖や棒を備えた群衆の奔流には抵抗すべくもなかった。フィリアス・フォッグとフィックスとは、若い婦人を守ろうとしてもみくちゃにされた。フィリアス・フォッグはこんな時にも冷静だった。すべての英国人の腕先に自然が与えたもうた武器、つまり拳でもって身を守ろうとしたが、無駄に終わった。
 赤いあごひげをたくわえ、赤ら顔で幅広な肩を持った、屈強な男がフォッグ氏に襲いかかってきた。集団のボスよろしく、フォッグ氏に握り拳を向けてきた。フォッグ氏があわや打ちのめされるかに見えたが、フィックスが前に飛び出し、代わりに拳を受けた。探偵のシルクハットはぺしゃんこになり、その下にこぶがふくれあがった。
 「ヤンキーめ!」軽蔑をこめてフォッグ氏は相手に叫んだ。
 「英国人め!」相手が言い返した。「いつでもやってやる!」
 「いつでもお好きなように。」
 「なんて名前だ?」
 「フィリアス・フォッグ、あなたは?」
 「スタンプ・プロクター大佐だ。」
 そこで一団は引き上げていった。フィックスがその場に倒れていたが、すぐに立ち上がった。その服はぼろぼろだった。幸い、フィックスは大したケガもなかった。だが、旅行用の外套は完全に引き裂かれていた。ズボンはまるで、インディアンがするような、裾をまくり上げて穿《は》く、あの半ズボンそっくりだった。アウダは無事だった。フィックスだけが、青々としたたんこぶを受けていた。
 「ありがとう。」群衆の外に抜けだすやいなや、フォッグ氏は探偵に言った。
 「とんでもないです。」フィックスは返した。「では行きましょうか。」
 「どこへです。」
 「既製服店にです。」
 まさしく時宜《じぎ》にかなった提案だった。二人とも服がずたずただった。まるで、片やカマーフィールド氏の、片やマンディボーイ氏のために殴り合ったみたいだった。一時間後、二人は服装を整えて、アウダと一緒にインターナショナル・ホテルに戻った。
 パスパルトゥーは主人の帰りを待っていた。六連発の拳銃を六個持っていた。フィックスを見て眉をつり上げた。だが、アウダが簡単に、三人の身にふりかかった災難を話すと、パスパルトゥーの顔は晴れやかになった。フィックスはもう敵ではなく、明らかに味方だった。彼は自分の言葉に従ったのだ。
 夕食後、乗客と荷物を駅に運ぶための馬車が、ドアの前に着いた。乗り込むとき、フォッグ氏がフィックスに言った。「あれからプロクター大佐を見ましたか。」
 「見てません。」
 「いつかアメリカに来て、彼を捜します。」フィリアス・フォッグは静かに言った。「英国人として、報復しないではいられませんから。」
 探偵は無言で微笑んだ。間違いなく、フォッグ氏も英国人だった。つまり、自分の国では決闘しないが、海外では名誉を守るために決闘を申し込む人種なのだ。
 五時四十五分、一行は駅に着き、まもなく発車しようとする列車を見つけた。列車に乗り込むときに、フォッグ氏は駅員を呼んで、こう尋ねた。
 「ねえ君、今日サンフランシスコでなにか事件があったのかい。」
 「政治集会がありました。」駅員が答えた。
 「だが、すごく騒がしかったように思うが。」
 「選挙のために人が集められただけでございます。」
 「さぞかし重要な選挙だったんだろうね。」フォッグ氏は尋ねた。
 「いいえ、治安判事の選挙でございます。」
 フィリアス・フォッグは列車に乗った。列車は全速力で走り出した。

..第二十六章:フィリアス・フォッグの一行が大陸横断鉄道で旅行すること
 「大洋から大洋へ。」とアメリカ人は言う。この言葉は、アメリカ合衆国の幅広な部分を横断する「大幹線」の一般的な呼び名である。しかし、パシフィック鉄道は本当は二本の異なる路線からなるのである。サンフランシスコ~オグデン間のセントラル・パシフィックと、オグデン~オマハ間のユニオン・パシフィックのことだ。オマハとニューヨーク間には、主要な路線が五本存在するのだ。
 ニューヨーク~サンフランシスコ間は、このようにして鉄道が頻繁に走るようになっている。その総延長は三千七百八十六マイルを下らない。オマハと太平洋岸の間は、まだインディアンや野生動物が出没する領域であり、モルモン教の一大拠点でもある。千八百四十五年にイリノイ州を追放されたモルモン教徒は、ここに移住しつつあるのだ。
 昔はニューヨークからサンフランシスコに行くのに、特別調子よく進んでも、六ヶ月を要した。今では七日間で旅行できるのだ。千八百六十二年、もっと南に通してほしいという南部出身議員の意見にもかかわらず、北緯四十一度線と四十二度線の間に線路を敷くことが決定した。リンカーン大統領は、ネブラスカ州オマハを新線路網の起点とした。ただちに工事が始まり、アメリカ流の熱意でもって遂行された。工事は異常なスピードで進んだが、だからといって良質な線路が敷かれない、ということはなかった。線路は一日に一マイル半もプレーリーを進んでいった。機関車は、前日造った線路を走って、明日敷くレールを運んだ。こうして、次々にレールが敷かれていった。
 パシフィック鉄道からは、アイオワ、カンザス、コロラド、オレゴン行きの支線が出ている。本線はオマハを出ると、プラット河の左岸を北方向に走って連絡駅に行き、そこからまた南へ走っていく。その線はララミー地方とウィサッチ山脈とを横切り、グレートソルトレークをまわり、モルモン教の拠点であるソルトレークシティに着く。さらにチェイラ渓谷に入り、アメリカ砂漠、シーダー山地、ハンボルト山脈、シエラネバダ山脈を渡って、サクラメントを経て太平洋岸に下る。ロッキー山脈を越えるときでも線路の勾配は一マイル平均百十二フィート未満である。
 上に挙げた経路を列車は七日で走破する。従って、フィリアス・フォッグは、十一日にリヴァプールに向けて出航する大西洋汽船に乗れるという希望が持てるのである。
 フォッグ氏が乗った客車には車輪が八つ付いていた。その内部は区画ごとには仕切られていなかった。座席は進行方向に対して垂直に設けられていて、列車の両側に、前から後ろまで取り付けられていた。席と席の間には通路があった。乗客はその通路を通って、列車の端から端まで行けるのだ。サロン車、展望車、食堂車、喫茶車が列車につながれていた。劇場車はなかったが、いつか取り付けられるに違いなかった。本や新聞の売り子、飲食物や葉巻の車内販売がたえず列車を回っていた。けっこう売れていたようだった。
 列車は午後六時にオークランドを出発した。すでに外は暗く、寒い夜だった。空は雲におおわれ、雪が降ってきそうだった。列車はあまり速くは走らなかったが、停車時間を考えると、時速二十マイルくらいで走っていた。それでも、予定通りにオマハに着くには十分な速度だった。
 客室内での会話はほとんどなかった。発車後すぐに乗客は眠りについた。パスパルトゥーは探偵のそばに座っていたが、話しかけなかった。この間の事件以来、二人の関係は目に見えて悪くなっていた。共感とか親密感とかは感じられなかった。フィックスの方は以前と同じだった。だがパスパルトゥーの方が注意深くなっていて、ちょっとでも変な動きをしたら首をしめてやろうと身構えていた。
 発車して一時間後、雪が降り出したが、幸いにも、列車を遅らせるようなものではなかった。窓の外は白一色で、ただ機関車が吐く灰色の煙がたなびいているだけだった。
 午後八時、ボーイがやってきて就寝時間になったと触れ回った。数分後、客車は寝台車に早変わりした。背もたれが後ろに倒され、きちんとおおいをかけられた簡易ベッドが巧みに広げられ、いつでも寝られるようになった。乗客は自分専用の快適な寝台に入り、詮索好きな目をさけるために厚手のカーテンをしいた。シーツは白く、枕は柔らかかった。後はベッドで寝るだけだった。列車はその間も、カリフォルニア州を疾走していた。
 サンフランシスコ~サクラメント間はだいたい平坦だった。セントラル・パシフィックは、サクラメントを起点として、オマハから敷かれてくる路線に出会うまで延びていった。サンフランシスコからサクラメントまでは、列車はサンパブロ湾に注ぐアメリカ川に沿って、北東に走っていた。その間百二十マイルを六時間で走破した。真夜中ごろ、乗客がぐっすりと寝ている間に、列車はサクラメントを通りすぎた。そのため、州都たるサクラメントにある、立派な波止場も広い街路もすばらしいホテルも、公園も教会も、なにひとつ見えなかった。
 列車はサクラメントを出て、ローチン、オーバーン、コルファックスの各駅を経て、シエラネバダ山脈に分け入った。シスコ駅を通過したのは午前七時であった。その一時間後、寝台車はまた客車になった。乗客たちは窓ガラス越しに、この山国の美しい風景を次々に見ることができた。線路は地形にさからわずに敷かれていたから、山腹を走ったり、断崖の上を走ったり、急カーブでもって鋭い突端を避けたり、出口もないような狭いところを通過したりと忙しかった。機関車は、大きなヘッドライトから不思議な光を投げかけ、鋭い汽笛と拍車のように突き出た排障器の咆哮《ほうこう》とを渓流や滝の音とともに響かせ、巨大な松の木に煙をからませていた。
 この路線には橋やトンネルがほとんどなかった。列車は自然にさからわずに山をぐるっと回り込み、最短距離である直線コースを取るようなことはなかった。
 列車は九時頃にカーソン川を渡ってネバダ州に入り、相変わらず北東に進んでいた。正午にリノに着き、そこで二十分の朝食時間を取った。
 リノを出て、ハンボルト川の土手に沿って北に何マイルか走った。それから東に転じて川のすぐふちを渡り、やがてハンボルト山脈に達した。その場所はネバダ州の東端のすぐそばであった。
 朝食後、フォッグ氏とその連れは再び客車に戻り、窓の外を流れていく景色を眺めていた。どこまでも続く広い草原、地平線にそびえる山々、水が渦をまいている急流また急流。ときどき外にバッファローの大群が見えた。さながら移動するダムという感じだった。これら無数の獣たちが、よく列車の運行を妨げていた。何千頭ものバッファローが、隊列を組んで何時間も線路を横切ることがあるのだ。そうなると、機関車は停止をよぎなくされ、線路が空くまで待たなければならないのだ。
 事実以下のようなことが起こった。十二時頃、一万から一万二千頭ものバッファローの大群が線路をふさいでいた。機関車は速度をゆるめ、排障器でバッファローをどけようとした。しかし、数が多すぎた。バッファローはゆっくり歩きながら、ときどき恐ろしい吠え声を挙げた。この移動は誰にも止められなかった。バッファローがある方向に歩き出せば、誰にも進路を阻んだり、変えたりなどできなかった。まさに、どんな堤防でも防げない、生きた肉の流れであった。
 乗客たちは、おのおのデッキに立って、この珍しい光景を眺めていた。だがフィリアス・フォッグは、もっとも急いでいるのは彼だったけれども、席に座っていた。バッファローが線路を渡りきるのを落ち着き払って待っていた。
 パスパルトゥーは列車の遅れにおおいに憤慨した。バッファローにピストルの弾を浴びせたくてたまらなかった。
 「なんて国だ!」パスパルトゥーは叫んだ。「牛ごときで列車が止まるなんて! しかも奴らは隊列を組んでゆうゆうと歩いてやがる。列車なんか知らないよ、ってかんじだ……。まったく、フォッグ様は、こんなことまで考えて計画を立てたんだろうか! 機関士のやつ、こいつらに機関車をつっこませないなんて、どういう訳なんだ!」
 機関士は邪魔物を排除しようとはしなかった。これは賢明な行動だった。排障器で何頭かどけることはできただろう。だが、機関車がどれだけ力持ちでも、やがて脱線し、どうにもならなくなるに違いなかった。
 結局、線路が空くまで待って、それから遅れた時間を取り戻すために速度を上げるしかなかった。バッファローの行進は三時間たっても終わらなかった。夜になってもまだ続いていた。先頭が南に見える地平線上に消えてはいたが、終わりの方はまだ線路を渡りきってはいなかった。
 午後八時、列車はハンボルト山脈の隘路《あいろ》を抜けた。九時半に、ユタ州にはいった。そこは、グレートソルトレークとモルモン教の根拠地が存在する州である。

..パスパルトゥーが時速20マイルの速度でモルモン教の講義を受けること
第27章:パスパルトゥーが時速20マイルの速度でモルモン教の講義を受けること

 12月5日、列車は夜の間におよそ50マイル南東に走った。それから北東に同じくらい走り、グレートソルトレークに向かっていった。
 朝9時頃、パスパルトゥーは外気にあたろうと駅のプラットホームに出てきた。外は寒く、空一面に灰色の雲が広がっていたが、雪は降っていなかった。太陽の円が霧のせいで大きく見えた。まるで大きい金貨のようだった。パスパルトゥーは、それがいったい何ポンドになるのか夢想していた。そのとき、変な服を着た人がホームにいるのに気づき、我に返った。
 エルコ駅から乗ってきた男だった。背が高く、色黒で、黒い口ひげ、黒い靴下、黒いシルクハット、黒いチョッキにズボン、白いネクタイ、犬革の手袋―一見牧師ふうだった。男は列車の端から端までまわり、手書きのビラをドアにつけていた。
 パスパルトゥーはビラに近づき、読んでみた。そこには、こう書いてあった。

 モルモン教宣教師であるウィリアム・ヒッチ師が、本日48号列車に乗り合わせるを機会に、117号車において、午前11時より12時まで、モルモン教の講義を行う。『末日聖徒教会』の秘儀を学ばんとする諸君は、よろしく来聴されたし。

