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科学のカリキュラムで創造説? 

序論
この論文は進行中の創造説科学にたいする公開論争、しばしば論理の混乱が目立つ(あるいはそれが特徴とさえなっている)論争を明瞭にしようとする試みなんだ。この論戦は相反する目的で議論されており、一般に(しばしば辛辣な皮肉を混ぜこんだ)見かけ倒しの考察であり、あらゆる陣営からの参戦者でますます盛んになっているようなんだ。この混乱は大部分、あらゆる見解の狂信者が直接に主張されている以上のものを含んだ問題から意見を引き出そうとして利用する意図的な不明瞭化、修辞的なごまかし、屁理屈に根差しているのは間違いない。だけど、混乱の多くは、用語法のその分野特有の不正確さ、それに合理的議論、特に科学的議論の基本原則が正真正銘の理解できてないことからも、生じているんだ。



中心となる論争そのものは、ダーウィンの進化説と聖書の創造説のどちらが正しいかの衝突、つまりは、真理を認識するために設定した基準によっかかった、これからもずっと答えることのできないような問題だって、しょっちゅう誤って伝えられている。でも、実際のところ、論議が行われている通常の討議の場というのは、直接的な社会的帰結を伴うようなもっと特定の問題に関わっている。その問題っていうのは、ぼくらの学校の科学のクラスで科学のカリキュラムの正規の一部として(いうならば、ダーウィン理論と同じ時間を当てて)、創造説科学を教えるのかって問題だ。

この論文は後の問題に焦点を絞り、次のような解答を提案する。すなわち、創造説科学の創造説は科学のカリキュラムで教えるべきではない。それは、創造説が真実ではないからではなく、それが科学ではないからだ。この解答は、注意しておいて欲しいのだが、聖書の創造説を学校のカリキュラムの別のところで教えるべきかどうかという問題は、未決のままにしている。

上に述べた解答にいたる議論の概略を述べる過程で、いうなれば、なにか明晰さが確立され、そうすることで、結論に同意しない人たちが、この論文から、少なくとも、問題についても、それにこの問題についての論争がいつもきまりきって破壊工作を受けてしまうその筋道のいくつかについても、明確な理解を引き出して欲しいと期待している。

いくつかの用語法
論争に貢献する(あるいは他の人々の立場を理解する)本質的な第一歩というのは、彼らの重要用語(この論争ではたいていひどく不正確だ)で彼らが何を意味しているか明確に理解することだ。したがって、この論文の残りの部分を明快にするため、議論の基礎となる言葉で何を意味しているのか、できるだけはっきりと定義しておこう。

進化論とは、その根本となる生物学的意味では、単に動植物の形態がそれとは著しく異なった形態から発展することを意味している(例えば鳥類が爬虫類から発展したり、人類が高等な類人猿から発展したり)。この用語はこの過程がどういうふうに起こるかってことについては何も主張していない。この単純な定義は、(どうであれ、それが起こったという)出来事だけを言っているんだ。したがって、(指摘しておくと)ダーウィン主義者でなくたって進化論者であること(つまり進化を信じるってことだけど)はできる(歴史を調べるとそういう人たちの例はいくつも見つかる)。この論文にこの後の部分を理解するには、読者は(いつも、特に科学者がそうしてるみたいに)進化論とダーウィン主義という二つの用語を直接ごちゃ混ぜにしてはならない。この二つの用語は別々のものを定義しているんだ。

進化論に反対する学説は種の固定論という。この学説は(動物でも植物でも)種は固定していて、安定していて、永続的だって主張している。同じ種の中でも個体間にはある程度変異があり(明白な事実だ)、ある種は明らかに別の種ととても似ている(例えば犬と狼)。しかしこの学説にしたがえば、種はお互いに独立して出現したことになる。その上、この学説は、どうやってこういう種が出現したってことの説明はなにもしない。

この二つの間には、たくさんの中間的な立場がある。いわゆる限定進化論は、ある種はそれに近縁の種から生じたが、こういう種分化の形態は限られたものだと主張する。それで、例えば、魚類の異なる種は進化によって一つ以上の魚類の共通祖先から発展してきたのかもしれないとする。けれど限定進化論はある大きな群から別の群が(例えば魚類から鳥類が)進化する可能性は否定するんだ。