 「よし、行こう。」パスパルトゥーはつぶやいた。モルモン教については全く知らなかった。ただ、モルモン教徒の社会は一夫多妻の習慣を根底としている、と聞いたことがあるくらいだった。
 このことは列車中に広まった。列車に乗っていたおよそ100人のうち、30人足らずが、講義を聴こうと117号車に集まった。パスパルトゥーは前の席に座った。フォッグ氏とフィックスは出席していなかった。
 定刻になり、長老ウィリアム・ヒッチ師は立ち上がった。のっけから、喧嘩腰な口調でこう叫んだ。「予は諸君に告げる。ジョー・スミスは殉教者であり、その兄弟のハイラムも殉教者である。彼ら預言者に対し、合衆国政府は迫害でもって答えた。やがてはブリカム・ヤングも殉教者になるに違いないのだ。それに対し、だれが反抗するであろうか?」
 誰も宣教師に反抗しなかった。あんな穏和な顔つきから、このような激しい言葉が出てくることが奇妙に思われた。その怒りは、モルモン教が直面している困難に向けられたものに間違いなかった。合衆国政府は、かねてから独立を主張していたモルモン教徒を、苦しみながらもようやく服従させることに成功していたところだった。反乱と重婚の罪でもってブリカム・ヤングを告発し、ユタ州を合衆国政府の統治下に置いた。預言者の弟子たちは前にもまして反発し、もっぱら言論でもって、議会の主張に反論しているところだった。長老ピッチ師は、そのさまを見て、列車に乗り込んで信者を増やそうとしていたのだ。
 ヒッチ師は、大げさに身ぶり手ぶりを加えつつ、聖書が書かれた時代からのモルモン教の歴史を大声で話しだした。いかにしてイスラエルで、ヨセフと同じ部族であったモルモン教の預言者が新しい宗教の記録を著し、息子であるモロムに伝えたか。いかにして後代、そのエジプト文字で書かれた高貴な書物が、バーモント州の農夫より1825年に神秘的な預言者に生まれ変わった、ジョセフ・スミス・ジュニアーによって翻訳されたか。いかにして、ついに天使が光り輝く森の中で彼の前に姿を現し、神の記録を授けたか。そんなことを滔々と話していった。
 この時何人かが、宣教師の話に退屈して客車を出ていった。しかしヒッチ師は講義を続けた。いかにしてスミス・ジュニアーが、その父、兄弟2人、そして弟子数人と「末日聖徒教会」を設立するに至ったか。いかにしてこの宗教が、アメリカだけでなく英国、ノルウェー、スウェーデン、ドイツにまで布教され、自由業者や労働者の間に多くの信者を獲得したか。いかにしてオハイオ州にコロニーが建設され、20万ドルもの費用をかけて教会が建てられ、カークランドに町ができていったか。いかにしてスミスが大胆不敵な銀行家になり、卑賤なるミイラの見せ物師から、アブラハム他高名なエジプト人たちによって書かれたパピルスの巻物を手にいれたか。そんなことを滔々と話していった。
 長老の話は退屈なものだったから、聴衆はしだいに減り、20人を切った。しかし、長老はひるまず、さらに講義を続けた。いかにしてジョセフ・スミス銀行が1837年に破産し、道連れになった債権者たちがスミスの体にタールを塗って羽毛の中を転がしたか。その数年後、いかにしてスミスが再び姿を現し、以前に勝る尊敬と名誉を手にし、ミズーリ州インディペンデンスにおいて、3000人もの信徒を擁するコロニーの長となったか。いかにして異教徒どもの怒りを買い、合衆国西部へ逃亡するに至ったか。
 まだ10人ほど聴衆がいた。その中には律儀者のパスパルトゥーもいて、熱心に耳を傾けていた。そうして彼は、長い迫害を経て、スミスがイリノイ州に舞い戻り、1839年にミシシッピイ河畔にあるノーブーに集落を作り、人口2万5千を数える街の行政、裁判、軍事の長を兼ねたこと、1843年に合衆国の大統領選挙に立候補し、最後にカーセジにおびき出されて投獄され、覆面集団によって暗殺されたことを知った。
 そのとき車中にはパスパルトゥー1人だった。長老は彼の顔をじっと見つめ、その弁舌で魅惑しようと話を続けた。曰く、ジョセフ・スミスの暗殺から2年後、啓示を受けた預言者ブリカム・ヤングはスミスの跡を継ぎ、ノーブーからグレートソルトレークのそばに移住した。そこは肥沃な土地の真ん中にあたり、ユタ州から、新しい植民地であるカリフォルニアへ行く道の途中に位置していた。この町は、モルモン教が広めた一夫多妻制のおかげで、予想以上の発展を示したのだ。
 「そしてこのことが、」長老ウィリアム・ヒッチは語った。「合衆国政府の嫉妬を招き、我々を弾圧するに至ったのだ! なぜ合衆国の兵士がユタ州を襲ったのか? なぜ我らの長たるブリカム・ヤングが、あらゆる法に反して捕らえられたのか? 我々はこの暴力に屈すべきか? 否! 断じて否! バーモントを追われ、イリノイを追われ、オハイオを追われ、ミズーリを追われ、ユタを追われた我らは、いつの日か再び自由の地を求めて、そこに我らのテントをうち立てるのだ。」
 「ところで貴殿も、」長老は、唯一の聴衆に指すような目線を向け、こう言った。「いつの日か、我らの旗のもとに貴殿の旗をかかげるのであろうな。」
 「いいえ。」勇敢にもパスパルトゥーはこう答え、客車からすたこら逃げだした。長老は空気に向けて説教を続けていた。
 講義が行われている間も、列車は順調に走っていた。12時半には、列車はグレートソルトレークの北端に達していた。ここで乗客は、この内海がいかに大きいかを思い知らされた。ここは死海とも呼ばれていて、さらにはアメリカのヨルダン川も流れ込んでいる。美しい湖であり、その周囲はすべて非常に高い断崖―表面は白い塩でおおわれている―で囲まれていた。湖の表面は、かつてはもっと広かったが、時の流れとともに湖岸がしだいに高まってきて、湖面は狭くなる一方で、だんだん深い湖となっていったのだ。
 ソルトレークは、長さ70マイル、幅35マイル、海抜3800フィートに位置する。海面下1200フィートにある死海とは異なり、大量の塩分を含んでいる。湖水の重量の4分の1は固体の塩であり、蒸留水との比率は1000対1170である。もちろん魚はこんなところでは生きていられず、ヨルダン川やウェーバー川や他の川から魚が流れ込んできても、すぐ死んでしまう。
 湖水を取り巻く平野はよく耕されている。モルモン教徒の多くが農夫だからだ。夏には家畜のための牧場や囲い、小麦やコーンや他の穀類を作るための畑、よく整った草原、野ばらの生け垣や、アカシアとかタカトウダイの茂みなんかがこのあたりに広がるのだ。
 列車は2時にオグデンに着いた。そこで6時まで停車することになっていた。フォッグ氏たちは、この時間を利用してソルトレークシティを訪ねることにした。ここからソルトレークシティ行きの支線が出ているのだ。一行は、このすばらしくアメリカ的な街に2時間滞在した。合衆国にある他の町でもそうなのだが、この町もチェスボードのような碁盤目状に作られていて、「直線の悲しみ漂う町」とヴィクトル・ユゴーによって語られている。この聖者たちの町を建設するときにも、アングロサクソン民族特有の特質である左右対称愛好心を発揮してしまったのだ。この奇妙な国では、人々が制度の発達についていけず、あらゆることを「四角四面に」実行してしまうのだ。町や家はもとより、人間の愚行までもが「四角四面に」行われてしまうのである。
 3時頃、一行は町の通りをぶらぶら歩いていた。ソルトレークシティは、ヨルダン川の岸とウォサッチ山脈との間に位置している。ここには教会はほとんどなくて、代わりに預言者の館や裁判所や兵器庫が目についた。ベランダや玄関が付いた、青みがかったレンガ造りの家々のまわりには、おのおのアカシヤとかヤシとかイナゴマメとかで区切られた庭があった。1853年に建てられた、粘土と小石とでできた壁がぐるりと町を取り囲んでいた。主な通りには市場や別館付きホテルがあった。
 見たところ、この町にはあまり人が住んでいないようだった。通りは寂れていたが、礼拝堂の付近にはけっこう人がいた。礼拝堂に行くには、柵に囲まれた区域をいくつも抜ける必要があった。礼拝堂には女性の姿が目立った。このことはモルモン教徒特有の家族制度からすれば普通のことである。だが、モルモン教徒がみんな一夫多妻制に従っていると見なすのは早計だった。彼らは結婚しようとしまいと、好きなようにすればよかった。ただ、ユタ州の女性たちがおおむね結婚したがっているのは事実である。というのも、モルモン教の教えでは、未婚女性には至福の時はおとずれないのである。未婚女性たちは貧しくて不幸な感じに見えた。金持ちそうな女たちは、前の開いた黒い絹のドレスを着て、上品なフードやショールを身につけていた。他の女たちはインド式の服を着ていた。
 パスパルトゥーは、モルモンの女たちを見ていて、ある種の恐怖を覚えずにはいられなかった。彼女たちは、数人がかりで1人のモルモン教の男を幸せにしようとしている。パスパルトゥー的な考えでは、男たちはかわいそうな存在だった。男は同時に多くの妻たちをひきつれて人生の荒波を乗りこえ、みんなでモルモン教の天国に行かなければならない。行ったら行ったで、聖なるスミスの住む国において彼女たちと落ち合い、永遠に彼女たちと暮らさなければならない。俺の性には合わない、とパスパルトゥーは思った。そして、これは彼の思い違いであろうが、ソルトレークシティの女たちは、彼にうさんくさそうな視線を投げているように思えた。幸いにも、ここには長いこといられなかった。4時に一行は駅に戻り、列車に乗った。発車の合図を知らせる笛が鳴った。ところが、機関車が車輪を動かそうとした瞬間、「待ってくれ! 待ってくれ!」という叫び声が聞こえた。
 列車はもう動き出したのだから止まるわけがなかった。叫んだのは明らかにモルモン教徒であった。息を切らしながら駆けてきた。彼にとっては幸いに、駅には門も柵もなかった。線路の上を走り、列車の後ろの踊り場に飛び乗って、疲れ切った表情で席に座った。
 パスパルトゥーはこのにわか選手を心配そうに見ていたが、彼の話を聞こうと近づいていった。男は、家庭内のいざこざに嫌気がさして逃げてきたんだ、と言った。
 モルモン教徒の息がおさまるのを待って、パスパルトゥーは、いったいあなたは何人の妻をお持ちだったのですか、と穏やかに尋ねた。男が逃げてきたときの様子から、20人くらいいたんじゃないか、と考えていた。
 「1人ですよ。」そう言って男は両腕を差し上げた。「1人でたくさんですよ!」

..パスパルトゥーが道理を通すことに失敗すること
第28章:パスパルトゥーが道理を通すことに失敗すること

 列車はオグデン駅とグレートソルトレークとを後にして1時間北へ走り、ウェーバー川に達した。サンフランシスコからここまで約900マイル走ったことになる。ここから列車は、起伏の激しいウォサッチ山脈を東方向に抜けていった。
 この地域、すなわちウォサッチ山脈とロッキー山脈の間の区間は、アメリカの技術者が鉄道を敷くのにもっとも苦労したところであった。そのため、合衆国政府は1マイルごとに48000ドルもの補助金を出した。平地に鉄道を敷くときに1マイルあたり16000ドル支出したのに比べて増額されたのだ。それでも、技術者は自然にさからわず、難所を迂回《うかい》しながら鉄道を敷いていった。この区間には1本しかトンネルがなかった。その長さは14000フィート。大盆地に至るために掘られたものである。
 線路の標高が最も高いところは、グレートソルトレークであった。ここから線路は長いカーブを描いて、ビター・クリークの渓谷へと下っていき、また上昇して、大西洋と太平洋との分水嶺に向かった。この山岳地帯には多くの小川があった。マッティー川やグリーン川などを小さな橋で渡らなければならなかった。
 パスパルトゥーは進むほどにいらいらしてきた。フィックスもこの難所を抜けたいと思っていた。フィリアス・フォッグ当人よりも遅れや事故を恐れていた。一刻も早く英国の土を踏みたいと考えていた。
 午後10時、列車はフォード・ブリッジャー駅に20分だけ停まった。その後ワイオミング州にはいり、それからはずっとビッター川の渓谷に沿っていった。翌12月7日、グリーク川駅に15分停車した。夜の間かなり雪が降っていたが、雨交じりの淡雪だったから、列車の進行には影響はなかった。だが、天気がずっと良くなかったのでパスパルトゥーは心配していた。雪が積もって車輪が動かなくなれば、フォッグ氏の旅行は必ず失敗に終わるからだ。
 「なんでこんな時に!」パスパルトゥーは心の中で言っていた。「なんでご主人様はこんな冬に旅行をするんだろう?もっといい季節だったら、勝ち目もあったのになぁ。」
 この律儀なフランス人が天候とか寒さばかり気にしているとき、アウダは全く違った理由で恐怖を感じていた。
 乗客が数人ばかり、グリーク川駅のプラットホームを歩きまわっていた。アウダはその中にスタンプ・プロクター大佐の姿を認めた。彼こそ、サンフランシスコの集会でフィリアス・フォッグに乱暴を働いた当人であった。彼に見つかりたくなかったので、若い婦人は窓から身を引いたが、胸の中は恐怖でいっぱいだった。
 アウダはフィリアス・フォッグを愛するようになっていた。外見は冷たいが、自分のことをあんなに気にかけてくれて常々ありがたく思っていた。彼女自身気が付いていなかったが、命の恩人が彼女の心にもたらした感情はとても深いものがあった。アウダはそれを感謝の気持ちだと思っていた。しかし、彼女も知らないうちに、それ以上のものになっていた。今やアウダの胸はしめつけられる思いだった。アウダには、フォッグ氏がいずれあの男に対して決闘を申し込むだろうことが分かっていた。もちろん、プロクター大佐がこの列車に乗り込んだのは単なる偶然である。しかし、あの男はこの列車にいるのだ。どんなことをしてでもフィリアス・フォッグに男の存在を見せないようにする必要があった。
 フォッグ氏がうとうとしているすきに、アウダはフィックスとパスパルトゥーとに事情を説明した。
 「あのプロクターが列車にいるんですって!」フィックスは言った。「ご安心ください、奥様。フォッグさんより私のほうが先です。私のほうが強く侮辱されたんですからね。」
 「いや、私が。」パスパルトゥーが言い足した。「大佐でも何でも引き受けてやりますよ。」
 「フィックスさん。」アウダは話しだした。「フォッグさんは、他の人に自分の借りを返してもらうようなお人ではありません。あの人は、もう一度アメリカに行って、あの乱暴者を捜し出す、と言いました。ですから、あの人がプロクター大佐を見つけたら大変なことになりますわ。絶対に大佐に会わせないようにしなくちゃいけません。」
 「おっしゃるとおりです、奥様。」フィックスが答えた。「会ってしまったら万事休すです。勝っても負けても、フォッグさんは遅れてしまいます。そして……。」
 「そうです。」パスパルトゥーが口を挟んだ。「リフォーム・クラブの紳士方と賭をしているんです。あと4日でニューヨークに着きます。ご主人様が、客車から4日間出ていかなければ、あのいまいましいアメリカ人と顔を合わせずに住むかも知れません。できる限り、ご主人様をここから出さないようにしなければ。」
 会話はそこで途切れた。フォッグ氏が目を覚まし、窓の外を見始めたからだ。その後パスパルトゥーは、主人にもアウダにも聞こえないよう、小声で探偵にささやいた。「本当にご主人様のかわりに戦うつもりか?」
 「そうするつもりだ。」フィックスは断固たる口調で答えた。「あいつを生きたままヨーロッパに帰すためにな!」
 パスパルトゥーの体に戦慄《せんりつ》が走った。だが、主人に対する信頼はいささかも揺るがなかった。
 さて、フォッグ氏を客車に引き留め、大佐と会わせないようにする方法はあるのだろうか。そう難しいことではなかった。なにしろこの紳士は座り続けるのを何とも思わないのだ。結局探偵はうまくいきそうな方法を見つけた。例の会話のあとしばらくして、やおらフォッグ氏に話しかけた。「長いこと列車に乗ってると、退屈でしょうがないですねぇ。」
 「そうですね。」フォッグ氏が答えた。「ですが、結局時は過ぎていきます。」
 「たしか汽船では、ずっとホイストをなさってましたね。」フィックスは続けた。
 「そうです。ですが、ここではできないでしょうね。カードも相手もありませんから。」
 「あぁ、カードなどすぐ買えますよ。アメリカの列車にはなんだって売ってます。相手は、そうですねぇ、たとえば奥様―。」
 「できますわ。」アウダが勢い込んで答えた。「私もホイストは知ってます。英国人として当然のたしなみでございますから。」
 「私もホイストの腕にはいささか自身があります。では、我々3人と、あと1人はダミーと言うことで―。」
 「いいでしょう。」フォッグ氏は答えた。さすがに、この列車で大好きなゲームができるのでうきうきしていた。
 パスパルトゥーはボーイを探しにやられた。まもなくトランプを2組と、得点表、数取り、布で覆われた板を持って帰ってきた。
 ゲームが始まった。アウダはホイストに熟達していて、フォッグ氏もそのやり方をうまいねとほめていた。探偵もまた名手だったから、仇敵との間で好勝負を演じていた。
 「これでいい。」パスパルトゥーは考えた。「ご主人様はどこへも行かないに違いない。」
 午前11時、列車は両大洋の分水嶺に達した。そこはブリッジャー・パスと呼ばれていて、海抜7524フィート、ロッキー山脈を越える線路の中でもかなり高いところを走っている場所である。そこから200マイルほど走り、乗客はついにとある大平原の上に出た。この大平原は大西洋まで続いていたから、その上に鉄道を敷くのはとても楽な仕事であった。
 大西洋側の盆地に向かって、列車は斜面を下っていった。そこにはすでに北プラット川の支流、もしくは、そのまた支流があった。地平線の北方向から東方向にかけて、ロッキー山脈が巨大な半円形のカーテンみたいに見えていた。その中でもララミー山の頂が一段と高くそびえていた。そのカーテンから線路まで、一面に大平原が広がっていた。平原には小川などがたくさんあった。線路の右手には山岳地帯が見えていた。その山岳地帯の南側にはアーカンソー川の水源がある。アーカンソー川からは大量の水がミズーリ川に流れ込んでいるのだ。
 12時半、乗客の目にハレック要塞が見えた。この要塞は付近を警備するためのものである。あと2,3時間で、ロッキー山脈を横断することができるはずだった。それゆえ、なんの事故もなくこの難所を抜けられるものと期待できた。雪はやみ、空気は寒く乾いていた。大きな鳥たちが、機関車におどろいて遠くへ逃げていった。獣たちの姿は見あたらなかった。あたりには不毛な荒野が広がっていた。
 すばらしい朝食を客車で食べて、フォッグ氏たちがホイストを再開しようとした。すると激しく汽笛が鳴り、列車が停まった。パスパルトゥーは窓から顔を出したが、何があったのかさっぱり分からなかった。前方に駅はなかった。
 アウダとフィックスは心配になった。フォッグ氏は自分で原因を見に行くだろうか。しかし、フォッグ氏はただ従者に「何が起こったのか見ておいで。」と言っただけであった。
 パスパルトゥーは客車から飛び降りた。すでに40人くらい乗客が降りていた。その中に、スタンプ・プロクター大佐の姿もあった。
 列車は停止を示す赤信号で停まっていた。機関士と車掌が信号係と言い争っていた。この信号係はメディシン・バウ駅―次の停車駅である―の駅長が派遣したのだった。乗客も議論の輪の中に入っていった。その中でも、プロクター大佐がとても横柄な態度をとっているのが目についた。
 パスパルトゥーも輪の中に入り、信号係がこう言うのを聞いた。「だめです、通過できません。メディシン・バウ橋は落ちかかっています。列車の重みには耐えられません。」
 メディシン・バウ橋は吊り橋であり、ここから1マイル先の急流にかかっていた。信号係によれば、全くひどい状態で、鉄製のワイヤーも何本か切れていて、列車を通すなど無理だとのことだった。その発言は全く事実であった。天性楽天的なアメリカ人がだめだというのには、そうさせる理由があるのだ。
 パスパルトゥーはこのことを主人に話す気になれなかった。歯を食いしばり、銅像のように立っていた。
 「なんだと!」プロクター大佐が怒鳴った。「じゃあ、雪の中に根っこでも生えたように、ここでじっとしていろと言うのか!」
 「大佐殿、」車掌が言った。「オマハ駅に、列車を回してもらうよう電報を打ちました。ですが、列車がメディシン・バウ駅に着くには、6時間はかかるでしょう。」
 「6時間!」パスパルトゥーが声をあげた。
 「そうです。」車掌は続けた。「もし、ここから歩いてメディシン・バウ駅に行っても、それくらいはかかります。」
 「ここから1マイルくらいしかないだろう。」誰かが言った。
 「そうです。ですが、駅は川の向こうにあるんです。」
 「ボートで渡れないのか?」大佐が尋ねた。
 「だめです。雨で川が増水しています。流れも速くなってますから、浅瀬まで10マイル北に行かなくてはならないのです。」
 大佐は悪態のかぎりを尽くした。会社も車掌もなっとらん、などと当たり散らしていた。パスパルトゥーも怒り狂い、大佐に同調した。この事故のせいで、ご主人様のお金は消えてしまうだろう、と思った。
 乗客はみな失望していた。列車の遅れはさておき、雪の原を15マイルも歩かなければならなくなったのだ。一斉に抗議を始めた。フィリアス・フォッグが少しでもホイストから注意をそらしたら、まちがいなくその声に気づくはずだった。
 パスパルトゥーはあきらめた。この事故を主人に話すほかなかった。うなだれて客車へ行きかけた。そのとき、列車の機関士―生粋のアメリカ人で、名をフォスターといった―が声を張り上げた。「みなさん、ひょっとしたら通れるかもしれません!」
 「橋の上をか?」誰かが聞いた。
 「橋の上をです。」
 「列車に乗ったままでか?」
 「列車に乗ったままです。」
 パスパルトゥーは立ち止まり、機関士の声に聞き入った。
 「しかし、橋は落ちるぞ。」車掌が機関士に言った。
 「大丈夫ですよ。」フォスターが答えた。「全速力で突っ走れば、橋を渡れる可能性はありますよ。」
 「なんて無茶な。」パスパルトゥーはつぶやいた。
 一方、機関士の考えに賛成する乗客はかなりの数にのぼった。ことにプロクター大佐は大乗り気だった。なんでもないことだ、とも口にした。かって技師たちは、列車を全速力で走らせて、橋のない川を渡らせようとしたんだ、とまで言った。結局、賛成派の乗客は、機関士の意見に従うことにした。
 「成功率は50パーセントだな。」誰かが言った。
 「80、いや、90パーセントだ!」と言う者もいた。
 パスパルトゥーはびっくりしてしまった。どうにかしてメディシン川を渡らなきゃ、とは思っていたものの、機関士の意見はいかにもアメリカ的だなあという感想を持った。「それに、」と考えを続けた。「もっといい方法があるのに、誰も気づいてない!」
 「あのぅ。」パスパルトゥーは乗客の1人に話しかけた。「機関士の計画はいささか危険だと私は思うんですが……。」
 「80パーセント!」乗客はそう言って、パスパルトゥーに背中を向けた。
 「私も賛成ですが、」パスパルトゥーは別の人に言った。「ですが、もっといい考えが―。」
 「そんなの無用です!」その人はそう言って肩をすくめた。「渡れるに決まってます。機関士もそう言いました。」
 「もちろん、」パスパルトゥーが答えた。「渡れますよ。ですが、もっと賢明な―。」
 「賢明な、だと!」その言葉にプロクター大佐がかみついてきた。「全速力なんだ。いいか、全速力だぞ!」
 「分かってます、分かってます。」パスパルトゥーは繰り返した。「お気に障るなら、『賢明に』はやめます。でも、もっと普通な―。」
 「おいおい、何を言ってるんだ若造!」周囲が声をあげた。
 哀れにも、パスパルトゥーは誰にも自分の考えを言えなくなってしまった。
 「貴様、こわいんだろう。」プロクター大佐が言った。
 「こわいだと! よしきた! お前らに見せてやるぞ。フランス人はアメリカ人より強いんだぞ!」
 「ご乗車願います!」車掌が叫んだ。
 「いいだろう、乗ってやる!」すぐにパスパルトゥーが応じた。「だがな、俺は断じて言うぞ! 普通ならな、まずおれたちが歩いて橋を渡る、それから列車を通すんだ!」
 しかし、このいい方法を聞こうとする者はなかった。誰も正論に耳を貸さなかった。乗客は席に着いた。パスパルトゥーも席に戻ったが、何も言わなかった。フォッグ氏たちはまだホイストに夢中になっていた。
 機関車が鋭く汽笛を鳴らした。機関士は列車を1マイルばかり後退させた。跳躍しようとするジャンパーが、まず後ろに下がって、長いジャンプをしようとするのと同じ理屈だ。もう一度汽笛が鳴り、列車が走り出した。しだいに速度が増し、おそるべき速さとなった。機関車の轟音《ごうおん》が鳴り響いた。ピストンが1秒間に20回も往復した。列車は時速100マイルくらいで走っていた。線路の上を飛んでいるみたいだった。
 そして渡ったのだ! 一瞬の出来事だった。誰も橋を見なかった。飛んだ、と言ってもよかった。機関士は列車を止められず、駅を5マイルも過ぎてしまった。一方、列車が川を通過した際、橋はバラバラとなり、メディシン・バウの急流に落ちていった。

..アメリカの鉄道でだけ起こる出来事が述べられること
 乗客たちは、後はただ自然によってならされた果てしない平野を延々と下っていけばよい状態となった。「大幹線」の支線が、コロラド州の首都デンバーに向けて走っていた。コロラド州は金や銀が豊富に産出しており、人口はすでに5万人を超えていた。
 まる3日書けて、列車はサンフランシスコから1382マイル走破していた。後まる4日走れば、一行はニューヨークに到着するはずだった。フィリアス・フォッグはまだ予定通りに旅行していた。
 その夜、列車はワルバ駐屯地の右側を通った。ポール川が線路に平行して流れていた。この川は、ワイオミング準州とコロラド州の境界線となっている。午後11時、列車はネブラスカ州に入り、セジウィッチの近くを過ぎ、南プラット川のそばにあるジュレスバーグに着いた。
 1863年10月23日、ユニオン・パシフィック鉄道の開通式がこの地で行われた。工事の総監督はドッジ将軍であった。2台の強力な機関車が、それぞれ招待客を乗せた9両の客車をひいてこの地にやってきた。その中には会社の副社長だったトマス・C・デュラント氏もいた。歓呼の声が響き渡り、スー族とホーニー族とが招待客に模擬戦を披露し、花火が打ち上げられた。「開拓鉄道」紙の創刊号が、移動印刷機によって発行された。大幹線の開通式はそんな祝賀ムードで行われた。大幹線は、進歩と文明化を促す手段として、未開の原野を進み、その時点ではいまだ存在しなかった市や町を互いにつなぐものと期待された。機関車の汽笛の音はアンフィオンの竪琴の音よりも強く鳴り響き、アメリカの土地に町や市を築こうとしていた。
 午前8時、フォート・マックパーソンを過ぎた。そこからオマハまで357マイルの距離があった。列車はくねくね曲がった南プラット川の左岸を走った。9時にノースプラットという都市に着いた。この都市は、南北両プラット川に挟まれている。2つの川はこの地で合流してひとつの川となる。そしてオマハの辺りでミズーリ川へと流れ込むのだ。
 列車は101度の子午線を超えた。
 フォッグ氏とその相手たちとは、またホイストに熱中していた。だれも―ダミーさえも―長い旅行に不平を言わなかった。フィックスは最初数ギニー勝ったが、落ち目に転じていた。だが、フォッグ氏に負けず劣らず、戦い続けていた。この朝、フォッグ氏は明らかについていた。切り札や役札が彼の手に流れ込んできていた。やがて思い切った手を考えついて、スペードで勝負にでた。そのとき、後ろから声が聞こえた。「わしならダイヤで行くな。」
 フォッグ氏、アウダ、フィックスは顔を上げた。プロクター大佐が立っていた。
 スタンプ・プロクターとフィリアス・フォッグとは、すぐ相手を認めあった。
 「あぁ、お前か、イギリス人。」大佐は言い放った。「お前はスペードで勝負するつもりなんだな。」
 「勝負します。」フィリアス・フォッグは静かに答え、スペードの10を場に置いた。
 「そうか、俺はダイヤの方がいいと思うぞ。」プロクター大佐は横柄に言った。
 そして、あたかもカードを持っているような身ぶりをしながら、こう言った。「お前はホイストを分かってないなぁ。」
 「もっと別のことをやるようにはできます。」そうフィリアス・フォッグは言って、立ち上がった。
 「ならやってみろよ、ジョン・ブルの息子よ。」大佐は言い返した。
 アウダは青ざめた。血も凍る思いだった。彼女はフォッグ氏の腕をつかみ、穏やかに引き寄せた。パスパルトゥーは、敵にさげすみの視線を送るアメリカ人に飛びかかろうとした。そのときフィックスが立ち上がり、大佐の前に出てこう言った。「お忘れだろうが、俺はお前に借りがあるんだ。お前は俺を侮辱しただけでなく、殴りもしたんだぞ!」
 「フィックスさん、」フォッグ氏が言った。「すみませんが、これは私の問題です。大佐は、スペードで行くべきでないと言って、また私を侮辱しました。彼に償いをさせなければいけません。」
 「時間と場所はお前に任せる。」アメリカ人は言った。「武器も好きなのを選んでいいぞ。」
 アウダは引き留めようとしたが無駄だった。決闘を肩代わりしようという探偵の試みも無駄に終わった。パスパルトゥーは大佐を窓から投げ飛ばしたかったが、主人に止められた。フィリアス・フォッグは客車を出た。アメリカ人はデッキまでついてきた。フォッグ氏は相手に話しかけた。「私は急ぎの用事でヨーロッパに戻らなければなりません。遅れると私は大きな損害をこうむるのです。」
 「ほぅ、それがどうした!」大佐は答えた。
 とても丁寧にフォッグ氏は話し続けた。「サンフランシスコで会った後、私は、ヨーロッパでの用事を済ませたらすぐにアメリカに戻ってあなたを捜そうと決心しました。」
 「ほんとかね!」
 「6ヶ月後に私と会っていただけないでしょうか。」
 「なぜ10年と言わないんだ!」
 「6ヶ月後です。」フィリアス・フォッグは繰り返した。「そのときには必ず会いに来ます。」
 「逃げるんだろう、えぇ?」スタンプ・プロクターは言い放った。「今やれ、でなきゃやめちまえ!」
 「いいでしょう。あなたはニューヨークへ行くのですか。」
 「違う。」
 「シカゴですか。」
 「違う。」
 「オマハですか。」
 「そんなこと、お前に何の意味があるんだ? プラム・クリークを知ってるか?」
 「いいえ。」フォッグ氏は答えた。
 「次の駅だ。1時間後にそこに着いて、10分間停車するんだ。10分あれば、銃の撃ち合いはできるさ。」
 「分かりました。」フォッグ氏は言った。「プラム・クリークで下車しましょう。」
 「ずっとそこにいるだろうよ。」アメリカ人は言い捨てた。
 「さぁ、どうでしょうか。」フォッグ氏は答え、自分の客車に戻った。その冷静さはいつもとまったく同じだった。彼はアウダに、あのならず者など怖がることはありません、と請け合った。そしてフィックスに、決闘の立会人になってくださいと頼んだ。フィックスは断ることなどできなかった。そしてフォッグ氏は、この上ない冷静さでゲームを再開した。
 11時、機関車の汽笛が鳴り、まもなくプラム・クリークだと知らせた。フォッグ氏は立ち上がった。フィックスを連れて、デッキに向かった。パスパルトゥーはその後ろに、ピストルを2挺持って続いた。アウダは客車に残った。その顔は死人みたいに青ざめていた。
 となりの客車のドアが開き、プロクター大佐がデッキに現れた。アメリカ人の立ち会いを連れていた。彼も大佐同様暴れ者のようだった。ところが、双方が列車から降りようとしたそのとき、車掌が走ってきて叫んだ。「お客様、降りれませんよ!」
 「なぜ降りれんのだ?」大佐が尋ねた。
 「列車は20分遅れています。ですから、駅には止まりません。」
 「だが俺は、この紳士どのと決闘するんだ。」
 「申し訳ありません。」車掌が言った。「もう出発の時間なんです。」確かに、発車ベルが鳴っていた。
 列車は走り出した。
 「誠に申し訳ございません。」車掌が言った。「他のときでしたら、ご要望にお応えするのですが。ここでは時間がとれません。なんでしたら、車内で決闘なさいますか。」
 「たぶんこの紳士どのはいやだと言うだろうよ。」大佐は笑いながら言った。
 「いや、望み通りですよ。」フィリアス・フォッグは答えた。
 「いやぁ、まったくもってアメリカ的だなあ。」パスパルトゥーはひとりごちた。「車掌までが一流の紳士だとはなぁ。」
 そうつぶやくと、主人の後を追った。
 敵手2人とその立会人は、車掌に導かれて、列車の最後尾の客室へ向かった。その車両には乗客は12人しかいなかった。車掌は一同に丁寧な口調で、しばらくの間客室を出ていただけませんか、こちらの紳士方が名誉をかけて決闘をいたしますのでと頼んだ。乗客たちはすぐに承諾し、そしてデッキに出ていった。
 車両は長さが50フィートあったから、決闘をするのに都合が良かった。敵手たちは通路を歩いて、そして相手を撃てば良かった。これ以上あっさりした決闘など考えられなかった。フォッグ氏とプロクター大佐は、それぞれ6連発のピストルを持って、客室に入っていった。立会人は外に残り、2人を閉じこめた。決闘は、最初に機関車が汽笛を鳴らしたときに始めることになっていた。その2分後、生き残った方が客室から出て来るものと決められた。
 ことは単純だった。実際、この単純さに、フィックスとパスパルトゥーは、心臓が早くうちすぎて、破裂してしまうんじゃないかとさえ感じた。立会人たちは汽笛が鳴るのを待った。
 突然、異様な叫び声が空中にこだました。と同時に、銃声がとどろいた。この銃声は、明らかに決闘者がいる客室ではない方から聞こえてきた。列車の前方で鳴っていたのだ。まもなく列車全体に広がった。恐怖の叫び声が列車のそこかしこで起こった。
 プロクター大佐とフォッグ氏が、ピストルを持って客車から飛び出してきて、列車の先頭に走っていった。そちらの方で銃声や叫び声が大きくなっていた。そして2人は、列車がスー族の一団に襲われたことを知った。
 インディアンたちによる襲撃は、これが始めてのことではなかった。彼らは何度か、線路上で列車を待ち伏せしたことがあったのだ。スー族が100人ほど集まり、列車を止めることなくステップにつかまるのが彼らのやり方であった。そのさまは、駆け足で走る馬に道化がひょいと飛び乗る様子そのままだった。
 スー族はみな銃を持っていた。最初の銃声は彼らが撃った音だった。だが乗客の方もだいたい武器を持っていた。銃撃戦が始まった。
 インディアンはまず機関車に飛びつき、マスケット銃を振り上げて、機関士と火夫とを殴って気絶させた。そして酋長が、列車を止めようとしたが、速度調節のやり方を知らなかったので、機関車に蒸気を送る弁を閉めるかわりにいっぱいに開いてしまった。機関車はすさまじい勢いで走り出した。
 スー族は客車にも飛びついていた。怒った猿みたいに屋根の上を飛びまわり、ドアを押し開け、乗客と接近戦を演じた。貨車に侵入し、そして乗っ取り、トランクなどを外に放り投げた。叫び声や銃声が鳴り続けた。乗客は勇敢に身を守った。何両かの客車にバリケードを築いた。それはさながら時速100マイルで移動する砦みたいだった。
 アウダはそもそもの始まりから勇敢に行動した。彼女はヒロインさながらに自分の身を守った。壊れた窓のすき間に見えた襲撃者を銃で撃ったのだ。スー族が20人ほど、地面にたたきつけられて致命傷を負った。列車の車輪が、レールの上に落ちた人間を虫けらのように踏みつぶした。乗客も何人か、撃たれたり気絶したりして、座席の上に倒れていた。
 戦いは10分間も続いた。このまま列車が止まらなければ、スー族の勝利に終わってしまうはずだった。というのは、次のキアニー駅には守備隊がいるのだが、もうあと2マイルしか距離がなかった。もし駅を通過してしまえば、スー族はその次の駅に着くまでに列車を制圧してしまうだろう。
 車掌はフォッグ氏のそばで戦っていたが、撃たれて倒れた。彼は倒れながら、「列車が5分以内に止まらなければもう終わりだ!」と叫んだ。
 「なら止めよう。」フィリアス・フォッグは言い、客車を走りぬけようとした。
 「お待ちください。」パスパルトゥーが叫んだ。「私がいたします。」
 フォッグ氏に引き留める暇も与えずに従者はドアを開けた。そして、インディアンに気づかれることなく、客車の下にもぐり込むことに成功した。戦いはまだ続いていた。銃弾が頭の上を飛び交っていた。パスパルトゥーは昔体操をしていた経験を生かして、驚くほど機敏に、客車の下を動き続けた。鎖につかまったり、ブレーキに足を乗せたりして、見事に客車から客車へと伝っていった。ついに列車の前部に達した。
 そこで、片手で貨車と炭水車の間にぶらさがり、もう一方の手で安全鎖をはずした。しかし、牽引力が強くて、連結棒のネジを抜くことができなかった。ところが、ある場所で連結棒に強い振動が加わり、ネジが飛んだ。列車の速度が落ちた。機関車はさらに速度を上げて行ってしまった。
 列車はそれでも慣性の法則に従って動き続けた。しかし、やがてブレーキがかかり、ついに止まった。キアニー駅まで残り100フィートを切っていた。
 守備隊が銃声を聞いて駆けつけていた。スー族は兵士を待たずに、列車が止まる前に一段となって逃げていった。
 だが、乗客が駅のプラットホームで互いに確認しあうと、何人かがいなくなっていた。その中には、我が身を投げ出して一同を救った、あの勇敢なフランス人の姿もあった。