この論文で(それに一般でも)使われる創造説というのは、種の発展や植物と動物の多様性は創世記に書かれたとおり、神による種の創造として起こったという信念のことを言う。だから、創造説は種の固定説(進化なし)という学説を信奉し、生命の多様性を別々の神に創造の御業がなされたことで説明する。創世記の説明を(特に創造の段階の順序と時間まで)文字通りの真実だと信じる創造説論者は、原理主義者と呼ばれることが多い。その他のさまざまな創造説論者が創世記が真実だと信じているが、この説明を寓意的に読んでいる(例えば、創世記の説明の各一日は本当の一日ではなく、創造の格段階はとても長い期間続いたんだとかね)。創造説科学(たいていは創造説と交換可能に使われる用語だ)は、創造説を信じることが科学的立場であって、したがって現代の進化理論に置き換わる科学的な選択肢とみるべきだという主張を伴った創造説の信奉のことを言う。だから、創造説科学者でない(すなわち、創世記の説明が科学的立場だと主張しない)創造説論者(つまり創世記の説明を信じている人)ってのが存在しうる。

ダーウィン主義という用語(重ねて言うが、この論文で使われるかぎりで)は、チャールズ・ダーウィンが展開し、進化論を支持し、(自然選択かその他のメカニズムによって)どんなふうに進化が起こったかの説明を提案してきた現代の生物学者によって多くの修正を受けてきた理論のことを言う。ダーウィン主義をその他の進化理論を分けている重要な要素は次のものだ。ダーウィン理論は進化のメカニズムの中心には、なんの知的目的意識のないランダムで機械的過程があると主張する(これについては後でもっと述べる)。動物や植物のこのランダムな変異は、個々の動植物に、その種の他の個体よりもよい生をまっとうできるような利点をもたらすことがある。長い期間たつと、こうした累積した有利な変異は、古い種からの新しい種の創造に導くような重大な変化をもたらすだろう。

最後に、この論争で決定的に重要な用語は、科学という言葉だ。この複雑な問題についての長い議論に加わらなくても、一方で同時に科学の正確な定義というのは議論の余地の多い問題だと分かっているので、科学とは観測によって公けにかつ繰り返し検証できる予測を生み出す物理的モデルや理論を使って自然現象を説明する方法である、と提唱しておこう(どうか注意しておいてもらいたのだが、ここでは、予測が基いている現実の過程を観測することにではなく、予測の結果を観測することに、力点が置かれているのだ)。このようなモデルや理論は、物理的(例えば、運動中の物質や力、衝突、物理的反作用)で合理的(できれば数学的)でなくてはならない。非自然的な力や魔法、形而上的因子、物理法則の規則的作用の何か説明のつかない変化、神的干渉などに訴えかけるとたちまち、科学者であることを止めることになる。

進化論の強い論証
上述の定義の基礎の上に、進化論の科学的妥当性の強い論証を行うことが可能になる。次の事実を考えてみよう。このすべてが、科学の確立した手法によって、反証できないほど確かなものとなっている。

植物界にも動物界にも多くの変種がいる。動植物のある種は、他の種よりもっと複雑な有機構造を持っている。
あらゆる生物は少なくとも一つの生きた親から生じる。(つまり生命は非生命から自然発生することはない。)
もっとも単純な形態の動植物が地球上に現れたのは、より複雑な形態のものよりずっと以前である(このことは化石の地質学的連続から確かめられている)。
上の主張が科学的に妥当ならば(この言葉には注意しておいて欲しいのだが)、複雑な生命形態はあまり複雑でない生命形態からどうにかして出現したにちがいないという明白な結論以外に、ぼくたちがたどり着ける合理的な結論は存在しない。言い換えると、複雑な動物は(もはやあまり似ていない)あまり複雑でない動物から進化したんだ。この結論を受け入れるのを拒否するのは、合理的でも科学的でもない。結論を受け入れるのを拒否するのは自由だけど、それが科学的で合理的な手続きだって主張するのはそうじゃない。

もちろん、上に述べた主張の一つでも誤っていれば、この進化論の強い論証はたちまち崩れてしまう。それで、(この論文で定義したような)科学的理論としての進化論の妥当性を拒絶する人たちに挑むことは、はっきりしている。この三つの主張のうちどれが間違っているのか、って聞くことだ。最初のものは自明に正しい。二番目のものは(フランケンシュタインのようなフィクションを除けば)いままで誤りであったためしはない。そして三番目のものも、地質学的記録の化石の連続を観察すれば、直ちに確かめることができる(例えば、グランドキャニオンの地層やその他の化石層が検証に使える)。