..フィリアス・フォッグが義務を簡単に果たすこと
 3人の乗客―パスパルトゥーもその中のひとりだ―が消えていた。3人は戦いのさなかに殺されてしまったのだろうか? それとも、スー族の捕虜として連れていかれたのだろうか? どちらとも言えなかった。
 乗客の多くは負傷していたが、死者はいなかった。プロクター大佐は重傷者の中に含まれていた。大佐は勇敢に戦ったが、太股のつけねに弾丸を受けたのだ。大佐は、なんらかの手当が必要な他の負傷者とともに駅に運ばれた。
 アウダは無事だった。フィリアス・フォッグは、特に激しい戦いの中にいたが、傷ひとつ負わなかった。フィックスは腕に傷を負ったが、軽傷だった。しかし、パスパルトゥーの姿はなかった。アウダの頬に涙が流れた。
 乗客は全員列車を降りた。車輪はすべて血で染まっていた。タイヤやスポークに肉片がこびりついていた。見渡すかぎり、雪原に赤い血痕が続いていた。スー族たちは南に逃げていった。その姿がリパブリカン川の向こうに見えていた。
 フォッグ氏は腕を組み、微動だにしなかった。そして、ひとり重大な決心をしていた。アウダはそのそばに立ち、無言で彼を見つめていた。フォッグ氏にはその意味がよく分かっていた。もし従者が捕虜になっていたら、危険を冒してでも彼をインディアンの手から救うべきではないだろうか、と言っているのだった。
 「生死にかかわらず、彼を見つけだします。」フォッグ氏は静かにアウダに言った。
 「あぁ……、フォッグさん。」アウダは声をあげ、フォッグ氏の手を握った。その上に涙が落ちた。
 「生きています。」フォッグ氏は言った。「一刻も無駄にしなければ……。」
 フィリアス・フォッグは、こう答えることで、必然的に自分自身を危機にさらすこととなった。彼は自分の運命を口にしていたのだ。1日遅れたら彼はニューヨークで汽船に乗り遅れることとなり、間違いなく賭けに負けるのだ。だが、フォッグ氏は「これは義務だ。」と考え、何のためらいも見せなかった。
 キアニー砦の守備隊長が立っていた。100人の兵士を駅に配備し、スー族に対する守備体制を整えていた。
 「隊長殿。」フォッグ氏は守備隊長に話しかけた。「3人の乗客がいなくなりました。」
 「死んだのか。」守備隊長が尋ねた。
 「死んだか、捕虜になったかです。はっきりさせなければなりません。スー族を追撃するおつもりですか。」
 「それは重大問題ですな。」隊長は答えた。
 「インディアンたちはアーカンソー州の向こうまで逃げていくでしょう。私としては砦を無防備にするわけにはいきません。」
 「ことは3人の命にかかわるんです。」フィリアス・フォッグが言った。
 「その通りです。ですが、3人の命を救うために50人の命を危険にさらせますか?」
 「あなたにできるかどうかは私は知りません。ですが、それはあなたの義務のはずです。」
 「ここじゃ誰にも、」隊長は言った。「私の義務をうんぬんする権利なぞありません。」
 「分かりました。」フォッグ氏は静かに言った。「私ひとりで行きます。」
 「フォッグさん!」フィックスが叫びながらそばに寄ってきた。「たったひとりでインディアンを追いかけるつもりですか?」
 「私が行かなければ、かわいそうにあの男は死んでしまいます。ここにいるみんなが救われたのは彼の力があったからでしょう。私はあの男を助けに行きます。」
 「だめですよ、ひとりで行ってはいけません。」隊長が声をあげた。「絶対にだめです。それにしても、なんて勇敢なお人だ。30人の決死隊を募りましょう!」そして、兵士の方に振り返った。
 兵隊全員が前に進み出た。隊長はその中から30人を指名すればよかった。30人が選ばれ、老軍曹の指揮下にはいることになった。
 「隊長に感謝します。」フォッグ氏は言った。
 「一緒に行かせてくれませんか。」フィックスが話しかけてきた。
 「ご自由にどうぞ。ですが、よろしければ、アウダのそばにいてくれませんか。私の身に何かあったら―。」
 探偵の顔が急に青白くなった。一歩一歩、しつこいほどにあとをつけてきた男から離れないといけないのだ! あいつはこの砂漠で姿をくらますだろう! フィックスはフォッグ氏の顔を穴が空くほど見つめた。こいつの容疑はまちがいないものなんだ……。しかし、目に宿る冷静かつ率直な表情の前に、思わず目をそらした。
 「残りましょう。」フィックスは言った。
 その後フォッグ氏は、アウダの手を握りしめ、持っていた貴重な旅行鞄をあずけた。そして、軍曹や決死隊とともにその場を去っていった。
 ちょうど正午少し前であった。
 アウダは待合室に入り、ひとりフィリアス・フォッグを待った。アウダは思った。あの人は単純にして立派な義侠心《ぎきょうしん》を持ち、すずしい顔で勇気を見せた。全財産をなげうち、ちゅうちょなく命を危険にさらし、ただ黙々と義務を果たしているのだ!
 フィックスはそうは考えなかった。動揺をあらわにしていた。興奮して駅のプラットホームを歩きまわったが、すぐに無理矢理落ち着いた感じを作った。今さらながら、フォッグ氏をひとりで行かせたことが悔やまれてならなかった。なんてこった! ここまで追跡してきたあの男に、自分のもとから逃げるのを見逃すなんて! フィックスは自分を責めた。あらん限りの悪口を自分に投げた。まるで自分が警視総監で、失態を演じた新人を叱っているみたいだった。
 「なんて俺はばかなんだ!」フィックスは思った。「あの男は俺が探偵だと気づいたんだ。そして行ってしまった。もう戻ってこないだろう。だが、なんでだまされたんだろう? 逮捕状をポケットに持っていながら、あいつの何にまどわされたんだろう。まったく、俺の目は節穴だった!」
 そんなことを思っている間、時間がとてもゆっくり流れているように思えた。どうすればいいのか分からなかった。時折、アウダにすべて打ち明けてしまいたくなった。しかし、アウダがそのことをどう取るかは分かり切っていた。このあとどうすればいいのだろうか? 大雪原の果てまでフォッグ氏を追いかけることも考えた。ひょっとしたら、フォッグ氏に追いつけるかもしれなかった。なにしろ雪原に足跡が残っているのだ。しかしすぐに、あらたな雪のせいで、足跡が消えてしまうだろう。
 フィックスは落ち込んだ。すべてをあきらめたいという説明しがたい衝動に駆られた。ところがそのとき、キアニー駅を出発して、何事もなく本国へ帰れるようになってしまったのだ。
 午後2時頃、激しい吹雪の中、汽笛の音が東から聞こえてきた。さらにライトの光が見え、大きな影がゆっくりと近づいてきた。霧の中をゆっくり進んでくる影に、一同は幻想的な感じを受けた。この時間に東から走ってくる列車はないはずだったし、電報で呼んだ列車が着くにはまだ早すぎた。オマハからサンフランシスコに向かう列車は、明日にならないと来ないはずなのだ。その謎はまもなく氷解した。
 機関車が、汽笛をけたたましく鳴らしながら近づいてきたのだ。そう、列車から切り離されて、恐ろしいほどの速度で走り去ったあの機関車だったのだ。機関士と火夫は、気を失ったまま機関車に乗っていたのだ。
 機関車は数マイル走り続けた。そして、燃料不足で火の勢いが弱まり、蒸気がおさまってきた。ついに、キアニー駅からおよそ20マイル離れたところで機関車は止まった。機関士も火夫も死んではいなかった。ただ気絶していただけであったので、やがて正気に戻った。機関車はすでに止まっていた。機関士は、自分が砂漠の中にいるのに気づき、さらに後ろに客車がないのを見て、何が起こったのか理解した。どうして機関車が列車から切り離されたのかは分からなかったが、後に残された客車が危機に陥っているものと信じた。
 機関士はちゅうちょせずなすべきことを実行した。安全を考えれば、オマハに向かう方がよかった。列車はまだインディアンの略奪にあっているはずだったからだ。それでも機関士は炉に火を起こした。蒸気がたまり、機関車はキアニー駅へとバックし始めた。この機関車が、霧の中で汽笛を鳴らしていたのだ。乗客は、機関車が再び列車の先頭に取り付けられるのを見て歓声を上げた。中断されていた旅行を再び続けられるようになったのだから、当然喜んでいた。
 アウダは機関車がやってくるのを見て、駅に走り込み、車掌に尋ねた。「出発するおつもりでしょうか。」
 「すぐに出ます、奥様。」
 「ですが、捕らわれた方たちは、あの不幸な方たちは―。」
 「列車の運行を止めるわけにはいきません。」車掌が答えた。「すでに3時間遅れているのです。」
 「サンフランシスコ発の次の列車はいつここを通るのでしょうか。」
 「明日の夕方です。」
 「明日の夕方! それでは遅すぎます。待っていただかなくて―。」
 「それはできません。」車掌が答えた。「もし出発したければ、どうぞお乗りください。」
 「私は出発しません。」アウダは言った。
 フィックスはこのやりとりを聞いていた。つい今しがた、乗り物の便がなかったときには、キアニー駅を去ろうと心に決めていた。ところが、列車がここにあり、出発の準備が整い、あとは自分の席に座りさえすればいいというときになって、後ろ髪を引かれる思いを抱くようになった。フィックスの足はプラットホームに焦げ付いてしまった。動くことができなかった。心の中で再び闘いが始まった。不成功に終わるとおもうと、怒りで胸がいっぱいになった。最後まで仕事をやり通すことを心に誓った。
 一方、乗客たちと負傷者―プロクター大佐は重傷だった―は列車に乗り込んだ。ボイラーはすでに十分熱くなっていた。蒸気がバルブからもれていた。機関車が汽笛を鳴らし、列車は出発した。すぐに姿が見えなくなった。列車が吐き出した白煙が、激しく渦をまく吹雪に混ざっていった。
 探偵は駅に残っていた。
 数時間が過ぎた。空は暗く、とても寒かった。フィックスは駅のベンチに座ったまま動かなかった。眠っているようにも見えた。アウダは、嵐の中、ずっと待合室の外にいた。駅のプラットホームの端に立ち、雪が荒れ狂うさまをじっと見ていた。アウダの視界を狭めている霧の向こうから聞こえてくるはずの音を聞こうとしていた。しかし、何も見えず、何も聞こえなかった。体が冷えると待合室に戻ってきたが、2、3分くらいいて、また外に出ていった。だがいつも無駄足に終わった。
 夕方になった。決死隊は帰ってこなかった。彼らはどこまで行けただろうか? インディアンを見つけて戦っているのだろうか? それとも、霧の中でまださまよっているのだろうか? 砦の隊長は心配でたまらなかったが、そのことを外に出すまいと努力していた。夜が近くなると、雪がややおさまったように思えた。だが、外は強烈に寒くなった。絶対的な静寂が雪原をおおっていた。鳥も飛ばず、獣も通らず、完全に落ち着き払っていた。
 夜じゅうアウダは、悲しい予感を感じて、苦しさで息がつまる思いだった。その心は雪原じゅうをさまよっていた。想像の中でアウダは遠くまで飛んでいき、数限りない危険を見た。説明できないある感じに長いこと苦しめられていた。
 フィックスはまださっきと同じところで動かなかった。だがもう眠っていなかった。一度男が近づいてきてフィックスに話しかけた。だが探偵は、返事のかわりにただ頭を振っただけだった。
 こうして夜が過ぎていった。夜が明けて、大洋が霧の向こうの水平線から顔を出し始めた。そして、2マイル離れた先の物が見えるようになった。フィリアス・フォッグ氏と決死隊は南へ行っていた。その方向に彼らの合図は見えなかった。時刻は朝7時だった。
 隊長は真剣に彼らを心配していたが、どうすればいいのか分からなかった。
 最初に派遣した部隊を救うために応援部隊を出すべきだろうか? すでに犠牲になっている人を救い出すわずかなチャンスのために、これ以上の犠牲を出すべきだろうか? しかし、隊長はすぐに心を決めた。大尉を呼び出して、調査に行くよう命じた。そのとき、銃声が聞こえてきた。兵士たちは砦の外に出た。半マイル先に、整然と並んで帰ってくる小隊を発見した。
 フォッグ氏が小隊の先頭にいた。その後ろに、パスパルトゥーと他の2人の旅行者がいた。スー族から助け出されたのだ。
 決死隊はインディアンをキアニーの南方10マイルのところで見つけて、戦いを挑んだのだった。決死隊が到着する少し前に、パスパルトゥーと2人の仲間はインディアンたちと戦いを始めていた。あのフランス人たちがインディアンに倒されたまさにそのときになって、その主人と兵士たちが救援に駆けつけたのだった。
 助けたものと助けられたものとは、喜びの声で迎えられた。フィリアス・フォッグは兵士たちに、約束した報酬を払った。パスパルトゥーはいかにもすまなそうにこうつぶやくのだった。「あぁ、またご主人様に無駄金を使わせてしまった……。」
 フィックスは無言でフォッグ氏を見た。この瞬間、彼の中でいかなる考えがめぐっていたのかは、きっと誰にも分からないだろう。アウダはというと、保護者の手を取り、強く握りしめた。まさに言葉以上に語っていた。
 さて、パスパルトゥーは列車の姿を探していた。彼はオマハ行の列車が駅にいるものと思っていた。その列車に乗れば、失った時間を取り戻せると考えていたのだ。
 「列車は! 列車は!」パスパルトゥーは叫んだ。
 「行ってしまったよ。」フィックスが答えた。
 「次の列車はいつここに来るのですか。」フィリアス・フォッグが言った。
 「夕方まで来ないそうです。」
 「そうですか。」彼は表情をまったく変えずに答えた。