生命の起源についての問題が持ち上がるのは、この論証にとってはどうだっていいことだ(これは、もし機械的な原因の連鎖を過去へとたどっていけば、非機械的な出発点、つまり科学的説明の範囲外のなにかが論理的に必要になるってことを指摘する最初の原因の議論だ)。過程の起源の説明といったものは、科学の埒外にある(科学者がそのことに興味をもたないのはそのためなんだ)。それに、どんな場合でも、地球上に一旦成立した生命の継続的発展とは何の関係もないことだ。

上で概略を述べた進化論の論証にたいして反進化論者が呈示する通俗的な解答は、グランドキャニオンのような地質学的地形は、数日のうちに神の介入によって創造されたもので、したがって高いところの地層にある化石も低い地層の化石と同時に創られたのではないと推論する権利を誰も持ってはいないという議論です。これは、もちろん、真実なのかもしれない。けれど、こういう主張は、既知の物理的過程ではなく、超自然的な形而上的な介入やらなにかよくわからない(既知の物理法則に反する)物理過程に訴えかけていて、科学的ではない。

進化論の強い論証を取り扱うのに(上に述べたような)限定進化論に訴えても、同じ困難に陥る。例えば魚類のような大きな群の内部では進化論を容認すると、化石記録の物質的証拠については説明できるだろう。けれど一つの群から次の群(例えば、魚類から爬虫類への)進化を否定すると、では爬虫類は何から生じたのかという問題を未解決のままにする。爬虫類は神が特別に魚類より後に創造したと主張すると、これはまた、なんの予測も生まない非科学的理由に訴えかけることなんだ。

反進化論者にほぼ共通する反応
実際上も、理解できる理由からも、こうした進化論の敵対者が、上記の論証に直接(進化論が基づいている三つの主張のうちの一つを論破しようと)取り組むことはまれだ。そのかわりに、そのほとんど全精力をダーウィン理論のありそうな、あるいは事実に則した難点に集中するんだ。創造説科学を促進するために捧げられた多くのインターネットのページを調べる人は誰でも、ほとんどすべての記事が、創世記の科学的真理を確証したり、(上でやった)進化論の強い確証に挑戦するのではなくて、ダーウィン理論の限界にぼくらの注意を向ける試みだってことが、ただちによく分るだろう。

さて、こういう限界の多くは重要なのかもしれないが、こんなふうにしてそれに注意を惹きつけるのは、創造説の大義にはあまり有利ではない(もう納得させられたり、基礎的議論の論理不足が気にならない人を除けばだけど)。どうしてこういう攻撃が(修辞的効果はあるものの)論理的に説得性がないのはなぜか、概観しておこう。

第一に、気づかれたダーウィン理論の欠陥というのが、上に概略を述べた進化論の強い論証にはまるで害を及ぼさないんだ。この論証は、だれもダーウィン理論(これは進化論の妥当性を証明しようとする試みではなくて、どうやって進化が起るのかを説明しようとする試みなんだ)を聞いたことがなくても、同じように強い。たとえダーウィン理論が進化過程のメカニズムについて完全に間違っているという絶対拒否できない証拠があったって、進化論の論証はこれまでどおり強いままだ。もし進化論の概念そのものの信用を傷付けたければ、説明のためにダーウィン理論の特定の論点を引っぱるっていうのは、大いに注意をそらそうって代物だ。

第二には、進化過程の説明としてダーウィン理論を信用しないということは、なにか他の対抗している種の理論にたいして、特別の支持をなんら与えるものではない。もちろん創造説にたいしてだってそうだ。支持してるって思うのは、虚偽の両刀論法っていう基本的な論理の誤りの明白な実例なんだ。それでこの論理の誤りは、創造説科学論者が、自分たちの理論を提言するのにもっともよく使う修辞的策略なんだ。その事例は次のようなものだ。


種の発展の説明は、創世記の説とダーウィンの説の二つだけしかありえない。
しかしダーウィン説にはいくつもの難点がある。
だから、創世記の説は正しい(あるいは望ましい、もしくは同程度に我が派は注目されるに値する)。

ここでは誤りは明かだ。最初の主張が間違っているのははっきりしている。だって、種がどのように形成されたかを説明する物語は文字通り何百とあるんだから。実際どの文化も固有の物語を発展させてきた。それに科学自体の範囲内でも、いくつもの理論が競い合ってきたんだ。どれか特定の一つを放棄したり信じないってことが、残りんどれかに特に特権を与えることにはならない(それは、殺人事件で二十人の同等に疑わしい容疑者がいるとして、そのうち一人が犯罪を犯すことができなかったと証明することで、残り十九人の特定の一人が犯人だって結論が出せないのと同じことだ)。

科学的主張の本質とその主張についての意見の相違
上に述べた論理上の問題に加えて、ダーウィン理論に反対する創造説科学の立場の多くが、科学的探究の本質についての一般的な無知を(ときには極めて巧妙に)利用している。その途中で、ダーウィンを攻撃する人たちは、科学が何かってこと(あるいは科学がどう実行されるかってこと)を(故意にしろそうでないにしろ)理解できてないことを暴露するだけなく、しばらくの間自分たちの好ましい理論を埋没させる原理をいやいやながら呼び出してくる。

例えば、進化論は作用中のところを観察できないので、だからそれは妥当な科学的理論ではない、なぜなら、あらゆる科学的理論は(そう言われているのだが)研究中の過程についての直接的な観察によって確証されなければならないのだから、という主張がよくなされる。もちろんこれは事実ではない。多くの科学的な仮説モデルは、単純には直接観察できないんだ(例えば、分子の相互作用とか宇宙の辺縁の拡大だとか)。多くの科学的手続きの本質は、物理的現象の仮説モデルに基づく予測(モデルが説明しようと設計された事実性について直接的な観測に基づく証拠はなくてもよい)を作り、次に予測を検証することなんだ。科学的といわれる過程を特徴づけるのは、予測がなにか数量化可能な方法で、だれにでも、繰り返し、公開でチェックできるということだ。科学の作業の大部分は、こうした予測の検証を実施し、次に理論的モデルの諸側面を確証し、誤差や偏差や矛盾等々を発見することだ。

そういう手続きによって、進化論は明かに科学的なんだ。なぜなら、化石を産出する地層の詳細な研究のどれもが、事実上、理論の検証となっているからね。もしだれかが最古の岩石層に複雑な生命形態を発見すれば、そういう発見はその予測と完全に矛盾するから、進化論は困難に陥いる。こういう観察がいままで決して起らなかったという事実が、理論の妥当性にたいする最良の証明を与えてくれているんだ。

創造説科学論者の種の想像についての説明にたいするもっとも重大な反論の一つは、ちゃんと言うと、次の点なんだ。神が世界とそのうちにある万物をどのように創造されたかという物語は、けっして観察できない(この点では、それは進化論よりもずっと大きな欠点がある)だけでなく、創世記の物語は、それがまったく科学的な妥当性を持っていない(つまり、もしあらゆる種が同時に形成されたのなら、化石を産出する地層のどの層にもあらゆる型の種が見つかるはずだ)ということを繰り返し偽ってきたもの以外には、実質上、検証可能な予測をなにも生み出していない。

同じようにして、ダーウィン理論の難点を指摘することが、自動的にその理論を信用に値しないものにするわけではない。科学者自身はこの理論の詳細を絶えず議論してきた。この理論の範囲内のあらゆる事柄(変異率、他の変異要因と比較した自然選択の重要性、遺伝的浮動、中間型の欠如、関わる時間の長さ、等々といった)にたいしては、対抗する解釈があるんだ。

創造説科学論者は、多くの時間をダーウィン理論の問題点を指摘することに費やしているけど、科学的理論がなんでも誰もが納得するように説明できなきゃ、理論の予測のどれかが疑わしけりゃ、変則的なものがあったら、理論全体が間違ってるにちがいない、と思ってるみたいな時がある。でも科学の進め方ってのはそうじゃないんだ。なにか興味をひく科学的理論はいつだって、科学者たちが議論する問題点を抱えている。科学者たちは、理論の基礎的仮定は承認しているようだけど、細部の多くについては意見が異り、基本モデルとの本質的調整を議論しているんだ。今日、生物学者たちの仲間内ほど誠実なところはないのだが、生物学者のほとんどが説明のための基本的枠組としてダーウィン理論を承認しているけれど、たいていこの枠組内の特定の細部や問題点については、極めて熱心な論争を行っているんだ。