..フィックス刑事がフィリアス・フォッグの利益を大いに助けようとすること
 フィリアス・フォッグは、予定より20時間遅れていることを発見した。パスパルトゥーは自分が無意識のうちに主人を遅れさせてしまったことを思い、自暴自棄になっていた。知らぬ間に、彼は主人を破滅に追い込んでしまっていた!
 探偵がフォッグ氏に近づき、熱心に顔を見つめて言った。「すみませんが、あなたはとても急いでらっしゃいますね。」
 「その通りです。」
 「お尋ねしたいのですが、」フィックスは話し出した。「あなたは11日の夜9時以前にニューヨークに着いて、リヴァプール行の汽船に乗ることが、絶対必要なんですね。」
 「絶対必要です。」
 「そして、この旅行がインディアンどもによって中断されなかったら、11日の朝にニューヨークに到着することになっていましたね。」
 「そうです。汽船の出航まで12時間の余裕がありました。」
 「分かりました。すると、あなたは20時間遅れていることになります。ですが、20引く12は8ですから、要は8時間遅れているわけです。やってみませんか?」
 「歩いてですか。」フォッグ氏が尋ねた。
 「いや、そりでです。」フィックスが答えた。「帆をあげたそりを使います。ある男が私にその乗り物を勧めたんです。」
 その男は、夜になってフィックスに話しかけ、そして断られた男だった。
 フィリアス・フォッグはすぐには答えなかった。だがフィックスは、その男を指さした。男は駅前をあちこち歩いていた。フォッグ氏は男に歩み寄った。その後すぐ、フォッグ氏とそのアメリカ人―名をマッジといった―とは、砦の下に建っているあばら屋に入っていった。
 そこでフォッグ氏は奇妙な乗り物を見た。2本の長い梁《はり》の上に、車体のような物が乗っていた。そりの板のように前が反っていた。5、6人は乗れるくらいのスペースが車体にはあった。マストが1本車体に取り付けられていた。マストはワイヤーで固くくくられ、大きな帆が付けられていた。さらに、三角帆を巻き上げるための針金の支索も付いていた。後ろには、この乗り物を操縦するための舵のようなものがあった。つまりこのそりは、スループ帆船のように操縦するのだった。冬の間、列車が雪のせいで走れなくなると、このそりは極寒の大地をすべり、駅と駅の間をとても速いスピードで走るのだった。このそりはふんだんに帆を張って追い風を集め、急行列車に勝るとも劣らぬ速度で、プレーリーをすべっていくのだった。
 フォッグ氏はすぐにこの陸上船の持ち主と契約を結んだ。風は良かった。西から勢いよく吹いていた。雪は堅くなっていた。マッジはフォッグ氏を数時間でオマハまで送れるだろうと考えていた。オマハに行けば、列車はシカゴやニューヨークに向かって走っているのだ。失った時間を取り戻すのは不可能ではなかった。だから、このチャンスに賭ける価値はあった。
 フォッグ氏はアウダを外気にさらすような旅行をさせたくはなかったから、パスパルトゥーと一緒にキアニー駅に残ることを勧めた。パスパルトゥーは、アウダに付き添って、もっと快適なルートを使ってヨーロッパまで送り届けると約束した。しかしアウダはフォッグ氏と別れるのを断った。パスパルトゥーはその答えをうれしく思った。フィックスが主人と一緒にいる間はなんとしても主人のそばにいるつもりだったからだ。
 探偵が何を考えていたのかはよく分からなかっただろう。フィリアス・フォッグが帰ってきたことで、彼の確信はぐらついているのだろうか? それともまだフォッグ氏を、世界一周旅行を完成させて、もうこれで絶対に安全だと考えている、ずる賢い悪党だと信じているのだろうか? たぶん、フィックスの考えは少しは変わったのだろうが、それでも自分の義務は果たそうとしていた。そして、できるだけ早くイングランドに一行を連れていこうと焦っていた。
 そりの準備は8時に完了した。乗客はそりに乗り込み、外套をしっかり着込んだ。2枚の帆が大きく広がり、風の力を受けてそりは時速40マイルで堅くなった雪の上をすべり出した。
 キアニー~オマハ間は、直線距離では200マイル近くあった。風が良ければ、その距離を5時間で走れるはずだった。事故さえなければ、1時にはオマハに着けるかもしれなかった。
 なんという旅行だったろう! 旅行者たちは狭い空間に詰め込まれ、寒さのために何も話せなかった。すごい速度で走っていたから、なおさら寒かった。そりは波に乗ったボートのように軽やかにすべっていった。地表すれすれに風が吹いてくると、その風を帆が受けて、浮かび上がったように思えた。マッジは舵を取っていた。彼はまっすぐ走るようにしていたが、ときどきそりの傾きを調整するために進路を曲げていた。帆はすべてあげられていた。船首の三角帆もあげていたが、後部マストの梯形帆《ていけいほ》で風をさえぎられることはなかった。中マストもあがり、風をいっぱいに受けた上檣帆《じょうしょうはん》が他の帆の推進力を助けていた。正確には言えないが、そりはほぼ時速40マイル以上で走っているものと思えた。
 「もしどこも壊れなければ、」マッジが言った。「無事に送り届けられますよ。」
 フィリアス・フォッグはマッジに、オマハに着いたら相当な報酬を約束していたから、マッジも気合いを入れていた。
 そりはプレーリーを、直線コースを保ってすべっていた。プレーリーは海のように平らだった。巨大な湖が凍ったらかくやという景色だった。鉄道はこの地域を、南西から北東へと走り、ネブラスカ州の重要な町である、グランド・アイランドやコロンバスを通り、さらにシュイラーやフレモントをを経てオマハに至る。線路はプラット川の右側に沿っていた。線路が弧を描いていたので、そりはその弦の部分を通ることで走行距離を縮めた。マッジはプラット川に進路をさえぎられることは心配していなかった。川は凍っていたからだ。行く手には障害は全くなかった。ただ、フィリアス・フォッグには2つ心配事があった。そりの事故と、風がなくなってしまうことである。
 しかし風はその力を緩めず、マストを折ろうとしているみたいに吹いていた。その力に鉄索はよく耐えていた。そして、弦楽器の弦のように、バイオリンの音色に似た音を奏でていた。そりは悲しげなメロディーを立てながらすべっていた。
 「この音は5度音程と8度音程だね。」フォッグ氏は言った。
 そりに乗っている間にフォッグ氏が話したのはこれだけだった。
 アウダはというと、毛皮と外套で身を包み、できる限り冷たい風に体をさらさないようにしていた。パスパルトゥーは、霧のせいで太陽みたいに顔を赤くし、刺すような冷たさの空気を苦労して吸いこんでいた。彼の心は快活さを取り戻し、再び希望を持ち始めた。11日の朝にはニューヨークに着けないが、夕方には着けるだろう。そして、そこに停泊しているリヴァプール行の汽船にはきっと間に合うだろう。
 パスパルトゥーは、盟友であるフィックスと握手したいと思った。期限に間に合うようにオマハに着ける唯一の手段であるこのそりを手にいれたのが、他ならぬこの探偵であることを思い返していた。だが、虫の知らせを感じて、いつもの態度を守っていた。ところで、パスパルトゥーはひとつのことが忘れられなかった。そう、彼を救うために、フォッグ氏がためらいもせずに犠牲を払ったという事実である。フォッグ氏は財産のみならず、命まで危険にさらしたのだ。フォッグ氏の従者たるもの、どうしてそれを忘れることができようか!
 一行がそれぞれ違ったもの思いにふけっている間に、そりは一面に広がった雪のカーペットの上を飛ぶようにすべっていた。小川をたくさん通りすぎたのだが、それを感じなかった。野も川も白一色の下に消えていた。平野にはまったく人がいなかった。ユニオン・パシフィック鉄道と、キアニーからセント・ジョセフに至る支線の間は、さながら大きな無人島であった。村も駅も、砦さえも見えなかった。ときには枯れ木の間をすべった。枯れ木は白い骸骨のように風で揺れ、音を鳴らしていた。ときには野鳥が一斉に飛び立った。ときには飢えのためにやせ衰えたコヨーテの群れがそりの後を追いかけてきた。パスパルトゥーは銃をかまえた。あまり近くまで来たら撃つつもりだった。今そりが故障してしまったら、旅行者はコヨーテに襲われるに違いなかった。それこそがもっとも危険だった。だがそりはすべり続け、コヨーテをふりきった。コヨーテはまだうなっていたが、その姿ははるか後ろになった。
 正午ごろ、マッジはとある目印から、そりがプラット川を越えたことを知った。彼は何も言わなかったが、オマハまで20マイルくらいだなという確信を持った。1時になる前に、マッジは舵を手放し、帆を巻き上げた。その間もそりは、風による推進力を持ち続け、帆もないのに半マイルはすべっていた。だがついに止まった。雪で真っ白になった屋根を指さし、マッジは言った。「着きました!」
 ついに着いたのだ! 毎日多くの列車が発着し、それによって大西洋岸の町とつながっている駅、オマハに到着したのだ!
 パスパルトゥーとフィックスがまず飛び降りて、こちこちになった手足を伸ばした。そして、フォッグ氏とアウダがそりから降りるのに手を貸した。フィリアス・フォッグはマッジに報酬をはずんだ。パスパルトゥーはマッジと固い握手を交わした。そして一行はオマハの駅へと向かった。
 パシフィック鉄道は、正しく言うとこのネブラスカ州の重要な都市であるオマハが終着点である。そして、シカゴ―ロックアイランド鉄道によってシカゴと結ばれている。この鉄道はまっすぐ東に走っていて、50の駅を通過する。
 フォッグ氏たちが駅に着いたときには、列車はもう発車しようとしていた。一行が席に座ったときにはすでに動き出していた。一行はオマハでは何も見なかった。だがパスパルトゥーは、そのことを後悔することはない、自分たちは観光で来ているんじゃないんだからと自分に言い聞かせた。
 列車はコネイルブラックス、デモイン、アイオワシティを通り、アイオワ州を軽々と横切った。夜にはダヴェンポートでミシシッピ川を渡り、ロックアイランドからイリノイ州に入った。翌日、すなわち10日の午後4時にシカゴに着いた。シカゴはすでに災害から立ち上がり、美しいミシガン湖のそばで、以前にもました堂々たる威風を誇っていた。
 シカゴからニューヨークまでは900マイルの距離があった。しかし、列車はシカゴからたくさん走っていた。フォッグ氏はすぐ他の列車に乗り換えた。ピッツバーグ―フォートウェーン―シカゴ鉄道の機関車が、全速力で走り出した。まるでこの紳士にもう時間がないことを知っているかのようだった。あっという間にインディアナ、オハイオ、ペンシルバニア、ニュージャージーの各州を通過した。古風な名を持った町々も疾走していた。そういった町には街路も市街鉄道もあったのに、まだ家が建っていなかった。
 ついにハドソン川が見えてきた。12月11日、午後11時15分、列車が駅に着いた。駅はハドソン川の右岸にあり、目の前にキュナード・ラインの埠頭《ふとう》があった。
 リヴァプール行のチャイナ号は、すでに45分前に、出航してしまっていたのだ!

..フィリアス・フォッグが不運に対して敢然と戦いを挑むこと
 チャイナ号は出航してしまっていた。それとともに、フィリアス・フォッグが持っていた最後の希望まで運び去ってしまったかに思えた。他の汽船はどれも、フォッグ氏の計画には使えなかった。ペレール号というフランス大西洋汽船会社の船は、速度・快適さともに賞賛に値する汽船ではあったが、14日まで出航しなかった。ハンブルグ汽船会社の船は、ロンドンやリヴァプール行ではなく、すべてルアーブル行であった。ルアーブルからササンプトンまでの余計な旅行によって、フィリアス・フォッグは最後の努力を無にしてしまうだろう。イマン汽船会社の汽船は翌日出航の便しかなく、その便では賭けに勝てる速度で大西洋を横断することはできなかった。
 フォッグ氏は以上のことを、持っていたブラッドショーの案内記を見て知った。つまり、大西洋を横断する船便を逐一調べていったのである。
 パスパルトゥーはがっくりまいってしまった。チャイナ号に45分遅れたことに責任を感じて落ち込んでしまった。すべて彼のせいだった。彼は主人を助けるかわりに、道中に障害を置いていってしまったのだ!この旅行中に起こったことを思い返し、無駄にした費用や、自分を助けるために主人が費やしたお金の総額を数え、莫大な掛け金や巨額の旅行費用をおもい、それらすべての支出でフォッグ氏を完全に破産させてしまったことを考えた。彼は自分を責めに責めた。だがフォッグ氏は従者に文句を言わなかった。ただキュナード埠頭《ふとう》を出るときにこう言っただけだった。「明日考えることにしよう。行こうか。」
 一行はジャージーシティ・フェリー・ボートでハドソン川を渡り、馬車に乗ってブロードウェーのセイント・ニコラス・ホテルに入った。部屋を取り、その晩ホテルに泊まった。フィリアス・フォッグは短いが深い眠りに落ちた。だがアウダたちは動揺のせいで眠れず、長い夜を過ごした。
 翌日は12日だった。12日の朝7時から21日の夜8時45分までの間は、9日と13時間45分あった。もしフィリアス・フォッグがチャイナ号で出航していれば、チャイナ号は大西洋で航海している船の中でも最速の部類に入っていたから、約束の期間内にリヴァプール、そしてロンドンに着けるはずであった。
 フォッグ氏はひとりでホテルを出た。パスパルトゥーには帰りを待つように言い、アウダにはいつでも出発できるよう用意をしておくようにと話していた。彼はハドソン川の土手に行き、港や川に停泊している船を見回し、今すぐ出発しようとしている船を探した。何隻かが出航の合図を送り、朝の潮流に乗って沖に出ようとしていた。実際、ニューヨークという巨大な良港では、日に100隻を超える船が、世界各地へ向けて出航しているのだ。だが、出航しようとしているのはほとんど帆船であった。もちろん、帆船ではフォッグ氏の役には立たないのだ。
 フォッグ氏がいよいよあきらめようとしたそのとき、砲台の下、200メートル足らずのところに、一隻の商船が停まっているのが目に入った。船体はほっそりとしていて、煙突からモクモクと煙を吐いていた。それはこの船が、もう出航準備ができていることを示していた。
 フィリアス・フォッグはボートを呼び、それに乗って、アンリエッタ号に乗り込んだ。アンリエッタ号は下部が鉄製で上部が木造の船であった。フォッグ氏はデッキに上がって、船長に会いたいと言った。すると船長が出てきた。船長は50くらいの、海賊みたいな男だった。大きな目、さびた銅のような顔色、赤い髪に太い首を持ち、怒鳴り声で話をしていた。
 「船長ですか。」フォッグ氏が尋ねた。
 「俺が船長だ。」
 「私はロンドンに住むフィリアス・フォッグといいます。」
 「俺はカージフのアンドリュー・スピーディだ。」
 「今から出航ですか。」
 「1時間以内にな。」
 「どこに行かれますか。」
 「ボルドーだ。」
 「積み荷はなんですか。」
 「何も積んどらん。バラストだけだ。」
 「乗客はいますか。」
 「いない。絶対乗せないんだ。道中面倒なんでな。」
 「船は速いですか。」
 「11から12ノットで走るんだ。アンリエッタ号はちったぁ知られてるんだぜ。」
 「あのですね、我々4人をリヴァプールまで運んでいただけませんか。」
 「リヴァプール? なぜシナじゃないんだ?」
 「リヴァプールと言っているんです。」
 「ダメだ!」
 「ダメですか?」
 「ダメだ。俺はボルドーに行くつもりなんだから、ボルドーに行くんだ。」
 「お金はいくらでも払います。」
 「絶対ダメだ!」
 問答無用といった感じだった。
 「では、アンリエッタ号のオーナーは。」フォッグ氏は話を進めた。
 「オーナーは俺だ。」船長が答えた。「船は俺のものだ。」
 「では船を貸してください。」
 「ダメだ。」
 「では船を売ってください。」
 「ダメだ。」
 フィリアス・フォッグの顔色は変わらなかったが、状況は深刻だった。ここはニューヨークであってホンコンではなかった。アンリエッタ号の船長はタンカディア号の船長ではなかった。これまではお金があらゆる問題を解決してきた。今はお金は役に立たなかった。
 しかし、なんとかして大西洋を渡る方法を見つけなければならなかった。気球を使うのでなければ、船で渡るしかなかった。気球は危険を伴うし、実際問題として使うことはできないのだった。ここで、フォッグ氏は何かを思いついたようだった。船長にこんな事を言ったのだ。「分かりました。では、我々をボルドーまで乗せていってくれませんか。」
 「200ドルもらっても断る。」
 「2000ドル払いましょう。」
 「ひとりにかね?」
 「ひとりにです。」
 「4人といったね。」
 「4人です。」
 スピーディ船長は頭を掻きだした。目の前に8000ドルがある。しかも行き先を変えずに手に入るのだ。それは乗客に対するあらゆる不満を我慢するに値するものだった。第一、2000ドル払う乗客は、もう乗客とは言えない。貴重な商品なのだ。
 「船は9時に出航する。」スピーディ船長はただそう言った。「お前たちの用意はできてるか?」
 「9時にデッキで会いましょう。」フォッグ氏は答えた。
 時刻は8時30分だった。フォッグ氏はアンリエッタ号から降り、馬車に乗って、セイント・ニコラス・ホテルにとって返した。そして、アウダやパスパルトゥー、さらにいつもくっついて離れないフィックスとともに、アンリエッタ号に帰ってきた。こういった仕事をフォッグ氏は素速く、そしていつも変わらぬ冷静さでもって実行した。アンリエッタ号が錨を揚げるころには一行はデッキにいた。
 パスパルトゥーはこの最後の航海にかかる費用を聞いて、思わず「あぁ、あぁ、あぁ……。」と長いため息をついた。その声はだんだんと低くなっていくのだった。
 一方フィックスはこんな独り言を言っていた。イングランド銀行が損害を被るのは間違いないだろう。イングランドに着く頃には、フォッグが札束を海に捨てなくたって、すでに7000ポンド以上のお金を使ってしまってるからなぁ。