実際、理論がこうした議論を生むのをやめ、細部のすべてが皆が納得するまでやりつくされると、たちまち科学者は理論についての興味を失う傾向がある(というのは、研究すべき面白い問題が差出されなくなるからね)。科学的探究の領域は、そこで、そっくりそのまま技術者に引き渡され、科学者たちはもっと問題に満ちた領域へと移っていくんだ。

付け加えておくと、理論が完全に説明できないか、あるいは理論が予測したものと明かに矛盾する自然現象があったとしても、理論が他の領域ではその説明に役立つ価値を保持したままだということも、よくあることなんだ。ニュートン理論は、例えば、素粒子の段階では成り立たない。だけど、そのことは、その理論がまだ妥当する領域でもそれを放棄するっていうことじゃない。ぼくらが人間を宇宙に送り出すときには、ぼらはまだニュートンの方程式を使っている。

ダーウィンその人の時代には、三つの大きな科学的反論があったことは、思い出す価値があるだろう。第一には、遷移型、つまり種の間の中間的化石の欠落。第二には、ダーウィンの遺伝の理論(二つの親からの素材が「混ぜ合わせる」という概念はダーウィン理論を数学的に不可能にした)。第三には、見積られた地球の年齢(高名な物理学者によれば、地球の冷えていく熱はダーウィン理論が正しいとするほどには、地球が古くはないだろうということを示していた)。後の二つの反論はその後の発見(メンデルの遺伝子と放射能)によって片付けられたし、最初の反論は何千もの遷移型の発見(だれもが納得するには十分な数ではないにしろ)によって対処された。ダーウィンの理論は科学的に不可能だと論じたがる人たちは、こうした初期の重大な反論という歴史を熟考するのが好きなのかもしれない。

要点は、ダーウィン理論が問題を生じていて、多くの反論に答えるのに難儀していて、ある観察結果には(少くとも今のところは)説明できていないことを、だれも否定できないってことだ。そうしたことを指摘するのは、今でも執拗に答を求めている重要な科学的問題を思い出させるものとして貴重だし、また何人かも科学教師にはそのしばしば薄れてしまう信念に歯止めをかけるには役に立つ挑戦ではあるだろう。継続中の議論にたいして創造説科学論者がなした最大の貢献は、こうした問題点に繰り返し注意を向けさせ、おおくの科学教師の自己満足した思い込みにショックを与えたことだ。しかし、こうした問題が必ずしも理論の資格剥奪にはならないし、それに創造説を科学理論としてもっと信用のおけるものにするようなことは何も付け加えていないのも確かなことなんだ。

創世記の寓意的解釈
創造説論者の中には、創世記は文字通りの種の創造の説明ではなくて、神の創造の手の下で生物が地球上に出現してきたいくつかの段階の寓意的記述だって認める人もいる。この主張が言うところでは、連続の順は化石の証拠と対応する。ただ単純に創世記の一日は、もっと長い期間だと読みかえればよいのだ。ある種から別の種への進化は存在しない。神は単にあらゆる種を別々の時期に創造したのだ。

こんな論議を呼ぶ動きは、当然にも原理主義者の見解(創世記は文字通りの説明だ)を破壊し、動物や植物の型の系列を、一度の創造の御業というより、何百万年にもわたる漸進的なもの(科学的証拠が示すように)と見ることを可能にする。しかしこの戦法は、創造説の科学的地位を改善すものはなにもない。なぜかと言うと、説明上の原因として、非物理的な神的介入に訴えかける必要があり、きちんと検証可能な予測の形成を促進するものは何もないからだ。

事実の説明のための理論的枠組みを調整することは、科学では標準的な作業だけど、理論は無限に調整可能なわけではない。もし創世記の説明が、科学がなにを発見しようと(神の超自然的力に訴えて)それに合うように寓意的に解釈したり寓意的に解釈しなおしたりできるのなら、理論は科学的には空虚なものになる。なぜなら、創意に富む寓意というものはなんだって説明できるからだ。(非科学的というマルクス主義理論やフロイド理論への標準的な批判)

創世記を寓意的に解釈することは、新しい発見の物質的、物理的な(つまり科学的な)説明(どんな科学的理論の標準的必要条件だ)にはなんの手助けにもならない。新しい種が発見されたとき、創世記が説明の方法として差出すものといえば、神がご自身の目的のためにその場所、その時代に、その種を創られたというだけなんだ。科学的観点からいうと、こうした説明には重要な内容がなにもない(つまり、科学的説明にはなにも差出さないし、検証すべき予測をなにも生み出さない)。進化論は、その反対に、この新しい種とこれまで知られている他の種とをつなぐ物質的変化の語られる歴史を跡づける(あるいは組み立てる)よう、ぼくらに促し、そうやって、その種の存在についての物質的説明を与えるが、これは観察で検証できる予測にたいする基礎となるものなのだ。

知的設計論
創造説科学論者がダーウィン理論に反対して起した議論で、最も古く、長く続き、興味深い議論に、いわゆる設計論、現代風の名前でいえば、知的設計論がある。簡単に言うと。この主張は、ある器官(目がその好例だ)の桁はずれの複雑さは、たくさんの小さな無作為の変化、それはどれも生存に有利なために選択されたのだが、単にその結果として生じてくることはありえない、と言うのだ(例えば、目の一パーセントの使用となんなのだろうか)。この反論に結びついているのは、小さな無作為の突然変異が偶然に目と同じような複雑なものを生みだすことを期待するのは、長い期間があるとしても、(タイプライタのキーを打つよう訓練した猿がシェークスピアの台詞を作るのを期待すのと同じように)統計的に不可能だという、もしかすると損害を与える主張だ。

目のような非常に複雑な器官の存在と多くの器官構造が神経、骨格、筋肉、血管等々の様々なシステムと複雑に結合している(そのどれか一つの要素に重大で無作為の変化が起ると有機体全体が悪いほうへ影響される)という事実によって、(多くの生物学者を含む)人々が、そうした驚くべき器官を創造した神的な設計者、至高の知性、神を存在を推論してきた。こうしたうまく機能する器官のこういう驚くほど込み入った設計をほかにどうやって説明できるだろうか。そして、こうした器官が有効に機能していることから、人は神の慈愛を推論している(それに多くの思想家が推論してきた)。神はその被造物の助けとしてこのような構造物を設計したいうんだ。

設計論は科学史でも現在の議論でもとても重要な概念なんだ。なぜなら、この概念はそれを引き合いに出す人に(目の構造のような)科学的事実と(至高の設計者としての神にような)神的存在とを結びつけることを可能にするからだ。事実、この議論は長い間、ロバート・ボイルやアイザック・ニュートンのような敬虔な宗教的人間が、科学の研究が宗教への大きな貢献なのだと主張する最も説得力のある方法だった。常識のレベルでも、知的設計論はもっともらしく聞こえる。動物の器官のシステムの完全な複雑さを理解しようとしはじめているなら、なおさらなんだ。どんなに時間があるとしたって、一連の無作為な変異がそういう複雑な器官を生み出すということを認めるのは難しい。

しかし(二百年以上も前にイマヌエル・カントが指摘したように)人は物理的証拠を基礎にして(神のような)非物理的存在についてなにか確実なことを結論づけることはできないという理由から、設計論は全く論理的に避けがたいものではない。このことは(卑小な現代的例を使えば)見知らぬ人の性格については、そのクレジット・カードの数字を基に確実な結論を出すようなものなのだ。無作為な変異が人間の目のようなものを生み出すことができると認めるのが困難だとしても、そういう構造の複雑さは、形而上的事物についての結論を出す十分な理由ではないんだ。

とはいうものの、日常の多くの科学的活動がある人たちには宗教的あるいは霊的な洞察をもたることは認めなくてはならない。多くの偉大な近代の物理学者が深い神秘的ないし宗教的感受性を持っており、その科学的研究で明らかにした素晴しく雄弁で複雑な設計の中に信仰の飛躍の励みを見てきたのは、おそらく偶然ではない。しかし、こうした神秘的な経験は、信仰の飛躍が科学的設計から論理的でやむにやまれず生じたり、その妥当性がそういう設計の存在によって論理的に確証されるという必要はないのだ。