..フィリアス・フォッグはどんなときにも自分自身を見失わないこと
 1時間後、アンリエッタ号はハドソン川の入り口を指し示す灯台のそばを通り、サンデーフック岬を回って海に出た。その日、船はロングアイランド島沿いを通り、ファイア島を通り、一路東に進んでいった。
 翌正午、男がひとりブリッジに立ち、船の位置を確かめていた。もちろんその人はスピーディ船長であるはずだった。だがそうではなかった。なんと、フィリアス・フォッグその人であった。スピーディ船長はというと、彼の部屋に鍵をかけられ、閉じこめられていた。船長は大声でわめいていた。当然ではあるが、もうれつに怒り狂っていた。
 事実は簡単だった。フィリアス・フォッグはリヴァプールに行きたかったのだが、船長はそれを承知しなかった。それゆえ、フィリアス・フォッグはボルドー行の船に乗り込み、30時間ほどの間に、札束でもって水夫や火夫をうまいこと買収してしまったのだった。彼らはただの雇われ乗務員にすぎなかったし、船長との関係はよいとは言えなかったから、みんなフォッグ氏の方についてしまったのだ。これが、フィリアス・フォッグがスピーディ船長のかわりに船を指揮していて、船長がとらわれの身になっていた理由である。つまりそういったわけで、アンリエッタ号はリヴァプールへとその針路を変えていたのだった。
 この冒険がいかなる終わりを迎えるか、すぐに分かるだろう。アウダは心配であったが、何も言わなかった。パスパルトゥーは、フォッグ氏の計略に脱帽するばかりだった。船長はアンリエッタ号が「11から12ノットで」進むといっていたが、その言葉に嘘はなかった。
 それでもしも―またもしもだ―海があまり荒れないで、いい風が東から吹き続けて、船体やエンジンに事故が起こらなかったら、アンリエッタ号はニューヨークからリヴァプールまでの3000マイルを、12日から21日までの9日間で渡りきれるかもしれないのだ。ただし到着した瞬間、アンリエッタ号事件とイングランド銀行強盗の件が重なって、フォッグ氏に、想像を超える困難が襲いかかる可能性もあるのだった。
 最初の何日かは、船は順調に進んでいた。海は静かな方だったし、風はいつも北東に向かっていたから、アンリエッタ号は帆をあげて、大西洋横断用の汽船のごとく波をかき分けていた。
 パスパルトゥーは嬉しくてたまらなかった。主人の手柄に心を奪われていた。その手柄がどんな結果をもたらすのかは考えなかった。彼は乗組員たちにない愉快さと器用さを持っていた。水夫たちと気軽に話し込み、ときにはアクロバットで水夫たちをびっくりさせた。彼の目には、水夫たちは紳士のように船を動かし、火夫たちは勇士のように火を焚いているように見えるのだった。パスパルトゥーの上機嫌なおしゃべりのおかげで、みんなが上機嫌になった。彼は今までのことや、遅れていることによる焦りを忘れてしまっていた。頭の中は、まもなくたどり着くはずの旅の終わりのことでいっぱいだった。ときたま焦りでかっとはなった。アンリエッタ号の炉で熱くなったのだろうか。そして、フィックスのそばをうろつき、熱心に、かつ疑い深く見つめたりもした。だが、話しかけることはなかった。以前の旧交はもう消え去っていたのだ。
 フィックスはというと、今までのことがまるで理解できていないと言わねばならない。アンリエッタ号の強奪、乗組員へのわいろ、フォッグ氏の操船技術の巧みさを見て、驚きとまどっていた。どう考えればいいのか分からなかった。結局、55000ポンドを盗んだやつが、船を一隻盗むのは簡単だろうと考えた。そして、フィックスはこう結論づけた。アンリエッタ号は、フォッグ氏の命令のもと、リヴァプールに行くものと見せかけて、強盗から海賊へと職業替えして、静かに身の安全を確保しようとしているのだろう。この考えは彼にはもっともらしく見えた。そして、この仕事に関わったことを心底後悔しだしていた。
 スピーディ船長は、依然として船室で怒り狂っていた。パスパルトゥーが船長に食事を運ぶ任務を仰せつかり、最大級に警戒しながらも、勇敢に任務をこなした。フォッグ氏は、船長が船に乗っているということを無視しているようだった。
 13日に、船はニューファンドランド島付近を通過した。そこは危険な場所であった。特に冬になると、頻繁に霧におおわれ、強風も吹きつけてくる場所だった。前の晩からずっと、気圧計は大幅に落ち込んでいた。これは上空の大気が変化していることを示していた。夜のうちに温度も下がり、鋭い寒さが船を襲った。風も南東へと吹き出した。
 これはフォッグ氏には災難だった。フォッグ氏は、航路から外れないように、帆をたたんで火を強くした。しかし、船の速度は落ち、海にできた大きな波が船尾にぶつかって砕けた。船は激しく揺れ、速度も落ちてしまった。風はだんだん嵐に近づいていった。アンリエッタ号が波のせいで横倒しになる事態さえ予想された。
 空を見ていたパスパルトゥーの顔が曇った。そして、2日間ずっと恐怖を感じていた。しかし、フィリアス・フォッグは肝のすわった水夫であった。海の上でどうやって前に進ませればいいかをよく心得ていた。火の勢いを保ちつつ、船をまっすぐ走らせていった。アンリエッタ号は、波頭に登れないときには波に突っ込んでいき、デッキを水浸しにしながらも無事に航海していった。ときどきスクリューが波のせいで水から出てしまい、空回りすることもあったが、それでも船はまっすぐ進み続けた。
 思っていたほど風は激しくはならなかった。時速90マイルを記録するような大嵐にはならなかった。しかし、風は吹いていた。不幸にも、東南からずっと吹き続けていたから、帆は役に立たなかった。
 12月16日、フィリアス・フォッグがロンドンを出発してから75日経っていた。アンリエッタ号はそれほど遅れてはいなかった。航海も半ばを数え、しかも最悪の地点はすぎていた。夏であれば、成功はほとんどまちがいなかった。今は冬だったから、悪条件がつきまとっていた。パスパルトゥーは何も言わなかったが心中ひそかに希望を抱いていた。もし風が吹かなくたって、まだ蒸気があるさと考えていた。
 この日、機関士がデッキに上がってきて、フォッグ氏に歩み寄り、深刻そうに話をしていた。パスパルトゥーは、なぜか分からぬまま―たぶん虫の知らせだろう―ばくぜんと不安を抱いた。片方の耳で2人の話を聞き取れたら、もう片方は人にやっても惜しくはなかっただろう。だが、彼には2、3の言葉、特に主人が言った次の言葉しか聞こえなかった。「君の言うことはまちがいないんですね。」
 「まちがいありません。」機関士は答えた。「いいですか、出航以来、常に炉の火をがんがん焚き続けたんです。ニューヨークからボルドーまでたまに火を焚きながら行けるだけの石炭は積んでいましたが、ニューヨークからリヴァプールまで全速力で行けるだけの石炭は積んでないんです。」
 「考えておきます。」フォッグ氏が答えた。
 パスパルトゥーはすべてを理解した。死ぬくらいの恐怖を覚えた。石炭が足りなくなったのだ!
 「あぁ、もしご主人様がこの危機を解決できたら、」パスパルトゥーはつぶやいた。「まさしく英雄と言えるだろう。」
 彼は自分が聞いたことをフィックスに言わずにいられなかった。
 「君はまだこの船がリヴァプールに行くと思ってるのか?」
 「もちろんだ。」
 「バカバカしい!」探偵はそう言うと、肩をすくめ、歩いていった。
 パスパルトゥーはその言葉を聞いて怒りを覚えたが、この言葉が何を意味しているのかはまったく分からなかった。あの運が悪いフィックスは、きっと深い失望を味わい、自尊心を傷つけられたんだろう、偽の手がかりを追って世界一周をしてしまったんだからなと考え、返事をしなかった。
 ところで、フィリアス・フォッグはこの難局をどう乗り切るつもりだろうか? 全く想像できなかった。それでも、何か決心したようだった。この日の夕方、機関士を呼んでこう言ったのだ。「石炭がなくなるまで火を焚き続けてください。」
 すこし後、アンリエッタ号の煙突が勢いよく煙を吐き始めた。船は蒸気の力だけで進んでいった。だが、18日になって機関士が、前に言ったとおり、今日じゅうに石炭がなくなるでしょうと言ってきた。
 「火を絶やさないでください。」フォッグ氏は答えた。「石炭がつきるまで炊き続けるんです。バルブを閉めないでください。」
 正午ごろ、フィリアス・フォッグは船の位置を確かめた後、パスパルトゥーを呼び、スピーディ船長を連れてくるよう命令した。パスパルトゥーの様子は、トラを放せと言われたみたいだった。こうつぶやきながら、後甲板に降りていった。「船長はきっと狂ったように暴れるだろうな!」
 2、3分して、怒号や罵声が後甲板の方から聞こえてきた。まさしく爆弾であった。その爆弾はスピーディ船長であった。怒りが爆発しているに違いなかった。「いま、どこにいるんだ!」怒りとともにまずこう口にした。怒りのあまり卒倒しかねなかった。それでも怒りはおさまりそうになかった。
 「いま、どこにいるんだ!」船長は顔を真っ赤にしながら、こう繰り返した。
 「リヴァプールから707マイルのところです。」落ち着いた様子でフォッグ氏が答えた。
 「海賊め!」スピーディ船長が答えた。
 「あなたをここへ呼んだのは―。」
 「悪党め!」
 「―船を売っていただきたいのです。」フォッグ氏は続けた。
 「ダメだ! どんな悪魔にでもダメだ!」
 「この船を燃やさなければならないのです。」
 「アンリエッタを燃やす!」
 「そうです。少なくとも、上の部分を。石炭がなくなったんです。」
 「船を燃やす!」スピーディ船長の声はかすれ、ほとんど聞き取れなかった。「この船…50000ドルも…するんだぞ!」
 「ここに60000ドルあります。」フィリアス・フォッグはこう話し、船長に札束を一巻き手渡した。このことが、アンドリュー・スピーディに莫大な影響を及ぼした。60000ドルを見て心が動かないアメリカ人はほとんどいないのだ。船長の怒りはすぐおさまった。監禁されたことや、乗客に対する恨みなどは忘れてしまったのである。アンリエッタ号は建造されてから20年経っていた。それがこんな値段で売れるとは思わなかった。爆弾はもう破裂しなくなった。フォッグ氏が火を消してしまったからである。
 「鉄の部分は俺のものだろうな。」船長の声は前より柔らかかった。
 「鉄の部分とエンジンはあなたのものです。いいですね。」
 「いいだろう。」
 そしてアンドリュー・スピーディは、札束をつかんで枚数を数え、ポケットに入れた。
 この会話の間、パスパルトゥーの顔は船の帆みたいに真っ白だった。フィックスは卒倒してしまうように思われた。フォッグのやつめ、20000ポンド近く使ってしまって、しかも船体とエンジン、つまり船のほぼ全体を船長にくれてやるなんて! やつの盗んだ金が55000ポンドになることは明白だ!
 アンドリュー・スピーディがお金をポケットに入れると、フォッグ氏は船長にこう言った。「驚かないでください。12月21日の午後8時45分までにロンドンに着かなければ、私は20000ポンドを失ってしまうのです。私はニューヨークで汽船に乗り遅れました。そしてあなたが私をリヴァプールに連れていくことを拒否しましたので……。」
 「それで俺は得したわけだ。」アンドリュー・スピーディは大声を上げた。「おかげで40000ドル以上もうかったぜ!」そしてやや平静を取り戻し、こう言った。「申すまでもないですが、えーと……。」
 「フォッグです。」
 「フォッグ船長、あなたはヤンキー気質をお持ちですな。」
 こんなふうに彼なりにほめた後、立ち去ろうとした。その背中にフォッグ氏が声をかけた。「では、船は私のものですね。」
 「そうです。竜骨からマストまで、木の部分は全部あなたのものです。」
 「いいでしょう。部屋にある寝台と骨組みを壊して、燃やしてしまいましょう。」
 蒸気圧を適切に維持するために、乾いた木が必要だった。この日、船尾楼、船室、船室の寝台、上甲板などが壊された。翌12月19日には、マスト、筏《いかだ》、帆桁《ほげた》が燃やされた。乗組員はさかんに働き、火を維持した。パスパルトゥーも切ったり挽《ひ》いたりに全力を挙げた。そこには完全に破壊してしまおうという熱狂があった。
 20日には、甲板の欄干、船の設備、それから甲板の大部分がなくなってしまっていた。アンリエッタ号は今や廃船同様となってしまっていた。だがこの日、アイルランドの海岸とファストネットの灯りが視界に入ってきた。夜10時、船はクイーンズタウン沖を航海していた。フィリアス・フォッグはあと24時間でロンドンに到着しなければならなかった。蒸気船でリヴァプールに着くには24時間が必要だった。そして、蒸気はもうなくなりかけていた!
 「船長、」今やフォッグ氏の計画に深い関心を寄せていたスピーディ船長が話しかけてきた。「残念だが、すべてはあんたに不利なようだ。俺達はまだクイーンズタウンの沖合にいるからな。」
 「あぁ、」フォッグ氏が答えた。「あの灯りが見えるあたりがクイーンズタウンですね。」
 「そうだ。」
 「港に入ることはできますか。」
 「3時間経たないとダメだ。満潮時にしか入れないんだ。」
 「待ちましょう。」フォッグ氏は静かに答えた。何も顔に表さなかったが、すばらしい案が頭に浮かんだため、不幸に対して敢然と立ちむかうことにしたのだ。
 クイーンズタウンは、アイルランドにおいて大西洋を横断する船が郵便物を水揚げする港である。これら郵便物は、待ちかまえている急行列車によってダブリンに運ばれていく。そしてダブリンからリヴァプールまで最も速い船で輸送される。この方法を使えば、船で行くよりも12時間早くリヴァプールに着けるのである。
 フィリアス・フォッグはこの方法で12時間稼ごうと考えたのだ。アンリエッタ号で行けば明日の夜にしかリヴァプールに着かないが、この方法なら正午にリヴァプールに着くはずだった。従って、夜8時45分よりも前にロンドンに到着できる余裕があるのだった。
 アンリエッタ号は満潮を待ち、午前1時にクイーンズタウンに入港した。フィリアス・フォッグはスピーディ船長と固く握手を交わし、平らになった老朽船を船長にあげた。平らになったといっても、船はまだスピーディ船長が手にいれた売値の半分の価値はあった。
 一行はすぐに上陸した。フィックスはフォッグ氏をその場で逮捕したい衝動に駆られた。だが彼はそうしなかった。なぜだろう? 彼の頭の中で、どんな葛藤があったのだろうか? 彼は「この男」に対する考えを変えたのだろうか? あるいは、自分は重大なまちがいを犯したと思ったのだろうか? それでも、フィックスはフォッグ氏を見捨てなかった。
 一行は列車に乗り込んだ。ちょうど1時半の列車が発車しようとしていた。夜明けごろ、一行はダブリンに着いた。すぐに船に乗らなければならなかった。船は荒れた海を突き進み、波を乗りこえていった。
 12月21日、午前11時40分、フィリアス・フォッグはついにリヴァプールの埠頭《ふとう》に立った。いよいよあとわずか6時間でロンドンにたどり着けるのだ。
 そのときフィックスが歩み寄り、フォッグ氏の肩に手をかけ、逮捕状を見せてこう言ったのだった。「フィリアス・フォッグだね。」
 「そうです。」
 「女王陛下の名において、君を逮捕する!」