有神論的進化論
もちろん、知的設計論の基本原理が種の創造についての創世記の説明に特に特権を与えるわけでない。というのは設計論は簡単に進化論と折り合いがつくからだ。しなければならないのは、神を(神がぼくらに明かにしようがすまいが)その目的にしたがって進化を導く力として見ることだけだ。その意味では、進化論は有神論、つまり神の信仰と完全に両立する。ダーウィン主義の無作為性、つまり知的設計のそれと分る欠如というのは、単に明かに、我ら人間の神の目的を知る能力がないことの働き(あるいはその説明に役立つ価値のためにぼくらが採用した都合のよいモデル)なのだと論じるにまで至りさえするだろう。

しかし、人がもはや科学者であることを止める地点では、人は物理的モデル、予測、観察可能な検証等々の世界から神の目的の領域へと移る瞬間から、人は科学の外部へと出るんだ。科学は明白に物理的過程という観点から物理的領域を理解する方法に限定しており、したがって、当然ながら神については何も明かにしないのだ。

科学と宗教の折り合い
上に述べた段落では、この論文のキーポイント、つまり神の信仰は非物理的ないし形而上的な力を信じることに基づき、それにたいし、科学は自然の物理的過程の観点での物理的出来事の説明に限定されるという点を強調してきた。だから、世界と世界のなかでのぼくらの立場を理解するこの二つの形式は、根本的に両立しないように見えるかもしれない。

このことは、科学と宗教、あるいはダーウィン生物学と創造説とが絶対折り合わないことを意味しているのだろうか。簡単に答えれば、ノーでありイエスでもある。ノーだというのは、上に述べたように、説明の二つの形式は妥当な理由とみなすもので根本的に異っているからだ。イエスというのは、科学と宗教のどちらも知識の補完的形式として共有された理解に到達できる異る方法であるからだ。

例えば、特権的な説明は実のところ、創世記の説であり、その説が、いわば正しいのであるが、同時に科学を有用ないし興味深い思考実験、真実だからでなく、なにかしら人間の目的(想像力を満足させたり、生活上のある問題を扱うのを助けるといった)に役立つから追い求める別の説明を提供するなにかだとして受け入れるという見解を採用することもできるんだ。

ここではゲームという類比が役に立つ。言うまでもなく、ぼくが熱烈な原理主義者であり、かつサッカー選手であることはできる。ぼくがサッカーをやるとき、あるルールがぼくの行動を規定していて、ぼくが何をでき、何をできないかを教えてくれ、ぼくのサッカーを評価する(ルールブックが進め方の典拠なんだ)。そして、ぼくはこのゲームをいろんな風に、鍛練のため、気晴らしのため、(もしとても上手なら)稼ぎのために、利用できる。しかし、ぼくがサッカーを真理と取り違えることは絶対にない。サッカーは、いろんな理由でぼくがやっているゲームなのだ。もしゲームが、なにかぼくの信仰に違反することを求めるなら(例えば、日曜日に試合するとか)、ぼくは自分の優先順位がどこにあるか知っている。科学にたいするこういう態度は、論理的に一貫しており、実際、コペルニクス(彼はカトリック僧であった)やデカルト、その他数しれぬ敬虔なキリスト教徒でもあった優れた科学者の間ではごく普通のものだ。彼らは唯物論的仮説を呈示したが、興味深い有用な思考実験としてであって、事物の真実としてではなかったんだ。

同じ思考形態の拡張によって、ダーウィン理論の心臓部にある無作為性(創造の目的という観念によって生物が駆り立てられ形造られて欲しい人にとっては困難の源泉)を、興味深い仮説か一時的仮象として、事物の真理に対応しているわけではないが、限定された状態にある人間の精神が自然についての有用な歴史的理解を構成するためには受け入れるしかないなにかとして、ぼくは容認することができる。

もう一つの選択として、もちろん、ダーウィン的科学と宗教的信念との折り合いをつけたい人は、宗教的信念をダーウィン理論のもとに包摂して、宗教的信念を生存のメカニズムとして片付けたがるかもしれない。宗教的信仰は生存のための闘争では(困難な時期に希望を与え、他の人が生き残れないところで生存可能にしてくれて)大きな強みとなる(と論じることもできるわけだ)のだから、ダーウィン理論の無神論的含みを認めるのを拒否するのは、理論の点で完全に理にかなっている(宗教的信念に向う傾向のようなものが遺伝的な形質だと認めるなら、なおさらそうだ)。こうしてダーウィン理論を受け入れることの広まっている拒絶についてのダーウィン側のもっともらしい説明がある。こういう立場が科学者を宗教的な精神的枠組へと向うよう勧めることはあまりない(と思える)が、一方では、宗教的信念にもっと寛容にし、筋金入りのダーウィン主義者が創造論者の前で時にみせる挫折感の伴った激昂や嘲笑をあまりみせないようにする。

しかし、どちらの場合も、宗教と科学の区別は明確だ。ぼくらは、どちらかを優先できるし、世界を知る方法の二つの独立した側面として見ることもできるけれど、それを似たような活動として同一視することはできない。なぜなら、物を知る方法として、それらは異った経験領域に焦点をあてており、異った規則で処理されているからだ。こう主張することは、ぼくらの経験を理解する方法としてどちらか一方が優れているとか、どちらか一方が事物の真理(それが正確にはなにを意味するにしろ)により接近できるとか、断言しているわけでない。

しかし、これは、二つの活動がどちらか一方に特有な同じ記述ラベルにいっしょに属することはないと主張しているのであって、いうなれば、サッカーとテニスという二つの異なるゲームは、サッカーかテニスのどちらかとして適切に記述できるという以上のことは、主張できない。サッカーにはルールがあって、サッカー選手はそのルールに従わなくてはならない。テニスでも同様なんだ。サッカー競技場にテニス・ラケットを持ち込み、点を入れるためにサッカー・ゴールにテニス・ボールを打ち込む権利を要求する人は、ゲームの得点を失なうだろうし、同じように、テニスの試合でネット越しにボールを蹴ったりヘッディングする権利を要求する人は、テニスの試合の点を失うことになる。科学の授業で創世記を教えろという創造説科学論者の要求は、それとなんの違いもない。なぜ科学ではないものを科学の授業で教えなくてはならないのだろうか。

最終の考察をいくつか
上の議論は種の起源についての創造説とかダーウィン説の真実や価値の相対的評価を定めようとそてきたわけでもないし、あるいは学校のカリキュラムに創世記の創造説を含めるべきか締め出すべきかということのもつ重要性についてのものでもない。序論で説明たように、最初から、創造説は科学のカリキュラムにふさわしくない(ドイツ語の強動詞がフランス語の授業にふさわしくないのと同じだ)と主張することが主眼点だった。

学校の生徒が、創世記だとか、ダーウィン理論の中のもっと明白な論点だとかについて、たまたま知りえたこと以上のものを理解することだ、とても重要だという理由については、いろいろと考え出すことができる。しかし創世記はなにか非科学の授業(比較宗教学とか重要な著作だとか)がふさわしいのであって、ダーウィン理論の扱いの本質的部分のようない科学の授業というわけではない。そしてダーウィン理論はダーウィン主義についての科学的討論という文脈に含まれるよう配慮されるだろう(そして配慮されるべきなんだ)。

もし創造説論者の意図がぼくらの学校で創造についての聖書の説明により広く、より忠実に精通することを奨励することにあるのなら、彼らなぜ科学のカリキュラムという風車に突進しつづけるのか、不思議なんだ。創世記の説は科学ではないのに、科学ではないからこそ価値があるのに、それをなぜ科学として売り込もうとするのか。創世記の説がほんとうは何であるのか、人を魅了する非常に重要な文化的な物語であり、多くの人のために彼らの宗教的世界理解の中心に立つものであるのだということに、焦点を絞って、人々を説得しようとなぜしないのだろうか。

おそらく、こういう疑問の答というのは、ぼくらの公的学校制度が宗教的教義を教えることを締め出している事実をどうにかしようということにあるんだ。それで、創世記をどこかのカリキュラムに入れようとすれば、科学のカリキュラムの中に偽装してこっそりと持ち込むしかないのだ。しかし、ぼくらが(ちゃんと賢明にも)科学のカリキュラムは科学だけに関わって、それ以外は関係しないのだと主張しているかぎり、この作戦は決してうまくいかない。


[この文書は、もっと短かい論文の増補版ですが、パブリック・ドメインであり、出所が表明されるかぎり、だれでも、負担も許諾もなしに、全部または一部を利用することができます。2001年1月公開、2002年12月若干改訂。]
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