..フィリアス・フォッグがついにロンドンに到着すること
 フィリアス・フォッグは拘置所にいた。税関の事務所に閉じこめられたのだ。そして、翌日にロンドンに移送されることになっていた。
 パスパルトゥーは、主人が逮捕されたのを見て、フィックスに飛びかかったが、警官たちに取り押さえられた。アウダは目の前の光景にただびっくりするばかりだった。そんなアウダにパスパルトゥーは、誠実で勇敢な紳士であるフォッグ氏が強盗とみなされて逮捕されたことを説明した。アウダはその憎むべき告発に反感を覚え、自分を助けてくれた人を救うために何もできない自分を見て、涙を流して悲しんだ。
 フィックスについて言うと、フォッグ氏が有罪か無罪かとは関係なく、単に逮捕する義務があっただけなのだった。
 さて、パスパルトゥーはふいにある考えに思い当たった。この新しい不運を招いた原因は自分にあるのだ! 俺はフィックスの目的を主人に知らせただろうか? フィックスが、本当の職業と旅の目的を暴露したときに、なんでフォッグ氏に言わなかったのだろうか? もしそれをフォッグ氏に告げていれば、彼は必ずや自分が無実である証拠をフィックスに示して、冤罪《えんざい》をはらしたはずなのだ。少なくとも、フィックスが彼を尾行し続けるための費用は出さなかったはずだ。そうすれば、英国領土に一歩足を踏み入れたとたんに逮捕されることはなかったはずなのだ。パスパルトゥーは泣きじゃくった。まぬけだった自分の頭を吹き飛ばしてしまいたいとまで思った。
 アウダとパスパルトゥーは、寒さなど物ともせず、玄関の柱廊に残った。ここを出たいとはどちらも思わなかった。今一度フォッグ氏に会いたいと強く願っていた。
 フォッグ氏は本当に破産してしまった。いまこの瞬間こそが、世界一周の旅が終わりを告げた瞬間であった。この逮捕は不運だった。12月21日、11時40分にリヴァプールに着いたのだから、リフォーム・クラブに8時45分までに到着するにはまだ9時間と15分残っていた。リヴァプールからロンドンまでは6時間で行けるのだ。
 この瞬間、誰かが税関の事務所に入ってきたならば、その人はフォッグ氏が、身動きもせず、ただ静かに、怒りを表すこともなく、木の椅子に座っているのを見たであろう。彼はあきらめてしまったのだろうか? それは正しくない。それでも、この最後の不運も、彼に感情をあらわにさせるには至らなかった。フォッグ氏は、最後に突然立ちはだかった障害の中で、何か押さえがたい激情に身をまかせているのだろうか? とにかく、誰もが口をつぐんでいた。椅子に座って、フォッグ氏は待っていた。何を待っていたんだろう? まだ希望を抱いていたのだろうか? フォッグ氏は、拘置所のドアが閉められているにもかかわらず、まだ成功を信じていたのだろうか?
 ともあれ、フォッグ氏は時計を慎重にテーブルの上に置き、時計の針が動いていくのを眺めていた。何も言葉は出さないものの、その表情は硬く、厳しいものだった。とにかく、事態は大詰めを迎えていた。状況はこんなふうに要約できるだろう。
 正直な男フィリアス・フォッグが破産した。
 悪党フィリアス・フォッグが逮捕された。
 フォッグ氏は逃げようとしただろうか? もしかしたらこの拘置所から抜けられる出口があるかどうか探しただろうか? そのあとに、逃げようと考えただろうか? たぶんそうしたのだろう。一度だけ、閉じこめられている部屋をゆっくり歩いたのだから。しかし、ドアには錠がかけられ、窓には鉄格子《てつごうし》がしっかりとはまっていた。フォッグ氏はまた椅子に座った。そして、ポケットから日記帳を取り出した。一番下に、「12月21日土曜日、リヴァプール」と書かれていた。そこに、「80日目、午前11時40分」と書き足し、そして待った。
 税関事務所の時計が時を告げた。フォッグ氏はすでに2時間以上も経ってしまったことを知った。
 2時間経ってしまった! いまこの瞬間に急行列車に乗れたら、午後8時45分にロンドンのリフォーム・クラブに到着することができたのだ。フォッグ氏の眉間《みけん》にしわが寄った。
 2時33分、フォッグ氏は外が騒がしいことに気づいた。音に続き、ドアが勢いよく開けられた。パスパルトゥーの声が聞こえてきた。フィックスの声も聞こえてきた。フィリアス・フォッグの目がきらっと光った。
 ドアはパタパタ揺れていた。フォッグ氏はパスパルトゥー、アウダ、そしてフィックスを見た。フィックスがつかつか歩いてきた。
 フィックスは息を切らし、髪もバサバサだった。声を出せない状態だった。それでも、とぎれとぎれに話し出した。「フォッグさん…私を…許して……とても…不幸な…誤解でした…強盗は3日前に…逮捕されてました…あなたは…もう…自由なのです……。」
 フィリアス・フォッグは放免されたのだ!彼は探偵の方に歩み寄り、じっと顔を見すえ、これまで一度もしたことがなく、今後も二度としないくらいの、一世一代の早業《はやわざ》で、腕を引いて、機械的な動作でフィックスを殴り倒した。
 「拳《Point》命中!」パスパルトゥーは叫んだ。「これこそイギリスのレース《Poing》の見事なアップリケというもんだ!」
 床に倒れたフィックスは何も言わなかった。当然の報いを受けただけだからだ。フォッグ氏、アウダ、パスパルトゥーはすぐに税関を後にした。道でタクシーを拾い、数分で駅に降り立った。
 フィリアス・フォッグは、ロンドン行の急行の有無を尋ねた。そのとき時刻は2時42分。急行は35分前に出発してしまっていた。
 するとフィリアス・フォッグは特別列車を頼んだ。
 駅には足の速い機関車がいくつか待機していた。しかし、ダイヤを調整する必要があったから、特別列車は3時まで駅で待っていなければならなかった。
 その間にフィリアス・フォッグは、気前よく報酬を約束して機関士を乗り気にさせていた。ついにアウダたちはロンドンに向けて出発した。全行程を5時間半で走る必要があった。これは容易なものと思われた。だが、途中で何度か停車する必要があったため、フォッグ氏が終着駅に降り立ったときには、ロンドン中のあらゆる時計が8時50分を打っていた[#英訳者注]。
 フォッグ氏は世界一周旅行を達成したが、5分遅れてしまったのだった。つまり、賭けに負けてしまったのだ!

[#英訳者注]この点はロンドンの時計の幾分風変わりで注目すべき部分だろうか?

..フィリアス・フォッグは命令を二度従者にいう必要がなかったこと
 サヴィル街に住んでいる人たちが、もうフィリアス・フォッグが帰ってきてるんですよといわれたら、きっとびっくりしただろう。屋敷のドアや窓はまだ閉まっていた。表面上は何の変化も見られなかった。
 駅を出た後、フォッグ氏はパスパルトゥーに食べ物を買いに行くよう命じて、静かに家に帰っていった。
 フォッグ氏は、いつも通り静かに不幸を耐えていた。彼は破産してしまった! それも探偵のへまによってだ! 長旅を着実に遂行し、多くの障害に打ち勝ち、危機に対して勇敢に立ちむかい、余裕があるときにはいささかの善行も施してきたのだ。それなのに彼は、ゴールを目前にして、予期せぬ突然の―つまり、対処法を考えていなかった―障害にはばまれてしまったのだ。全くひどいものだ! ところで、フォッグ氏が持っていった莫大な金はもういくらも残っていなかった。残りの財産はベアリング商会に預けていた二万ポンドだけだったが、このお金はリフォーム・クラブにいる彼の友人たちに借金のかたとして取られる運命にあった。フォッグ氏は世界一周のために莫大な金を使っていたから、たとえ賭けに勝ったとしても、あまりもうけは出なかっただろうし、それにフォッグ氏は、もともと金を得るためにというよりは、名誉を守るために賭けを提案したのだ。だが、この賭けのせいでフォッグ氏は破産に追い込まれたのだ。
 それでも、フォッグ氏はこれからどうするかはすでに決めていた。自分に残されたなすべきことを十分心得ていた。
 サヴィル街にあるフォッグ氏の屋敷の一室が、アウダのために提供された。アウダは自分を保護してくれた人の身にふりかかった不幸を思い、悲しみに沈んでいた。フォッグ氏がもらした言葉から、アウダはフォッグ氏が、よからぬことをたくらんでいるのではないかと気が気でなかった。
 イギリス人というものが、ときどきよこしまな考えにとりつかれて、自殺という向こう見ずな手段に訴えることはよく知られている。パスパルトゥーもまた、それとなく主人の行動を監視していた。
 それでもパスパルトゥーは、屋敷に着くないなや彼の部屋に走っていき、八十日間燃え続けていたガスバーナーの火を消した。郵便受けに入っていたガス会社からの請求書を見つけ、「やれやれ、これ以上請求がかさんだら、払えなくなるところだった。」と思った。
 寝る時間になった。フォッグ氏はベッドに入ったが、果たして眠ったのだろうか? アウダは一晩中ずっと目を開けていた。パスパルトゥーは、忠犬がよくやるように、一晩中主人のドアを見張っていた。
 朝になると、フォッグ氏は従者を呼び、アウダのために朝食を作れ、自分は紅茶とトーストだけでいいと言った。そして、自分はやらなければならない仕事があるから朝食も夕食もご一緒できないが、夜になったらアウダと話がしたい、そのことをアウダに言っておいてくれと従者に告げた。
 パスパルトゥーは命令を受けたのだから、その通りにする以外になかった。だが、落ち着き払った主人を見ていると、その場から離れる気になれなかった。胸がいっぱいになった。心は後悔でずたずたになっていた。この取り返しのつかない不幸は自分のせいだという思いが彼を苦しめていた。そうだ! もし俺がご主人様に、フィックスのもくろみを話して注意を促していれば、ご主人様はあいつをリヴァプールまで連れてはこなかっただろう。そうしたら……。
 パスパルトゥーはたまらなくなってこう叫んだ。
 「ご主人様! フォッグ様! みんな私が悪かったのです。私の責任だったのです……。」
 「私は誰も責めんよ。」フォッグ氏の声は冷静そのものだった。「さあ行くんだ。」
 パスパルトゥーは主人の部屋を出て、アウダを探しあて、フォッグ氏の言葉を伝えた。
 「奥様、」彼は伝言にこうつけ加えた。「私には何もできません…何にもです! 私では、ご主人様に影響を及ぼさないのです。ですが奥様なら、あるいは……。」
 「私に何ができましょうか?」アウダは答えた。「フォッグさんは誰の影響も受けないのです。あの方への感謝の念でいっぱいな私の気持ちをあの方は分かっているのでしょうか? 私の心を読みとっているのでしょうか? ねぇパスパルトゥーさん、あの方を片時もひとりにしておいてはいけませんよ! ところで、あの方は今晩私とお話があると言っていたのですね。」
 「そうです、奥様。たぶん、あなたの英国での生活についてお話ししたいのでしょう。」
 「では、お待ちしましょう。」アウダは答え、深いもの思いに沈んだ。
 この日(日曜日だった)を通じて、サヴィル街の屋敷は無人の館そのものだった。そしてフィリアス・フォッグは、この家に住んでから初めて、ウエストミンスター寺院の時計が十一時半を打っても、リフォーム・クラブに行かなかった。
 なぜフォッグ氏はリフォーム・クラブに行かなかったのだろうか? 友人たちが彼に会う必要はもうなかったのだ。フィリアス・フォッグは、昨日の夕方、つまり十二月二十一日午後八時四十五分にサロンに姿を見せなかった時点で、賭けに負けているのだった。銀行に二万ポンドを取りに行く必要すらなかった。相手方はすでに小切手を持っていたから、それに裏書きしてベアリング商会に換金を願い出ればそれでよかった。
 だから、フォッグ氏には出かける理由がなかった。だがら自宅にこもりっきりだった。彼は部屋に閉じこもり、仕事に余念がなかった。パスパルトゥーは絶えず階段を上り下りした。時間が長く感じられた。主人の部屋のドアに耳をあて、鍵穴から部屋をのぞき込んだ。まるで彼自身にそうしたことができる権利があるみたいだった。そのふるまいは、何か恐ろしいことが起こりはしないかとびくびくしている感じだった。ときたま彼はフィックスのことを思った。そこにはもう怒りはなかった。フィックスも、他のみんなのようにフィリアス・フォッグを誤解していて、そして職務上の義務に従ってフォッグ氏を尾行し、逮捕しただけなんだ。俺はといえばああだこうだと苦悩していた。自分のみじめさ、バカさかげんにずっとぐちをこぼしていた。
 パスパルトゥーは、ひとりでいるつらさに耐えかねて、アウダの部屋をノックして、中に入った。彼は部屋の一隅に座り込み、何も言わずただ悲しげにアウダを見つめていた。アウダはずっと物思いにふけっていた。
 午後七時半ごろ、フォッグ氏はアウダにこれから会いたいと伝えた。数分後、彼はアウダと二人きりになった。
 フィリアス・フォッグは暖炉のそばの椅子に座り、アウダと向かい合った。その顔には何の表情もなかった。帰国後のフォッグは、出発前のフォッグであった。同じ冷静さ。同じ沈着さ。
 すわってからしばらく、フォッグ氏は無言だった。やおらアウダを見すえて、こう話し出した。「マダム、英国まであなたをお連れしたことをお許しくださいますか。」
 「まぁフォッグさん。」アウダは答えた。胸が思わずときめいた。
 「終わりまで言わせてください。」フォッグ氏は言った。「私があなたを連れて、あなたにとってもう安全ではなくなったあの国から出ようと決めたときには、私はお金持ちでした。財産の一部をあなたのために使うつもりでした。あの時はあなたの生活を、自由で幸福なものにするつもりでした。ですが今、私は破産してしまいました。」
 「存じております、フォッグさん。」アウダは答えた。「ですが、私の方からもおうかがいしなければなりませんわ。ここまであなたにくっついてきたことや、それから、旅行を遅らせて、さらにはあなたを破産にまで追い込んだことをお許しくださいますでしょうか?」
 「マダム、あなたはインドにとどまることはできませんでした。あなたの安全を保証するためには、あの狂信者どもがあなたに手を出せなくなるまで遠くにあなたをお連れするしかありませんでした。」
 「それでフォッグさん、」アウダは続けた。「あなたは私をあの恐ろしい死から救うだけでなく、外国での私の生活をも保障しようとお考えになったのですね。」
 「そうです。しかし運命は私に背を向けました。ですが、まだすこしばかりのものが残っています。それをお使いください。」
 「それで、あなたはどうなるのですか、フォッグさん。」
 「私ですか、」フォッグ氏は冷静に答えていた。「私は何もいりません。」
 「ですがあなたは今後、どうするおつもりですの?」
 「適当にやっていきますよ。」
 「どちらにしても、」アウダは続けた。「あなたのような方がお困りになってはいけませんわ。お友達が―。」
 「私には友達はいません。」
 「では、ご親戚などが―。」
 「ひとりもおりません。」
 「まぁ、お気の毒に。フォッグさん、孤独というものは寂しいものです。深い悲しみを分かちあう人が誰もいらっしゃらないなんて……。人はよくこう言いますわ、困難も二人で分かちあえば、なんとか耐えていけるものだって。」
 「そんなことを言ってますね。」
 「フォッグさん。」ここでアウダは立ち上がり、フォッグ氏の手を握りしめてこう言った。「あなたは親戚と友人を一度にお望みですか? 私をあなたの妻にしていただけないでしょうか?」
 フォッグ氏はこの言葉を聞いて立ち上がった。その瞳は異常な輝きを放っていた。くちびるはかすかに震えていた。アウダがフォッグ氏の顔を見つめていた。その柔らかい視線の中には、誠実、正直、堅い決心、そして優しさがあった。命の恩人に報いるためには、どんな苦労もあえて辞さない、という決意がそこにはあった。フォッグ氏はその目線に驚いた。フォッグ氏の中で何かが変化していった。アウダの視線を避けるかのように、一瞬目を閉じた。再び目を開けたときのフォッグ氏の答えは、単純だった。「あなたを愛してます。もっとも神聖な方に誓って、あなたを愛します。すべてをあなたに捧げます。」
 「あぁ。」アウダはそう言うと、フォッグ氏の手を自分の胸に持っていった。
 パスパルトゥーが呼ばれ、すぐに参上した。フォッグ氏はまだアウダの手を握りしめていた。パスパルトゥーはすべてを理解した。大きな丸顔が熱帯の空にあがった太陽みたいに赤くなった。
 フォッグ氏はパスパルトゥーに、これからメリールボーン教区のサミュエル・ウィルソン師のところに結婚を申し出ようと思うんだが、遅すぎないかな、と尋ねた。
 パスパルトゥーはいかにも嬉しそうに、「決して遅くはございません。」と言った。
 時刻は八時五分だった。
 「明日の月曜でよろしゅうございますか。」
 「明日の月曜でいいかい。」フォッグ氏はアウダに向かって言った。
 「はい、明日の月曜に。」アウダは答えた。
 パスパルトゥーは急いでそこを辞去した。できる限りのスピードで走っていった。

..フィリアス・フォッグの名前が市場で再び価値を持つこと
 ところで、銀行強盗の真犯人であるジェームズ・ストランドなる者が、十二月十七日にエジンバラで逮捕されてから、イギリスの世論《よろん》は変化していた。三日前までフィリアス・フォッグは犯罪者であった。警察が捕まえようと全力を挙げる身だった。ところが今や、風変わりな世界一周旅行を数学的にこなしていく、尊敬すべき紳士となっていた。
 新聞が再び賭けについて記事を書いた。賭けの成否を問わず、賭け金に再び関心が集まりだした。魔法にでもかかったかのごとく、「フィリアス・フォッグ株」がまた取引の対象となった。新しい賭けも数多くなされるようになった。フィリアス・フォッグの名は再び市場価値を持ち始めた。
 フィリアス・フォッグの友人である五人のリフォーム・クラブ員は、この三日間を、非常な不安の中で過ごした。五人は彼のことをすっかり忘れていたが、その目の前にフィリアス・フォッグが再び姿を現したのだ! ところで、今彼はどこにいるんだろう? 十二月十七日、すなわちジェームズ・ストランドが逮捕された日は、フィリアス・フォッグ出発から七十六日目であった。この時まで、彼に関するニュースは伝わってきてなかった。フィリアス・フォッグは死んでしまったのだろうか? それとも、宣言したルートに沿って旅行を続けているのだろうか? そして十二月二十一日土曜日、午後八時四十五分に、旅行の出発点であるリフォーム・クラブのサロンに姿を見せるのだろうか?
 この三日間、ロンドン中をいかなる不安がおおっていたかを描くことはできないだろう。フィリアス・フォッグの消息を知ろうと、アメリカやアジアに電報が打たれた。朝な夕な、伝令がサヴィル街の屋敷に送られた。ニュースは何もなかった。警察は、不幸にも偽の犯人を追いかけてしまった探偵―フィックスのことだ―の行方をつかんでいなかった。それでも、賭けはますます盛んになっていった。大金もかかるようになった。フィリアス・フォッグは、競走馬のように、最終コーナーを回っているところだった。契約は再び効力を持つようになった。もう彼の負け百パーセントと思う者はいなかった。それでも二十パーセント、十パーセント、あるいは五パーセントは、なお彼の負けだと思っていた。その中で、老中風患者アルビマール卿だけは、相変わらず彼の勝利を信じて疑わなかった。
 土曜の夕方には、数多くの群衆がペルメル町、およびその周辺の街路に集まった。仲買人たちが、てこでも動かないぞとばかりにリフォーム・クラブの周りに集まっていた。交通はとどこおった。至る所で、言い争いや議論、そして株取引が行われいていた。警察も群衆を整理するのに大わらわだった。フィリアス・フォッグの到着予定時間が近づくとともに、群衆の興奮も最高潮をむかえていた。
 フィリアス・フォッグの賭けの相手五人は、すでにクラブの大ホールにいた。二人の銀行家ジョン・サリヴァンとサミュエル・ファレンティン、技師アンドリュー・スチュアート、、イングランド銀行副総裁ゴージャー・ラルフ、ビール醸造業者トマス・フラナガン、みな彼のことを心配しつつ待っていた。ホールの時計が午後八時二十五分を指したとき、アンドリュー・スチュアートが立ち上がってこういった。「諸君、あと二十分で、フォッグ君がぼくたちに約束した期限になるんだ。」
 「リヴァプールからの最終列車はいつ着いたんだ?」トマス・フラナガンが聞いた。
 「七時二十三分着だ。」ゴージャー・ラルフが答えた。次の列車は十二時十分まで到着しないよ。」
 「では諸君、」アンドリュー・スチュアートが話し出した。「もしフィリアス・フォッグが七時二十三分の列車でやってきたんなら、今くらいにここに来てたはずだ。だから、ぼくたちは賭けに勝ったんだ。」
 「おい、そう結論を急ぐもんじゃないよ。」サミュエル・ファレンティンが言い返した。「フォッグ君がとても変わっているということはよく分かっているだろう。彼は時間をきっちり守る男として有名だ。いつも時間どおりに現れる男なんだよ。最後の瞬間にぼくたちの前に現れても、ぼくは驚かんよ。」
 「しかしね、」アンドリュー・スチュアートはいらいらしていた。「目の前に姿を見せても、ぼくにはそれがフォッグだってことを信じることはできないね。」
 「実際ね、」トマス・フラナガンが話し出した。「フォッグ君の計画は全くもってばかばかしかった。彼が予定を守ったとしても、何日かの遅れは避けられないものだ。二、三日遅れただけで、彼には致命的と言えるだろう。」
 「それにだ、」ジョン・サリヴァンが話に割りこんできた。「ぼくたちはフォッグ君からのたよりを受け取っていない。彼が通る道には電送線が引いてあるにもかかわらず、送ってきてないんだぜ。」
 「つまりフォッグ君は負けたんだ。」アンドリュー・スチュアートは言った。「完全に失敗したんだ。いいかい、チャイナ号が―ここに予定どおりに到着するためにニューヨークで乗るべき唯一の船だ―昨日港に着いた。ぼくは乗客名簿を見たんだが、フィリアス・フォッグの名前はそこにはなかった。たとえ彼の運が良かったとしても、今ごろアメリカに到着したくらいだろうよ。少なくとも二十日は遅れているとぼくは思うよ。アルビマール卿は五千ポンドを失うに違いないよ。」
 「きっとそうだ。」ゴージャー・ラルフが言った。「あとは明日、ベアリング商会にフォッグ君の小切手を持っていけばそれでいいんだ。」
 このとき、クラブ備え付けの時計の針は八時四十分を示していた。
 「あと五分だ。」アンドリュー・スチュアートが言った。
 五人は互いに顔を見合わせた。時とともに不安が募った。しかし顔に出ないよう努力していた。フラナガン氏の提案に従い、一同はカードのテーブルに向かった。
 椅子に座るとき、アンドリュー・スチュアートがこう言った。「もし誰かが三千九百九十九ポンド出すと言ったって、ぼくは四千ポンドの賭けをあきらめることはないよ。」
 時計は八時四十二分を示していた。
 一同はカードを手に取ったものの、その目は時計に釘付けだった。もちろん、自信を持ってはいたが、きっとこれほど長い時間を過ごしたことはなかっただろう!
 「八時四十三分だ。」トマス・フラナガンがそう言いながらラルフに手渡されたカードを切っていた。
 そして一同は沈黙した。大ホールは全くもって静かだった。だが外から、群衆のざわめき、そして金切り声まで聞こえてきた。時計の振り子が刻々と、数学的正確さで時を刻んでいた。五人は熱心にそれを数えていた。
 「八時四十四分!」ジョン・サリヴァンは言った。その声には感動がこもっていた。
 あと一分で五人は賭けに勝てるのだ。アンドリュー・スチュアートたちはゲームをやめた。カードを放り出して、時を数えた。
 四十秒。何も起こらなかった。五十秒。まだ何もなかった。五十五秒、このとき通りで大歓声が響いた。続いて拍手が起こった。バンザイする声とうなり声もその中に混じっていた。
 一同は席から立ち上がった。
 時計が五十七秒を刻んだとき、ホールのドアが開いた。六十秒を刻む前に、フィリアス・フォッグは姿を現した。興奮のあまりクラブのドアを押し破った群衆がその後ろからなだれ込んできた。例の静かな声で、フィリアス・フォッグは言った。「ただいま、諸君。」

..フィリアス・フォッグが世界一周旅行で幸福以外に何も得ていないように見えること
 そう、フィリアス・フォッグその人であった。
 読者諸君には、午後八時五分、すなわちロンドン到着後およそ二十五時間後に、パスパルトゥーが主人に呼ばれて、サミュエル・ウィルソン師のところへ行ったことを思いだしていただきたい。用件はもちろん、明日結婚式を挙げたいので、それをお願いしたいというものであった。
 パスパルトゥーは命令を果たそうと夢中だった。牧師の家にはすぐ着いた。だが牧師は留守だった。彼はたっぷり二十分待った。牧師の家を出たのは八時三十五分だった。だが、その格好といったら! 髪はボサボサ、帽子を落としたのもかまわず、パスパルトゥーは走りに走った。通行人を突き飛ばした。竜巻のように歩道を疾走した。
 三分後、パスパルトゥーはサヴィル街の屋敷に帰ってきた。よろよろとフォッグ氏の部屋に入ってきた。
 口をきくことができなかった。
 「どうしたんだ。」フォッグ氏が聞いた。
 「ご主人様……、」あえぎながらパスパルトゥーは言った。「式は…あげられません……。」
 「できない?」
 「できません…明日は……。」
 「それはなぜかね。」
 「明日は…日曜日です!」
 「月曜日だ。」フォッグ氏が言った。
 「いいえ…今日は…土曜日です……。」
 「土曜日だと? そんなはずはない。」
 「いいえ、いいえ、いいえ、違うのです。」パスパルトゥーは叫んだ。「一日日を間違えてらっしゃるのです!私たちは、二十四時間前に到着しているのです。ですが、あと十分しかございません!」
 パスパルトゥーは主人の襟をつかみ、無双の強力で引っぱっていった。
 フィリアス・フォッグには考える間もなかった。屋敷を出て、馬車に飛び乗った。御者に百ポンドはずんだ。犬を二匹はね飛ばした。馬車五台にぶつかった。そしてリフォーム・クラブに到着したのである。
 フィリアス・フォッグが大ホールに現れたそのとき、時計の針は八時四十五分を指していた。
 フィリアス・フォッグは、八十日間で世界を一周することに成功したのだ!
 そして、二万ポンドの賭けに勝ったのである!
 さて、正確さに対して細心の注意を払っていたフィリアス・フォッグが、どうして一日日付を間違えてしまったのだろうか? 彼はなぜ、ロンドンに到着した日を十二月二十一日土曜日と考えていたのだろう? 本当は二十日金曜日、出発から七十九日目であったのに……。
 彼のまちがいは簡単に説明できる。
 フィリアス・フォッグは、彼自身も知らぬ間に一日の余裕を得ていた。これは彼が、東へ東へと旅行していたからこそ起こったことである。もし彼が、西へ西へと旅行していたら、一日失っていたことだろう。
 東に旅行していったことで、フィリアス・フォッグは太陽に向かっていくこととなった。そしてこのため、彼が経線を一度越すたびに四分ずつ日が短くなっていったのだ。地球上には経線が三百六十度ある。そして三百六十×四は、すなわち二十四時間となる。従って、フィリアス・フォッグは無意識のうちに一日得したことになるのだ。言い換えると、東に旅行していたフィリアス・フォッグは太陽が八十回昇るのを見ていたのだが、ロンドンにいた彼の友人は七十九回しか見ていなかったのだ。そういうわけで、友人がリフォーム・クラブで彼を待っていた日は、フォッグ氏が思っていた日曜日ではなく、土曜日だったのである。
 パスパルトゥーが持っていたあの時計―常にロンドン時間を指していたあれのことだ―が、もしも時刻とともに日付も示していたら、この事実は一目瞭然だったのである。
 そして、フィリアス・フォッグは二万ポンドを手にいれた。しかし、旅の途中で一万九千ポンド近く使っていたから、彼のもうけは少なかった。だが、フィリアス・フォッグの目的は賭けに勝つことであり、お金を手に入れることではなかった。それでフォッグ氏は、手に入れた千ポンドを、パスパルトゥーと哀れなフィックスとに分け与えた。そう、フォッグ氏はフィックスになんの恨みも持っていなかったのだ。だが、規則は規則であった。千九百二十時間燃やし続けたガス灯の代金は、パスパルトゥーの取り分から支払われた。
 その夜フォッグ氏は、今までどおり冷静さを保ちつつ、アウダにこう言った。「まだ私と結婚する気がおありなのでしょうか。」
 「フォッグさん。」アウダは答えた。「私の方こそそれをお聞きしたいですわ。あのときあなたは破産の身でした。ですが、今はお金持ちでいらっしゃいます。」
 「失礼ですが、私の財産はあなたのものです。あなたが結婚を申し出なかったら、パスパルトゥーはサミュエル・ウィルソン師のところに行かなかったでしょう。そうしたら、私はあやまちを知ることはなかったでしょう、そして……。」
 「あぁ、フォッグさん!」アウダが言った。
 「あぁ、アウダ!」フォッグ氏も言った。
 そののち四十八時間後に結婚式がとりおこなわれたことは言うまでもないだろう。パスパルトゥーは真剣に、そして見事に花嫁の介添え役を務めた。パスパルトゥーがアウダの命を救ったのであるから、この名誉を受ける資格はあったと言えるだろう。
 翌日夜が明けたころ、パスパルトゥーが主人のドアをどんどんと叩いた。フォッグ氏はドアを開けて、「どうした、パスパルトゥー。」と言った。
 「いいですか、だんな様、今ふっと思ったのですが……。」
 「なんだね。」
 「私たちは、世界一周を七十八日間でできたかもしれないんです。」
 「確かにね。」フォッグ氏は答えた。「インドを横切らなかったらできただろうね。だけど、インドを横切らなかったら、アウダを救うこともなかっただろう。そして、アウダが私の妻になることもなかっただろうね……。」
 そして、フォッグ氏は静かにドアを閉めた。
 フィリアス・フォッグは賭けに勝った。八十日間で世界一周を成し遂げたのだ。そのために彼はあらゆる乗り物を使った。汽船、鉄道、馬車、ヨット、貨物船、そり、そしてゾウまで使ったのだ。かの風変わりな紳士は、この旅に際して、驚くべき冷静さと正確さを、最大限に発揮した。だが、それが何になったのか? 彼はあの障害を乗り越えたことで、いったい何を得たのであろうか? あの長くつらい旅路から、彼は何を持って帰ったのだろうか?
 何もないって? そうかもしれない。確かに、素敵な女性を除けば、何も持って帰ってはこなかった。しかし、信じられないことではあるが、この女性は彼をもっとも幸せな男にしてしまったのである。
 実際、もっと得るものが少なかったとしても、あなたは世界一周旅行をする気になるのではないだろうか。


原作:Around the World in 80 Days[Junior Edition](from Project Gutenberg)原文はこちら。

原作者:Jules Verne

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作者不明 | 22:36 | 読書感想(0) | トラックバック(0) | 最初の頁へ

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